釣り堀

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誰かに向けた応援歌――『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』1期+2期感想文

 

1. はじめに

 虹ヶ咲2期が終わり、ユニットライブを経て、気づけば虹ヶ咲2期1話が放送されてから既に1年以上が経ちました。その間に僕も学生から社会人へと身分を変え、時の流れを感じずにはいられません。今回は、そんな一年前に放送されていた虹ヶ咲2期についての感想文を書いていこうと思います。書こう書こうと思って先延ばしにしていたら、こんなに時間が経ってしまいました。

 2期の感想とは言いましたけれども、書きたいテーマを考えるとそれは1期から地続きにあるもので、1期の存在を無視することはできません。ということで、実際にはタイトルにある通り、本稿は1期+2期の感想文になります。

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 二年前に書いた1期の感想文があるのですが、大筋はこちらへ乗りつつ、さらに2期で得られた考えを加えていく形にしていきます。1期の感想文の内容は今回の記事でほとんどカバーしていくので読まなくて問題ありません。この記事単体で僕のアニメ虹ヶ咲観を一から伝えられればと思います。本稿の狙いは、第一に僕が僕のために考えをまとめることがありますが、もう一つ、「虹ヶ咲のアニメを見たけれどよく分からなかったな」という感想を抱いたオタクへ一つの見方を提供することを目標にしています。

 

 アニメ虹ヶ咲では「個性の尊重」「他者の存在」がテーマのコアにあり、二つを両輪にして物語が展開されました。本稿では、この二つの要素を中心にアニメ虹ヶ咲から読み取れたことを書いていきます。長くなりますがお付き合いいたたければ嬉しいです。

 

 以下では特に断りが無い限り、アニメの要素のみを取り上げていきます。ゲーム、書籍等の他媒体とは切り離して進めていくので、その点はよろしくお願いします。

 

2. 個性の尊重

 虹ヶ咲の特色を一つ挙げるなら、僕は「個性の尊重」を選びます。この作品に惹かれた大きな理由であり、虹ヶ咲の根幹を成す要素です。特に1期でフォーカスされ、丁寧に描かれた部分ですね。

 本章では、虹ヶ咲がどのようなアプローチで個性の尊重を描いていったのかを書いていきましょう。先に結論を一言でまとめるなら、「その人のやりたいことを応援する」になります。

 

2.1 衝動の肯定

 個性を尊重する虹ヶ咲の姿勢が最も顕著に表れているのは、その人が内に抱く衝動を肯定するところにあります。印象的なシーンを挙げれば枚挙に暇がないですが、特に1期1話で歩夢が放った「動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」を引用したいです。

 スクールアイドルを始めたいという衝動を抱き始めた歩夢は、それを制することは許されないと言っています。肯定というには強すぎるこの言葉は、自分自身の衝動に従うことを認める――正確には衝動に従うことをmustとする思想を虹ヶ咲が内包することを示しています。自分が本当にやりたいことをやれ、この思想は個性を尊重する姿勢そのものでしょう。

 

 とは言ったものの、なぜ衝動に身を委ねるのを認めれば個性の尊重になるのか。そのために、本稿における「衝動」という語の定義を説明しましょう。端的に、本稿で使用される衝動とは内発的動機づけの換言です。

 もう少し詳しく述べてみましょう。まず、人間の行動は全て、「何かをしたい」という動機づけ(motivation)に従って行われます。音楽を聴きたいからライブに行くとか、寂しい思いを紛らわせたいから友人と会うとか、お腹が空いたからご飯を食べるとか、歩き疲れたから椅子に座るとか、座っていたら足に不快感があるから足を組むとか、目が乾燥してきたから瞬きをするとか。意識しているかどうかの如何によらず、人間が何かをするのには必ず動機づけ(=理由)があります。

 そして、内発的動機づけとは、己の関心により生まれる動機づけです。敷衍すると「自分がそうしたいから」という気持ち。誰に強制されたわけでなく、没頭したところで利得があるわけでもなく、ただやりたいから熱中する趣味は内発的動機づけによる行動の最たる例でしょう。

補足:内発的動機づけとは、動機づけの分類の一種です。この概念の対に外発的動機づけがあります。外発的動機づけの詳しい説明は省きますが、簡単に、内発的動機づけ以外の動機づけと理解して良いでしょう。つまり、「したい」という気持ち以外の動機づけです。外発的動機づけによる行動は、結果的に達成したい目的が据えられているのが特徴です。例えば、お金が欲しいから仕事を頑張るとか、親に怒られたくないから勉強をするとか。翻って、内発的動機づけ、すなわち本稿における衝動は、それに従って為される行為自体が目的になります。趣味をしたいから趣味をする、など。

 簡潔にまとめます。「したい」という気持ちが内発的動機づけであり、本稿における衝動です。

 

 話を戻します。「したい」そのものである衝動を肯定することがなぜ個性の尊重になるのか。ここで、再び1期1話から「ピンクとか、可愛い服だって…今でも大好きだし、着てみたいって思う!自分に素直になりたい!」というセリフを引用したいです。これは歩夢の衝動を吐露する言葉ですね。可愛い服を着たい衝動、それを肯定した姿がすぐ後に披露される「Dream with You」の衣装でしょう。

 つまり、衝動が行動という形で自分の外側――この世界へ発露したとき、その姿は個性で彩られているのです。表現を変えましょう。個性とは、衝動によって為される行為の中に存在するのです。服の例は非常に分かりやすいと思います。自分の好きな服を着たいという衝動が世界に表出したとき、それは個性そのものなのです。

 もう少しこの話題で踏み込んでみましょう。侑から衝動を肯定され、自身でも己の衝動を肯定した歩夢はライブをしました。その姿は歩夢の個性そのもの。ゆえに、虹ヶ咲におけるライブとは、自身の個性をいかんなく表現する行いと言えます。2期8話の言葉を借りれば「自分を表現すること」。スクールアイドルのライブとは衝動を肯定した結果であり、個性が前景化した自己表現の姿なのです。

 

 作中のほとんどの人物は自身の衝動にストップをかけ、そのストップを破壊する手助けに他者から衝動を肯定されています。他者から衝動を肯定された登場人物は、次に自分自身で衝動を肯定しライブを披露します。分かりやすいのは、1期1話の歩夢以外に、1期3話のせつ菜、1期5話の果林、1期8話のしずく、そして2期7話の栞子あたりでしょうか。名前を挙げた彼女らは自身の衝動にストップをかけており、それぞれ、周囲に迷惑をかけることへの忌避感、自己を規定した枠組みから出ることへの足踏み、本当の自分を出すことへの恐怖、後悔することへの憂懼など、様々な理由から衝動の肯定を避けていました。

 衝動を制止しようとするこれらの理由――動機づけは内発的動機づけの衝動ではありません。悪い状況に陥ることを避けたいという外発的動機づけです。確かに、望ましくない状況から逃げようとするのもその人の選択に間違いありません。しかし、虹ヶ咲が肯定するのは衝動のみです。衝動を押さえつけ、他の道へ歩みを進めようとするのをこの作品は許容しません。「動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」。初めから、この姿勢は貫かれているのです。

 この作品が外発的動機づけにより衝動に蓋をするのを認めない強硬な思想を有しているのが見られるのは、特に1期5話・2期2話及び3話のエマ、2期7話の同好会などがあるでしょう。エマは非常に顕著な例で、相手が衝動を我慢していると察知すると、強引さをもって本心を開示するよう対峙します。また、2期7話では同好会全員がかけつけ、栞子に衝動を認めるよう圧力をかけます*1

 衝動に目を瞑ることへ非常に厳しい態度をとる虹ヶ咲ですが、反対に衝動へはどこまでも優しく寄り添います。印象的なのは1期7話です。このエピソードで、彼方はスクールアイドルを続けたい、勉学・アルバイトを疎かにしたくない、遥のスクールアイドル活動を応援したいと、自分のキャパシティを超えた欲張りな「ワガママ」を通そうとします。結果的に遥と役割を折半することで話はまとまるのですが、この「ワガママ」を虹ヶ咲では「自分に正直なこと」と表現しました。抱いた衝動をネガティブなものと捉えず、発露されるべき人間の本来の姿と極めてポジティブに扱っています。

 

 虹ヶ咲では、このようにその人が持つ衝動を肯定することが徹底されていました。衝動の中にその人の個性が存在すると言い、それをこの世界に表現するべきだというメッセージを含みながら。

 上で名前を挙げた人物たちは例外なく、自己の衝動とそれを封じる理性のストッパーのジレンマに苦しんでいました。作中ではこの理性のストッパーを取り払い、衝動に身を任せ、個性というその人本来の姿を表出させることが重要視されています。これが、虹ヶ咲に見られる個性の尊重でしょう。

 

「2.1 衝動の肯定」 要約
虹ヶ咲では衝動のみが肯定され、人の個性とは衝動の中に存在する。ライブに立つスクールアイドルは、衝動が肯定され個性が前景化した姿そのものである。

「目覚めてく 強く 裸足で駆け出していこう どんな私からも逃げたりしない」, Solitude Rain

2.2 他者の肯定

 前節では自身の衝動の肯定に焦点を当てていました。そして、自身の力だけで衝動を押さえつけるストッパーを壊すことが困難な人物が多くいたことも。そこで、身動きが取れず立ち往生する彼女たちには、背中を押してくれる誰かが必ず隣にいたのです。この背中を押してくれる他者の存在も、虹ヶ咲において重要な要素です。

 虹ヶ咲は単なる個人主義を謳った作品ではありません。同時に、隣にいてくれる他者の必要性についても説いています。それは、ほとんどの人物が他者の力を必要としていたところからも読み取れるでしょう。

 

 自身の衝動を肯定するよう要求していたように、虹ヶ咲は他者の衝動も肯定します。最も顕著な例は侑です。「あなた」として僕らファンの代名詞的存在として人格を与えられた侑。いかなるスクールアイドルですら応援し、1期1話の歩夢、1期3話のせつ菜を筆頭に、他者の衝動を肯定してきました。1期10話までの侑は、他者の衝動の肯定という役割に人格を与えた存在とまで言えるでしょう。

 侑はファンの代名詞という性格上、他者の衝動を肯定するのは必然にも思えます。しかし、肝要なのは侑だけがこの役割を担っていたわけではない点です。この例で分かりやすいのは1期8話のしずくとかすみの関係です。スクールアイドル桜坂しずくが衝動にストップをかけているのに対し、かすみはしずくの「あなた」として背中を押す役割に回ります。彼女自身が自己の衝動を肯定するスクールアイドルであるにも関わらずです。この例の他に、1期6話で璃奈を肯定する愛(と同好会メンバー)、1期12話で歩夢を肯定するせつ菜、2期6話でせつ菜を肯定する歩夢など、こちらもきりがありません。

 これらから言いたいのは、虹ヶ咲は自身の衝動を肯定するのと同時に、他者の衝動も肯定しているということです。この背中の押し合いは虹ヶ咲を見る上で重要な示唆になります。

 

「2.2 他者の肯定」 要約
虹ヶ咲では自身の衝動を肯定するのと同時に、他者の衝動も肯定している。また、それは人物間で循環している。

「自身持てなくってうつむいてた そんなわたしの背中 押してくれたね」, Dream with You

2.3 衝動を肯定した同好会

 その人の個性を尊重するため衝動の肯定がなされた結果、同好会がどうなったかについて書いていきましょう。まず、グループが一つにまとまることが困難になりました。正確には、ラブライブで結果を残せるグループにまとまることができなくなった。

 このことは1期2話及び3話で描かれています。これらのエピソードでは、ラブライブで納得のいくパフォーマンスを披露するため可愛さを追求したいかすみと、大好きを届けたいせつ菜の間に軋轢が生じました。これは、色の異なる個性が同じ方向を向こうとした結果です。そのため、せつ菜は自分の衝動を封じ込め同好会が一つになれるよう身を引く選択をしました。

 しかし、同好会のためという外発的動機づけにより衝動を覆い隠しスクールアイドルをやめる決断を虹ヶ咲は許しません。本当の気持ちを曝け出せとせつ菜に要請します。だけども、そうなるとかすみと再びぶつかることは避けられない。そこで、彼女らはラブライブに出ない選択をするのです。

 

 これは衝動を肯定できない環境にあるならば、その環境を破壊してしまえというメッセージです。それほどまでに虹ヶ咲はその人がやりたいことをやることに重きを置いています。

 メタな話で言えば、ラブライブという大会はシリーズの中で最重要の目標*2。それをかなぐり捨ててでも個性を尊重するのが虹ヶ咲の立ち位置です。

 もっとメタな話をすると、彼女たちは一つにまとまる必要がありませんでした。ラブライブに出る必要性が初めから存在していないからです。過去シリーズはラブライブで優勝することで果たしたい目的が据えられており、これを達成するためグループがまとまるよう外側から圧力がかけられていました。誤解を恐れぬ言い方をするなら、彼女たちは外発的動機づけによりグループとしての体をなしていたのです。しかし、虹ヶ咲にはラブライブで結果を残すことにより達成したい事柄が存在しません。廃校の危機に瀕し、これを覆したいシチュエーションではありません。従って、ラブライブに出ない選択をすることができました。

 この選択は虹ヶ咲が純粋に個性の尊重を描くため足場を固める地ならしでもあります。そのことについては次節以降で触れていきましょう。

 

「2.3 衝動を肯定した同好会」 要約
衝動を肯定できないのなら、ラブライブへの出場という目的すら取り除くべき障壁とする。

「言い聞かせてみたって もうカラダ中騒いでる 止まらないHeart 強く熱く…!!」, DIVE!

2.4 自己実現の姿であるステージの自分

 ラブライブに出ない選択がどのような意味を持つのか、さらに踏み込んだ見方をしていきましょう。

 1期3話の選択により、同好会は衝動が肯定され、しかしどこかへ向かわせる外圧が存在しない宙ぶらりんな状態になりました。虹ヶ咲のスクールアイドルには道標となるルールがない。辿り着くべき目的地もない。どこへ向かえばよいのか?あるのは「やりたい」という心の内から湧き上がる衝動、つまり内側からの圧力のみです。このバラバラな方向に向いた衝動の行く先は、彼女達がそれぞれ目指した目的地――なりたい自分でした。

 

 さて、人は誰しもなりたい自分というものを持っています。それはどんな形でも構いません。社会的に高い評価を得ている職業に就くとか、卓越した知識・技能を手に入れたいとか、人気者になりたいとか…。その中身はなんでもいいです。きっと今の自分に完全に満足して、それ以上の向上心を失くす事態というのはありません。

 人はいつでも理想の自分の姿を頭の中で思い描いています。それこそが虹ヶ咲におけるスクールアイドルの目標であり、上で書いたなりたい自分です。「学校を救う」のような外的な目的が無い代わりに、なりたい自分になる=人間が持つ自己実現の欲求を充足させるという内的な目的が主題になったわけですね。

 

 しかし全員が全員、かすみやせつ菜のようになりたい自分像を既に持っているわけではありませんでした。この話は1期4話で扱われていて、限りない自由さの中で内的な力のみで動こうとすれば愛のようにどこへ行けばよいのか分からず迷子になってしまうことが示唆されています。愛の場合は、楽しむことこそが自分の目指すべき場所だと自覚し目標が定まりました。好きなこと・やりたいことが向かうべき場所というのは、愛以外にも一般的に適用できる思想として描かれています。衝動を肯定することにより表出するその人の本来の姿(前景化した個性)――これが人間の向かいたいところ、つまりなりたい自分と虹ヶ咲は言っています。再度同好会が発足して一番最初に自分と向き合い、自分のなりたい自分を見つける話が挿し込まれたのは意義のあることです。

 スクールアイドル活動の自由さについては、同じく1期4話でかすみにより「スクールアイドルに正解はない」と言及されていました。何でもできて正解が存在しないスクールアイドル活動の懐の大きさが、数多くいる登場人物の衝動を受け止めるだけの地盤となったということでしょう。

 

 そして、虹ヶ咲において、ステージに立ち個性が前景化した自分となりたい自分は等価です。分かりやすいのは璃奈・しずくの二名でしょう。みんなと繋がりたいと願いつつ、自分に自信が持てなかった璃奈がステージに立ったときの姿。自分を曝け出したいと切望していたしずくがステージに立ったときの姿。他に、可愛いを追求し続けるかすみにとってステージに立つことはそれを最大限に表現する場であるとか。つまり、虹ヶ咲ではステージに立つ=なりたい自分になる=自己実現と位置づけられています。話の流れでも、最後に訪れるのがライブシーンで、その瞬間の彼女たちは理想の自分へ一歩近づいています。自分のなりたい自分になる、これこそ虹ヶ咲が描いてきたものではないでしょうか?

 

「2.4 自己実現の姿であるステージの自分」 要約
人をどこかへ向かわせる外圧を取り払い、衝動という内圧のみが存在する虹ヶ咲のスクールアイドルが目指したのは「なりたい自分」。ステージに立つ彼女たちの姿は、なりたい自分――自己実現の姿と等価。

「どこまでも行けそうなんだ 自分らしくね どこまでも行けそうなんだ!」, 夢が僕らの太陽さ

2.5 虹ヶ咲の刹那主義的側面

 個性の尊重の話題から少し逸れますが、こちらも書いておきたい事柄です。これまで書いてきた通り、虹ヶ咲では衝動を何よりも重んじ、それを行動という形で発露させることを良しとしていました。この姿勢から刹那主義的な側面を見ることもできます。

 衝動を肯定している瞬間、したいことをしている時間は何よりも楽しいものです*3。そして、虹ヶ咲はその充実した瞬間のみを考えろと言っています。

 2期7話では、後悔したくないという思いから足踏みをしていた栞子へ、そんなことを考えず衝動に身を任せるべきだと糾弾しているようでした。と、かなり曲解じみた書き方をしましたが、言わんとすることは当たらずとも遠からずでしょう。さらに、2期11話ではより直接的に、過去や未来に囚われず、楽しい今を追いかけるべきとも言っています。これらから、現在だけでなく、その他の時間に渡って衝動を止めるいかなる障壁も存在しないという思想が垣間見えます。

 非常に危うい刹那主義の姿勢ではありますが、同時に虹ヶ咲はウソをつきます。衝動に従った結果は必ず良いものになるというウソ。2期7話でスクールアイドルに青春を捧げた薫子が言った「してないよ。後悔なんて」、1期13話の最後に歩夢が溢した「始めて、よかったって!」など。スクールアイドルを始めて後悔した人はおらず、誰しもが輝かしい未来へ向かっていけると言うのです。

 要するに虹ヶ咲のロジックはこうです。「楽しい今という刹那を積み重ねていけば、後から振り返ったとき、過ごした時間は必ず素晴らしいものだったと回顧できる。だから、今は何も考えず眼の前にある衝動に正直になるべき」。

 

 とはいえ、そんな足元がおぼつかないロジックは自分ひとりの場合です。記事の冒頭でも書いたように虹ヶ咲は他者の存在が重要です。もし自己実現を叶えようとして転んでも、隣りにいてくれる他者がいてくれれば励ましてもらえることは2期12話でも言及されています。そんな優しさが虹ヶ咲には内包されているのです。

 

「2.5 虹ヶ咲の刹那主義的側面」 要約
衝動の肯定は刹那主義的。一種向こう見ずなだけかもしれなくとも、結果は素晴らしいものになると信じている。
未来とは今の積み重ねの先にあるものであり、その今を楽しく過ごせば必ず「よかった」と回顧できる。

「ふと振り返れば続く 刻んだ軌跡虹色 どんな瞬間もきらり True Stories」, Future Parade

2.6 「2. 個性の尊重」 まとめ

 ここまで虹ヶ咲が描く個性の尊重について書いてきました。一度ここで話をまとめておきましょう。

 

 まず声を大きくして主張したいのは、虹ヶ咲において衝動は何よりも上に位置づけられているということです。その人の個性を尊重するため、個性が最もよく表れる衝動という名の「したい」気持ちを肯定するのです。それは何者にも侵されず、されてはいけないと言っています。事実、1期3話で同好会のためという外発的動機づけによりスクールアイドルであることをやめようとしたせつ菜を認めませんでした。たとえそれが人のためだという願いであっても、自身の衝動を蔑ろにすることだけは容認しないのです。

 次に、虹ヶ咲は他者の衝動も肯定します。同好会の誰かが困っているとき、必ず誰かが背中を押し、衝動を行動として実現させる手助けをします。

 そして、虹ヶ咲の個性の尊重を語る上で絶対に避けられない1期3話の「ラブライブなんて出なくていい!」があります。これは、自分という人間の評価を他者から下されるのを嫌ったがゆえに出てきた言葉です。ラブライブという大会で、誰かに用意された尺度で計られるのを拒絶するのです。自身の価値を自身の外側から当てられる物差しで評価されるのを虹ヶ咲は認めません。私という存在の価値は私が決めるのです。

 自身の衝動を肯定し、自分を計る全てを投げ捨てた同好会は個人主義的な活動方針に舵を切ります。当然です。衝動に従い、自分を計る外的な基準が失われ、自分以外に頼るものなどないはずだから。それは自由の刑とも言える真っ更な荒野へ放り出されることと同義*4。作品を見ると気づくのは、同好会は他者の衝動を肯定こそしますが、道標は示しません。往くべき道は己が切り開かなければならないのです。

 そんな中で唯一の目的地は己の衝動――なりたい自分になる自己実現でした。衝動を肯定され彼女らが行うライブは個性が前景化した自己実現の姿です。自分のなりたい自分になる。これが、虹ヶ咲の個性の尊重でした。

 

 虹をモチーフにしたアニメで、数ある人の個性全てを尊重するという姿勢を貫き通した虹ヶ咲。それは1期11話でかすみんボックスいっぱいに詰め込まれたSIFへの要望、そしてそれを全て叶える姿が何よりも雄弁に語っています。ファンという存在をファンという集団として扱わず、個人の集まりとして描いたのがかすみんボックスです。ファン一人一人に望みがあり、個性があるのです。それを残さず尊重するのがSIF。これが同好会の集大成としてある美しさ。

 

 最後に、虹ヶ咲における個性の尊重についての所感に以前のブログで書いた文章を引用します(本稿用へ一部表記を修正しています)。巷では1期15話とも称される2期3話の感想文で書いたものになります*5

 

 既存の評価軸・他者からの期待に応え、自分を形成するのは人間社会を生きていく上で必要なことです。法律という取り決めであったり、文化という枠組みであったり、家族のしつけという小さなルール。これらを遵守することは自分の外側から要請され、人間はこのルールに従うような自分を作り出します。また、生徒会長のような立場の人間は清廉潔白なことが求められ、そう振る舞うこともある。このように、自分の外側から「こうあれ」と型にはめられる圧力がかけられ、演じることは生きているとままあることでしょう。そうすれば円滑に物事が進むからです。

 しかし、そうして出来上がった自分は本当に自分なのでしょうか?1期8話を見ればYESと言えるかもしれません。ですが、確実に押し殺した自分もいるはずです。押し殺してきた自分の正体、これは僕が以前から衝動と言ってきたものでしょう。

 作中では「正直な自分」と表されているこれ(衝動)を隠すことに虹ヶ咲は否定的です。2期3話では、作曲の課題で「求められる音楽」を作ろうと他者からの期待への応え方で悩んでいた侑。このアプローチを修正したのが九人の言葉。衝動に従ってきた彼女らから、「自分のやりたいことをやればいい」と背中を押されるのは説得力があります。このシーンを見て「ああ、僕の知ってる虹ヶ咲だ…」と安心感を覚えました。

「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」

 そして侑のこの言葉。これこそ虹ヶ咲の掲げる個性の尊重を最大限端的に表現したものでしょう。このセリフ、聞きながら泣いちゃいました。

 

 唐突ですが人間は何のために生きているんでしょう?先人たちが哲学的・自然科学的なアプローチから様々な答えを出してきたものだと思いますが、僕は「満足するため」だと思っています。快楽主義に属する考え方なのでしょうか。

 虹ヶ咲はこの問いに対し、僕と同じ立場を取っているものと捉えています。その上で、「満足」をするには何をすればよいか?という問いが生まれ、この問いの答えこそが自己実現に当たると考えています。終わることのない自己実現の欲求を充足させ続け、自分自身に満足し続けることこそが良い生き方であると言っている。

 虹ヶ咲におけるライブ――自己実現は自分に正直になった人間の姿です。それは、他者が定めた基準に適応するように「うそ」をついている自分ではなく、自分が真になりたい自分です。他者に依存せず、自分のやりたい気持ちだけが指針になる。つまり、自己実現という生きる意味を自ら創出できるのだと思います。

 生殖の結果、現象として生を受けた僕らにあらかじめ用意された意味なんてないと僕は考えています(それに対する考えが一般的にあることも理解しています)。そういう立場を取ったとき、他人の期待に応えたり、社会的に善とされる人間になることで自分の意味を獲得する手段もあるでしょう。しかし、そのような個性を潰した生き方をするよりも、繰り返し言うような自分が定めた目標へ走り自己実現を行うことの方が幸せなはずです。

 

 世界に一人しかいない自分が、その個性をもって自己実現を叶える。自分の生きる意味は自分で定める。だけど、自分の外側の視点を通して自分を見直すことで、新たに発見できる自分の価値があるかもしれない。これが僕から見た虹ヶ咲2期3話でした。

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「高鳴ってく 自分の気持ちに ウソをつくのって すっごくむずかしいね」, La Bella Patria
 

3. 他者の存在

 これまで、虹ヶ咲は人の個性を尊重するアニメだと書いてきました。その中で、「私」という存在の価値を自分で定めるという、誤解を恐れぬ言い方をすれば他人に依存しない個人主義の性格が強い要素についても触れてきました。

 個人主義的な思想が見える一方で、この作品は自分以外の人間と関わりを持つことを同じ重さで称揚しています。「2.2 他者の肯定」で、スクールアイドルは他者からの肯定を必要としていると書いたこととも繋がります。この章ではそのことについてさらに書いていきましょう。

 

3.1 スクールアイドルとファンの関係

 スクールアイドルとファンの関係は、虹ヶ咲において特筆すべき要素です。もっと言えば、スクールアイドルとは何か?ファンとは何か?まで作品内で言及されています。スクールアイドルにとってファンは必要不可欠なものであり、多くの場合、ファンの存在なくしてスクールアイドルは一人で立つことができません。本節では、このことについて考えていきましょう。

 

 やりたい気持ちを我慢する、他者のため自分の気持ちを犠牲にする、変化を恐れる、能力の欠如に苦しむ、拒絶されるのを恐れる。前章でも言及しましたが、何かを始めるのには十人十色の壁が生じ得ます。それらを打ち破り、新しい世界へ踏み出すのは大変なことです。きっと、多くの人は自分だけで壁を乗り越えるのが困難で、同好会の面々もそれは同じでした。

 そのため、彼女らの多くは自分の外側――他者に背中を押され、その手から伝わる力を推進力として自らのしたいことをし、なりたい自分へなっていきました。背中を押してくれた他者、それをこのアニメではファンと呼んでいます。そして、背中を押すことを応援(エール)と。スクールアイドルは一人で動けなくともファンに応援され、それを前へ進む力とし輝く存在として描かれています。

 1期12話まではスクールアイドルが応援される側、ファンが応援する側に置かれる構図ができあがっていました。それが1期13話では逆転します。つまり、スクールアイドルが応援する側へ、ファンが応援される側へ転置されます。「夢がここからはじまるよ」のライブ前に応援の能動と受動が逆転しているのが分かりやすいですね。いつも応援してくれる「あなた」へ向けた恩返し。今度は、今まで応援してくれた「あなた」が何かを始める番だと言っているのです。

 

 さらに触れておきたいのは、関係の双方向性についてです。関係の双方向性というのは僕が勝手に言ってるだけの言葉ですので、順を追って説明します。
 まず、関係とは、スクールアイドルとファンを繋ぐ応援のことです。これが双方向であると言っています。さらに、双方向という語を用いたのは、スクールアイドルから送られる応援とファンから送られる応援が等価だという含みもあります。つまり、スクールアイドルとファンは応援によって繋がれ、この応援はどちらの側から送られていても同じ行為だということです。1期12話までのように侑が同好会の面々を応援したことも、1期13話で立ち位置が逆転し同好会の面々が侑を応援したことも、どちらも頑張る・頑張りたい相手へ向けたエールで、そこに違いはないという考えです。

 

「3.1 スクールアイドルとファンの関係」 要約
虹ヶ咲では、背中を押してくれる他者を「ファン」、背中を押すことを「応援」と呼んでいる。
ファンから送られる応援も、スクールアイドルから送られる応援も、違いはない。

「あの日受け取った勇気 時を超えて今 送りたい 私からも」, 夢がここからはじまるよ

3.2 拡張されるスクールアイドルとファンの枠組み

 上述の考えを発展させてスクールアイドルとファンについてさらに見ていきましょう。上ではスクールアイドルとファンから伸ばされる応援という矢印に注目してきました。次は応援という矢印を伸ばす両者自身についてです。

 ここで注目したいのは、スクールアイドルがファンの立場にもなれることです。「夢がここからはじまるよ」でスクールアイドルはファンを応援する側に回りました。つまり、スクールアイドルがファンのファンになった。このように、虹ヶ咲ではスクールアイドルとファンという立場は流動的で、その時その時によって個人が属する立場は変化していきます。「2.2 他者の肯定」でも書いたように、1期8話でしずくを応援するかすみなどは分かりやすい例として挙げられるでしょう。あのエピソードでは、かすみはしずくのファンとして、しずくを応援する立場に回っています。

 これが何を言っているのか。僕はファンという概念が拡張されているのではないかと考えています。客席に立ち、ステージ上の人間を応援する存在だけがファンなのではなく、他者を応援する人々の全てがファンであると虹ヶ咲は言っています。

 

 そこで、スクールアイドルの概念も拡張されているのか?つまるところ、侑はスクールアイドルになったのか?という疑問が浮かび上がります。なった、が僕の答えです。ならば、拡張されたスクールアイドル概念とはなにか。その定義を一意に定めるのは困難ですが、僕の考えを書いていきましょう。

 狭義のスクールアイドルは、ステージ上に立ち、歌って踊る存在を指しました。そして2期を通じ拡張された概念が僕らに提示されます。SIFと文化祭の合同開催は目を留めたいところですね。狭義のスクールアイドルが先頭に立ちライブを行うSIFと、学校の生徒(客席から声援を送る狭義のファン)が各々のやりたいことをする文化祭が並立して開催されるというのです。これが意味するところは、スクールアイドルのライブと、生徒の出し物に違いはないということでしょう。少し話が飛躍してしまったかもしれませんね。そこで、2期6話で合同文化祭の開会にあたって流れた映像を思い出してほしいです。そこでは、開催に向け準備を進めるスクールアイドルと、一般生徒の様子が何の別け隔てもなく映されています。あの映像ではスクールアイドルも一般生徒も同じ存在として描写されているのです。

 つまり、あの催しを通して読み取りたいのは、スクールアイドルのライブも、流しそうめん同好会の流しそうめんも、その他様々な出し物も、全て等しいということです。どれも各々がやりたいことを実現した産物であり、個性を表現したものに違いがありません。拡張されたスクールアイドルとはまさに、自らの個性を表現する全ての人々を指します。

 「2. 個性の尊重」で書いたことと対応させるなら、自分の衝動を我慢せず、自己実現及び、自己表現する人間広義のスクールアイドルと扱うのです。劇中では明言されていませんが、2期8話、2期13話でステージに立つ侑はスクールアイドルと言えるのです。翻って、自己表現の手段がステージ上で歌って踊る存在のことを(狭義の)スクールアイドルと呼ぶのです。

 

「3.2 拡張されるスクールアイドルとファンの枠組み」 要約
虹ヶ咲では、自己表現をする人々を「スクールアイドル」、誰かを応援する人々を「ファン」と呼ぶ。さらに、一人の人間が、自己表現をするスクールアイドルにも、誰かを応援するファンのどちらにもなれることが描かれている。

「Take your hand out, we can reach」, stars we chase

3.3 自己を表現する

 虹ヶ咲における自己表現は、自身の存在を世界に発信することが目的にあります。素晴らしいライブ・演奏をして他者からの評価を得るためではなく、ただ純粋に、自分を世界に表現することが。

 2期3話のラストの侑のセリフ――「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」から僕はそう読み取りたいです。

 当然ながら、僕らという存在は過去未来に渡ってこの瞬間にただ一人しか存在しません。ある評価軸で見れば誰かの下位互換かもしれない。でも、決して同じ人間は世界にいません。そんな僕らがただ寿命を迎えひっそりと消えゆくのは余りに寂しいことではありませんか。せめて、この世界に自分の存在を示したい。そんな願いが自己表現なのではないでしょうか。彼女らのライブ・演奏は彼女らにしかできないもので、それだけできっと意味があるものなんです。

 

 自分を全力で叫べばきっと誰かに届く。良いとか悪いとかではなくて、トキメキを届けられる。自分のやりたいことへ突き進む姿に価値があるから。この叫びが誰かに届くことで、作品内で綿々と紡がれてきたトキメキの連鎖になるのです。

 侑は広義のスクールアイドルに含まれます。彼女の自己表現は2期13話でファンへトキメキを届けました。トキメキとは、全霊をかけ自己表現するスクールアイドルを見て、自分もそうしたいと思う衝動ではないでしょうか?トキメキを受け取って始めた自己表現が、今度は誰かの元へ届く。その連鎖が、この作品の根本にあるよう思われるのです。

 

「3.3 自己を表現する」 要約
この世界に一人しかいない私を世界へ叫ぶために自己表現をする。きっと、それ自体に価値があることだから。

「届け!届け! 地球の果ての果てまで 響け!響け! 私色の瞬きが溢れてる」, Poppin' Up!

3.4 個性が絡み合う

 それぞれが自己表現で自らの個性を発信し、それらが有機的に絡み合うことで生まれる作用もあります。SIFのことですね。みんなが一歩踏み出して個性を表現するみんなの夢を叶える場所、個性という名のみんなの大好きが集まる場所。

 一人で自己表現をするのも幸せなことに疑う余地はないでしょう。SIFはさらに、みんなと一緒にそれを行う楽しさが生まれる場所でもあると思うのです。トキメキの連鎖の集大成としてたくさんの大好きが集まる。それって、個性――たくさんの色が虹を作ることではありませんか?まだ自分の衝動を見つけられない・認められない誰かがその虹を見ることで、また次のトキメキが生まれるかもしれない。

 一人でも楽しい、だけどみんなとならもっと楽しい。それを体現するお祭りなんじゃないかって僕は思います。

 

「3.4 個性が絡み合う」 要約
みんなと一緒だと支え合うことができる。一人よりもみんなと一緒ならもっと楽しい。きっとこれはロジックではない。

「Vividな世界 ねぇ どうして 一緒だったら 心はずむの」, VIVID WORLD

3.5 繋がりは物理的な距離を越える

 トキメキを共有し、応援を送りあった関係は物理的な距離を越えます。2期12話でこのことは言及されていて、将来離れ離れになったとしても、背中を押してもらった手の温もりは残るのです。

 抽象的な話に移れば、「Future Parade」で「夢の虹は いつも 胸の中 僕ら繋いでるから」と歌われているのも引用したいです。「3.4 個性が絡み合う」で一人一人の個性が持つ色が集まることが虹だと書きました。これに表現を付け足すと、SIFは虹が始まる場所です。「Future Parade」のイメージは、SIFで発生した虹色の一点から、放射状に各々の色が各々の向かう場所へ広がっていき虹を架けるものです。

 図にしてみました(OfficeのライセンスがないからGoogleパワポで作ろうとしたらだいぶ使いづらかった)。イメージとしてはこんな感じです。SIF(虹が始まる場所)では一箇所に集まっていた個性たちが、それぞれの辿り着きたい場所へ向かっていったとき、必ず離れ離れになってしまいます(侑と歩夢のように)。ですが、それで虹が消えることはありません。

 

 「Future Parade」について、劇中から読み取ったことではなく、完全に願いを書きます。

 自分のなりたい自分を追いかけ、いつかバラバラになったとしても、同じ虹を架けていることはこれからもきっと変わりません。同じ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会という一点から出発して円弧を描く色たちだから。むしろ、前に進むにつれ個性・色は強まっていき、より鮮やかな虹を架けるかもしれない。たくさんの色が歩んだ軌跡を虹と呼ぶのかもしれない。その虹を見て、新たなトキメキが生まれる。SIF、もっと言えばSIFの発端となった同好会はまさしく虹が始まる場所なのでしょう。

 

「3.5 繋がりは物理的な距離を越える」 要約
いつか離れ離れになっても、繋がりは消えない。

「昨日とは違う 風が心を締め付けるけど 思いは繋がってるから」, Awakening Promise

3.6 「3. 他者の存在」まとめ

 自己表現を行うにあたり、背中を押してくれる他者の存在の必要性について虹ヶ咲では描かれていました。手を引くではなく背中を押すという表現を使っていることには意図があります。「2.6 「2. 個性の尊重」 まとめ」でも書きましたが、虹ヶ咲では自分の夢は自分で見つけるものだと言っています。「TOKIMEKI Runners」の「きっと夢だと決めてしまえ」にある通り。それは、虹ヶ咲において目的地とは衝動に従いなりたい自分になることだから。誰かに行き先を決めてもらうのではなく、あくまで自分で定めた目的地への推進力としてファンから背中を押して貰うことを描いているのです。

 ですが、他者の存在により目的地に影響を受ける場合もあるかもしれないことも描かれていました。本稿では触れませんでしたが、2期3話の合宿のことです。自分以外の視点を取り入れることで新たな自分を知ることができるというエピソード。新たな自分の個性を知り、それを加味した上で目的地の再設定が生じるかもしれない。劇中では、個性の混ざり合いにより新しい自己表現の形が生まれましたが。これらのような意味でも、他者は必要な存在として扱われています。

 また、夢を追いかけ自己実現する姿を表現するのは、自分の存在を叫ぶため。それ自体にきっと意味があるから。自己表現する自分を見た誰かにトキメキを届けられるかもしれないから。もし誰かにトキメキを与えられたなら、それが虹の咲く種になるのです。

 同じ同好会という場所、もしかしたら大好きを追いかけるという共通点さえあれば、同じ虹を架けられるのかもしれません。虹を架けるのに距離は意味を無くし、応援を送り合う関係は途絶えること無く、永遠に繋がり続けるのでしょう。

 

「キラキラ繋がって 虹色があふれる 出逢えた奇跡は 何より宝もの」, Love U my friends
 

4. おわりに

 最後に願いの文章を書いていきます。アニメ範囲外の事柄に触れます。

4.1 虹ヶ咲の青春観

 この作品は青春がいつか終わるものだと自覚的です。「永遠の一瞬」、「Hurray Hurray」、及び2期11話が顕著だと思います。いつか繋いだ手を離さなくてはいけない。今がとても楽しいから、その時間に限りがあることが怖い。

 将来のことなんて分からないし、今以上に楽しい時間がくるかも分からない怖さもある。けれども、この青春という時間は必ず自分の過去の中で光る宝ものになる。今この瞬間を最高にし続ければ、寂しいだけじゃない未来が待ってると信じてるから。今できるのは今を楽しくすることだけで、これからのことに思いを馳せるより今を大切にしたい。同好会の仲間は、共に過ごした日々は、いつまでも消えない繋がりと思い出になる。2期で飾られていた第一回SIFやしずく邸での写真のような、その一瞬が消えない繋がりに、思い出になる。

 そんなことに思いを巡らせて、「もうちょっと感じていたい この永遠の一瞬を」に至るのが虹ヶ咲の青春観なんじゃないかな、と僕は思います。

 

4.2 感想文

 媒体としてのアニメの強さを感じられる作品でした。セリフに多くの直接的なメッセージを込めなくとも、物語で、画面で、歌で多くのことを表現できる。虹ヶ咲は受け手に解釈を委ねる余地がある箇所も多い作品ですが、それでも、制作者が伝えたかったことは間違いなく伝わったと思います。オフィシャルブック2で言及されていたお話を見るにこれは間違いないはずです。

 

 さて、制作者の意図は置いておいて、生き方…もう少しスケールを小さくするなら日々の過ごし方について考えることが多い作品だったとも思います。僕はアニメ虹ヶ咲に強く共感したためここまで好きになりました。

 まず、自分の好きなことを貫いていいんだという激励。劇中では徹頭徹尾このことが叫ばれていました。どんな障害があったとしても、自分の衝動――やりたい気持ちだけは阻害されない、目を逸してはいけない、と。2期6話では、たくさんのやりたい気持ちに迷ったら、全てやってしまえ!とも言われました。

 上手くできないかもしれない。もしかしたら誰かの下位互換にしかなれないかもしれない。でも、自分という存在だけは代替不可能で、唯一無二なんです。他の誰に否定されようと自分の価値だけは自分で認めて良いんです。自分をもっと好きになるべきなんです。

 自分の価値を認められるようになったなら、きっと自分を叫びたくなる。私はこういう人間で、大好きなものがあると。その表現方法は問わず、同好会のように歌や踊りでもいいし、侑のように音楽でも、文化祭に参加した多くの「あなた」のようにその手段に制限はありません。もしかしたら、自分の自己表現に惹かれた人と新しく繋がりが生まれるかもしれない。そうして繋がる人が増えていったら、もっと自分を叫びたくなる。トキメキを響かせたくなる。

 みんながみんな自由に自分の好きなことに夢中になって、それを発信する。それを肯定し、応援してくれる人に囲まれて、自分も誰かを応援する。理想論かもしれないけれど、それって素敵な世界(ワンダーランド)ですよね。

 

 

「この世界でたった一人だけの私を もっと好きになってあげたい」
「この世界中の 全員がnoだって言ったって 私は 私を 信じていたい」, 無敵級*ビリーバー

*1:OVAでもアイラに迫っていましたね

*2:正確には、ラブライブで優勝したその先の結果を追いかけていたのが過去シリーズですが

*3:これが衝動を肯定する一種の誘因(incentive)とも考えられる

*4:サルトルの言う自由の刑には自由さの中で己に加え、人類を決定する責任についても含意されていますが、虹ヶ咲はそこまで言及していません

*5:1期で中心的に扱われた個人の自己実現を描ききった話数として15話と呼ばれている…はずです

ルミナスウィッチーズがターニングポイントを迎えたので覚え書き

 TVアニメ放送決定の情報が出てから放送延期を繰り返し、ようやく今夏見ることが叶ったルミナスウィッチーズ。ストライクウィッチーズではエイラ・サーニャ回を担当し、何より放課後のプレアデスの監督でもあった佐伯氏の関わるオリジナルアニメということで楽しみにしていました。制作会社的に途中から映像が乱れたり、1クール中に放送しきれないのでは…みたいな懸念があったのですが今のところ杞憂で、変な緊張感を持たずに楽しむことが出来ています。

 さて、6話の放送を終えターニングポイントを迎えたので何かオタクブログを書いておきたいなと思って記事作成ボタンを押しました。総集編も差し込まれましたしいいタイミングでしょう。

 と言っても正直ルミナスウィッチーズのことを分かれているかというと、そうでもなく、文章を打ってる現在進行系で何を書こうかなと考えあぐねている状態です。

 なので、とりあえず覚え書きという体でアニメを見て思ったことをつらつら書いていこうと思います。肩の力を抜いてね。


1. 戦いに疲れた人へ向けた音楽

 本作の主題である”音楽”。音楽と言っても色々ありますよね。曲調や演奏形態といった音楽そのものの形もそうですし、奏でる目的、聴く目的などなど。曲調で言えばロック、クラブ、ジャズとか、演奏形態ではオーケストラ、バンド、DTMなどがあると思います*1。奏でる目的も宗教的、政治的意図を持ったものから自己表現まで。聴く目的ではコミュニケーション、感情調節などが挙げられるかも。

 このアニメを見る上で重要なのは、「人が音楽を聴く理由、その必要性」だと思います。1話からバシバシ問題提起されてますしね。もっと言えば後者――必要性の部分がより重要そうですよね。

 極端な話をすると人って食べ物さえあれば生きていけるわけです。それが満たされる状況であるなら、次に衣服や安全な住処を求める。これらも満たされればもっと多くの願望が、例えば音楽のような娯楽が求められ始めるわけです。

 作品世界ではネウロイによって安全が脅かされているから抵抗するわけですが、極論生きるのに必要な行為ではありませんよね。では身を守る軍事行為と娯楽の音楽に必要性という意味で差はあるでしょうか?汚い話の進め方ですが、食事とそれ以外の行為に線引きをすると、上記の両者に差はないはずです。もちろん優先順位の高低の話が出るでしょう。しかしそれは主観によるもので、何か根拠に依った論理的な帰結にはなり得ません*2。ならばネウロイへの抵抗が行われてる世界で音楽の必要性は否定できないでしょう。

 もっと現実的な話をしましょう。銃後の世界とはいえ、いつネウロイが侵攻してくるか、いつ自分たちの街や命が脅かされるか分からない緊張の中で人々は生きています。軍需工場などで勤務し、直接戦闘に参加せずとも戦いを支える人々は間違いなく軍隊にとって不可欠な存在です。そんな人々を緊張から解放し、一時でも安らぎを与えることが不必要とは言えませんよね。アニメでは、そんなバックグラウンドなんて関係なく、ただ純粋に「人々に幸せになってほしい」思いから歌を歌います。

 ネウロイと戦うことも、歌を歌うことも、どちらも人々が幸福に暮らせるようになるための手段です。ネウロイを打倒することがより直接的で、根本的な解決方法となるから最優先とされているだけで。現時点の僕としては、音楽が必要か必要でないかという話より、「人々を幸福にするための手段の一つが音楽」という見方で後半を見ていきたいですね。

 

 ここまで書いて気づきましたが、アニメの話を全くやれていませんね。それじゃあんまりなので、ちょっと根拠が弱いことを自覚しつつも本編に結びつけた話をしてみましょう。

 

 取り上げてみたいのは4話です。五月祭の催しとして歌を披露することになったルミナスウィッチーズ。「優しい明かり」 → 「故郷の空」 → 「歌を歌おう」と曲が披露されるのですが、故郷の空は既存の民謡を使用したものになります。元はスコットランド民謡で、ブリタニア(というかスコットランド地方だったっけ?)で行われる五月祭の選曲として真っ当なものです。

 注目したいのは、この民謡を挟んで彼女たちの歌に繋げた点です。これは恐らく、彼女らの歌が性質的に民謡と同等であることを示すためでしょう。

 高貴な人間だけに向けた宮廷音楽でも、教養を持った人間へ向けた芸術音楽でもない、その地に根ざす人々へ向けた民俗音楽(≠民族音楽)。軍楽隊でありながら軍の威容を誇示するための音楽とも違う。民俗音楽と言っても呪術、宗教、労働促進、求愛などの役割がありますが、五月祭で演奏された音楽たちはきっと祭りで楽しい時間を過ごすための音楽です。

 

補足:五月祭は英語で”the May Festival”と表記するそうですが、Festivalは(アソシエーションと対置される意味での)コミュニティで行われる宗教または民間伝承または農業に関するお祭りのことです。五月祭は夏の豊穣の予祝や春の訪れを祝うお祭りであり、宗教的な色はそこまで濃くなさそうに感じます(キリスト教以前の古い神話の神に祈る意図があったようなので、完全に無宗教的な催事とは言えなさそうですが)。実際のところは調べてみないと何とも言えないのですが、少なくとも劇中では宗教色が感じられず、「みんなが楽しみにしているどんちゃん騒ぎ」ぐらいに捉えてよいでしょう。そこで披露される歌は、やはり人々を楽しませるためのものであり、その他の意図があったとしても第一義ではないと考えています。身も蓋もないことを言ってしまうと、近現代のお祭りなんて本来の意味が無くなり楽しい催事になっているものが大多数でしょうしね。

 

 話が遠回りしましたが、つまるところ彼女たちの歌は役割として「人々を楽しませる≒幸福にする」ものだということです。それも民俗音楽のような人々に寄り添った形で。それを明確にするため、楽しい祭りで披露する民謡と同じラインに彼女らの歌は並べられたのです。

気分が落ち込んだときは歌を歌うといいよ。落ち込んだときも、楽しいときも、何でもないときも。歌を歌うと幸せな気持ちになれるから。

 このジニーのセリフも引用しておきましょう。歌は元来人を楽しくさせるものだという願いがこの作品には込められています。歌う側も、きっと聴く側も。それを証明するために彼女らは世界を巡るのでしょう。

 事実、4話まで滞在していた村では子どもたちを笑顔にできたし、歌を通して住人たちは日々が楽しいものであることを思い出せたのだと願いたいです。

 

 音楽に関することは物語の核心でもあり、6話段階であーだこーだ言えるものでもないので今後を見てみようという結論に至るしかないですが、それでも現段階で語れるとしたらここらへんではないでしょうか。

 

2. 居場所としてのルミナスウィッチーズ

 ルミナスウィッチーズは音楽を使って人々を幸福にすることを目的として組織されたアソシエーションです。しかしそこには居場所としての共同体の色も見えます。戦う軍人としてはポンコツだった各々が肩を寄せ合い、役割を作り合い、手を繋ぎ会える場所。

 ストライクウィッチーズでの記憶が曖昧なのですが、この世界のウィッチは何らかの役割を期待される存在と思われます。治癒魔法を使ってけが人を治す、またはネウロイと戦うなんかは顕著でしょう。だからこそ、何の役割も果たせない彼女らは無価値の烙印を押されてしまうのです。それはやはり、あの世界の生活の全ては第一義にネウロイとの戦いのためにあるからです。そんな中で、同じく戦時下では不必要と切り捨てられた音楽のために集まり、その必要性を示すのがルミナスウィッチーズ。もしかしたら、音楽の方から必要とされ新たな役割を獲得する話なのかもしれませんね*3

 

 そんな共同体の中で、彼女らは各々の役割を発見します。3話で衣装班、振り付け班、作詞作曲班に分かれて分業したのなんかは象徴的だと思います。あとは6話でマリアが自分に出来ること / 出来ないことにピシッと線を引き、アクロバットプランの作成は自分が、実践はみんなに任せたことなんかもそうじゃないでしょうか。一時はポンコツとして爪弾きにされ路頭に迷った彼女らが、ルミナスウィッチーズの中で役割を、居場所を見つけていく。戦闘では何の役にも立たない彼女らの長所が活かされていく。

 劇中で「みんなでご飯を食べるとおいしい」という発言がありました。これは音楽の必要性と並行してルミナスウィッチーズのテーマでしょう。音楽には国も育ちも関係ありません。音楽の旗のもと、何者なのか関係なく手を取り合い、”みんな”になっていく。歌う者の属性を問うのではなく、伝えようとしている事柄に耳を傾ける。こうした音楽の普遍性が人々の繋がりとして返ってくる、そんなラインも見てみたいですね。そこで、大衆音楽である民俗音楽と同じ位置に置かれた彼女らの歌がどう作用するのかも気になるポイントです。

 

 もっと突っ込んで見てみたいのは、「私にできること」から発展した「私たちにできること」がテーマとして存在してるのではないかなってところです。一人一人では小さな輝きで、できることも少ない彼女らが集まり支え合って、一つの光として音楽を用い人々を照らしていくような。ストライクウィッチーズとの対比でポンコツ揃いの彼女らが、彼女らだからできることがあるんじゃないかって信じたいですよね。

 

3. おわりに

 特に書きたいトピックがあったわけでもなく、とりあえず半分過ぎたし総集編も入ったから何か書いとくか!ってブログを開いたので焦点が合わず線もブレブレの記事になっちゃいました。ただ、月並みながらも現時点で僕が感じたのはここらへんかなって具合です。やっぱりアニメは最終話まで見ないと何も分かりませんが、こうして途中途中で文章を残すのも楽しみだと思います。

 本文中で触れ忘れた「永久の寄す処」なんかも居場所としてのルミナスウィッチーズを示すのに象徴的な歌だと思いますし、もし再登場することがあればその意味がどう変化するんだろうなんてのも気になりますよね。

 ともあれ、もう完全に信頼していいアニメだと思うので、後半はただ背中を預けて視聴するだけですね!

 

エリーちゃんポワポワしてるけどフカンして物事を見てるお姉さん系で萌え萌えなの嬉しすぎる!!!

*1:知ってるものを列挙しただけだけど言いたいことは伝わるはず!

*2:あまりに汚い論法なので再度確認しますが、食事とそれ以外で線を引いた場合の話です

*3:正直かなり薄いラインだと思うが

虹ヶ咲ではなぜライブをするのか

 今回はタイトルの通り、虹ヶ咲のアニメで彼女らはなぜライブをするのかを考えてみようと思います。今まで自己実現をキーワードにアニメを見てきましたが、それは心の内側の方へ関心を向けた考え方で、なぜライブのような外側へ向かった行為が行われるのか不明瞭でした。自分自身で満足できればそれでいいという考え方では、ライブを始めとした自己表現を行う意味が説明できないからです。

 これは単に1期の内容を2期にまで適用させようとした結果生じた歪みでしょう。1期には1期のメッセージがあったように、2期には2期のメッセージがあります。当然、2期では1期とまた別な主張を読み取らなければならなく、できるのであれば1期+2期を貫く包括的な見方を確立したいと思っています。今回はそんな試みのスタートになるような記事になります。

 初めに逃げるようなことを言っておくと、ここで書くことは暫定的な考えです。同時に、いつかまたアップデートした内容を構築することの宣言でもあります。


1. 前提を定める

 記事を書くにあたり、前提となる考えを提示したいと思います。これらの前提を出発点とし、なぜ彼女らはライブをするのかまで辿り着くことを目標としましょう。

 

前提

① 人間は生得的な意味を所持していない(それは、自分で獲得していく)
② 人間には自由意志が存在する
 
1.1 人間は生得的な意味を所持していない

 この話題については以前も触れたことがあります。僕がこう考える根拠はやはり1期3話にあります。「ラブライブなんて出なくていい!」を極限まで拡大解釈すると、人間の意味・価値を自分の外側から与えられた型に当てはめて計ることの拒絶になるでしょう。

 第一義には信仰を脱ぎ捨てることになるかもしれません。センシティブな話題ですし、記事の主題ともズレるのでこれ以上は言及しませんが、そういうことです。その他にも、例えば家業の跡継ぎになることを期待され生まれてきた長男は、両親からその役割を全うすることを望まれ(意味を付与され)ますが、そういったものも破り捨てる姿勢です。敷衍した言い方をすると、「人間の価値は自分で定めていくもの」となります。

 

1.2 人間には自由意志が存在する

 ①で「人間の価値は自分で定めていくもの」と言いました。それを真の意味で実現させるためには人間の自由意志を認めたいところです。外側からの力で動かされている存在ではなく、舗装されていない真っ更な荒野を自ら進んでいけるのでなければ”自分で(主体的に)”定めていくと言えないからです。

 ①と同様に②も前提として据えたのは、両者ともなぜそうなのか説明が困難だからです。もしかしたら僕以外の誰かに任せれば答えを出してくれるかもしれませんが、僕には荷が重い問題ですね。

 

補足:浅学であることを自覚しながらも、僕は人間に関して決定論の立場に近い人間です。まず、宇宙が始まったときから物理法則に従ってこの世界は発展してきました。斜方投射を行う際、初期条件を与えればその軌道が予測できるように、ビッグバンの時点で今後の世界の在り方は予測され得るもののはずです。ただし、量子力学の世界では実現される状態が確率的に(かつ連続な関数で)表記されることにより、予測の数は無限大へと発散すると思われます。ならば世界は非決定論的であるとも言えそうです。しかし人間の一生に関しては、初期条件を与えれば生を全うするまでの短い時間程度なら予測可能(生まれた瞬間に定められている)そうではありませんか?このときの初期条件とは遺伝子・家族・近隣住民・国家・時代 etc...と多くの因子を含むため一見ランダム性を保っているように見えますが、本質は斜方投射とそう変わらないはずです。古典力学の理論に斜方投射の軌道が”正確に”支配されるように、人間の行動も概ね一本道を辿っていくと僕は思うのです。その道のりに微視的なブレがあったとしても、人間にとってさほど大きな意味を持つことはないでしょう。人間の眼という巨視的な視点で見れば、僕らは生まれた瞬間からどんな人生を送るか決まっているのではないか…と僕は思わずにはいられないのです。…ただ、脳の中で量子力学的な働きが僕らの行動にどんな影響を及ぼすのかなど考えることもあるでしょうが。

 

 どちらかというと、この前提は僕の希望です。人間は自由意志を持ってその生を世界に刻んでいけるんだ、という。入力に従って決められた出力を返す現象とは違う、東から風が吹けば西を向く風見鶏とは異なる存在であると信じたいのです。僕らの行動を規定できるのは物理的な制約(壁があれば直進できないように)のみであって、それだけなのです。今どちらかの手を上げようと思ったとき、僕が左手を上げたのは僕自身が選択したからであり、右手を上げることもできたのです。

 

 少し無理をすればアニメ本編からも自由意志の存在を称揚する描写を見つけることが出来ます。詳しくは後述しますが、このアニメは”自分自身で(主体的に)”選択することを重要視しています。自分の外側の要因に原因を押し付けるのではなく、自分が自分で選ぶことを良しとしているのです。これは間接的でありながらも自由意志の存在を認めていると取ることが可能です。

 

 ここで、ホメオスタシスや反射のような生理作用は意思が介する余地がないため自由意志の外側とします。また、睡眠・食事・生殖などの行為は人間という種に生まれたため発生する欲求からくるものですが、実行するか否かは選択可能なものなので(睡眠は難しいかもしれないけれど)自由意志に基づいた行動とします*1フロイトは全く分かりませんが、無意識の行動があるとするなら、それも一緒に自由意志の外側にやっておきましょう。

 とういうことで、「行動」という名前の全体集合から範囲を絞って残留した集合を「自由意志」とすることにしました。しかし、人間の行動は非決定論的な立場をとっても、定められた方向に舵を切られ得るものだと考えられることがあります。自分の外側からくる力によって進む道が律せられる場合ですね。「状況の力」と呼ばれたりします。例えば目の前に銃を突きつけられ服を脱げと命令されれば従わざるを得ないでしょう。ですがここで服を脱ぐのは明らかに意思を介した行動であり、上述のロジックに従えば自由意志に基づいた行動です。その他にも同調圧力や、μ'sやAqoursであれば廃校の危機を免れるためグループ一丸になる必要があったなど、強い状況の力に後押しされた行為も全て自由意志によるものだと言い切ってしまいます。厳しいですね。

 そういう意味では外側からの圧力により1つになる必要があった先述の2グループと、廃校の危機などない虹ヶ咲の彼女らが自由にソロアイドル活動をしているのも本質的に同等となります。どちらも主体的な選択によって実現されたものであるから。虹ヶ咲の舞台設定が特異なのは、彼女らの行為に、より”言い訳”ができない状況になっていることでしょう。

 

2. 自分の意味を獲得するということ

 生得的な意味を持たない人間という存在は、生きていく中で自分の意味を獲得していくことになります。

 そして、自分の価値を計るのは自分自身です。「ラブライブなんて出なくていい!」から自分の外側にある評価軸を全て放り投げ、生得的な意味すら脱ぎ捨て、何もない自分を計るのに自分しかいないのは当然の帰結です。

 では意味・価値を獲得するとはどういうことなのか。これは以前から主張してきた自己実現をするということです。

以前にも書いて、有名な概念でありますので改めて説明はしません。自己実現は欲求階層説において最も高位な――本能から離れた欲求です。言い換えれば、この欲求を満たす行為は最も自由な、最も”言い訳”が効かぬ自由意志に基づいた行動です。

 人間の自由意志による行動は全て「・・・をしたい」という欲求からくるものです。それを端的に表し虹ヶ咲アニメを見る際に有用な道具が上図なのです。全ての行動に動機付けが行われるなら、自分の意味付けをするのは自己実現欲求を満たすものです。生理的欲求を満たす行動が自分を価値付けると言い切るには疑問を抱いてしまいますからね。

 

 では自己実現とは何か。これは常々言ってきたように、「自分が満足できる自分になる」ことです*2。僕は自分の価値を創出していくこと――自己実現は自らの満足を指針していると考えています。だからこそ、マズローの欲求階層説を借用し、価値を獲得することと自己実現の欲求を結びつけているのです*3。”教え”や”レール”を捨て、真っ更になった自分には道標とする標識すら残りません。どうすればいいか自由意志によって決めなければならないからです。この荒野で迷う様を描いたのが1期4話であり、その答えが「楽しい(=満足)」を指針にするものでした。

 今ある自分を超え、新たな自分を創出していくこと。スクールアイドルとして、より納得できる自分を選択し、そこへ向かって努力すること。「超えたい、私を。」なんですよね。キャンバスに色を重ねていくように、人間も瞬間毎に形を変え絶えず意味を創り出します。

 

3. 責任の所在

 「なぜライブをするのか」からは脱線しますが、書いておきたい事柄です。先験的なあらゆる指針を無視し、自分の満足のみを行き先とした行動の責任は全て自分が負うことになります。当然ですね。上司の言いつけを守って失敗すればその責任は上司のものとなりますが、その言いつけをどこかに置いてきてしまったのが彼女らスクールアイドルなのだから。

 同時に、人間へ普遍的に当てられるべき尺度を捨てた彼女らは他者を評価することもできません。自分たちがルールを無視しているのに、他人がルールを破ることを糾弾できないようなものです(少し違うか?)。自分たちが持っている物差しは自らを計るために創り出したものなのに、それを他者に当てることは不可能でしょう。できるのは、その人が自分の行動に責任を負っているか 0 or 1 の真偽判定だけです。

 

 自分の行動に責任を負っていない――偽の場合が作中で描かれています。例えば1期3話あたりの親や周囲の期待に応える形で生徒会長の任に就いていた菜々。または、2期8話で「今の時点で同好会のみんなが喜んでくれる」と妥協しそうになった侑。これらの例は自らの自由意志による決定に他者を”言い訳”に用い、責任を他者に丸投げしています。その選択すら自由意志によるものであるはずなのに、あたかも外からの力に強制されたかのような姿勢は偽として扱われるのです。いずれの場合もその在り方は”作品から”肯定的に描かれていませんでした。もしかしたら、1期7話の「彼方を心配して」とスクールアイドルをやめると宣言した遥すら偽になるかもしれません。

 逆に、生徒会長の役職が”大好き”の内に入り、そのポジションを続けることを主体的に選択したせつ菜は肯定的に描かれます。他者のために行動するかが真偽判定の要ではなく、他者に行動の責任をなすりつけているかが重要なのです。ですから、他者のために働きかけることを是とした栞子や、互いに支え合うことを主体的に選んだ近江姉妹が肯定されるのです。

 

4. ライブをすること

 ようやく本題ですね。スクールアイドルは自分自身が満足できようになれば良いと言いましたが、それはどこまでも自己完結的です。この結論はアプローチこそ違えどこれまで書いてきた記事で主張してきたことと相違ないもので、自分の外側に向かって自分を主張する意味まで言及していません。

 

 スクールアイドルは自分を自分自身で計るものだと言いました。じゃあ、どうやって計るのか?方法の話です。きっと、自分の中に観念的な他者を生み出し、その眼を通して自分を見つめることで評価するでしょう(自分の目は自分で見られないから、他者の眼を通す必要がある)。(物質的な)ガラスの鏡においても、鏡を見つめる自分(A)がいて、鏡に映る自分(A')がいるとき、自分はA'の立場に立って鏡の前に立つAを見ます。A'はつまるところ他者です。ここでも他者を通して自分を見ていると言えそうです。言いたいのは、なんであれ自分を評価するには「他者の目」が必要ということです。ということは、自らが価値を創り出した自分を他者の前に晒す必要があります。その機会こそライブなのです。観念的に創り出した他者とは違う、実体を持つ他者です。

 自分が確かに存在するから、同様に目の前の他者も確かに存在する。視点を他者に移せば、他者が己の存在を確かなものと信じ、僕を承認するから僕も確かに存在する。だから、自己実現した自分を承認してもらうため――自分の内的世界を破り外の世界へ進出するためにライブをするのかもしれません。

 しかしながら上述したように、人間は他者を真偽でのみしか計ることができません。だからこそ、というには結論を急ぎすぎているかもしれませんが、同好会の彼女らはお互いに自己実現をしている自分たちを肯定し合うのです。なぜならステージに立つ彼女らの在り方は真だから。逆に、ランジュ・栞子*4の元へ押しかけ、在り方の修正を望んだのは彼女らが偽だったからかもしれません。

 

 他に理由を考えるなら、人間は行動という外の世界への働きかけをすることで初めて意味を持つからかもしれません。

 再び人間をキャンバスに例えてみましょう。絵を描く時にキャンバスへどんな色を乗せようか様々な可能性が浮かぶことと思います。ですが、いくら頭の中で色を塗り絵を完成させても意味がないだろうってことです。キャンバス(スクールアイドル)として価値が計られるのは実際に乗せた色によってなのです。これは自分自身で満足するとしても、実在する他者の眼を通すとしても変わらないのでしょう。キャンバスに色を塗るのは人間でいう”行動”にあたります。行動し、己の自由意志を外へ発露させることにより価値が発生する。これがライブ(自己表現)なのかもしれません。

 

 この考え方ならば、自分の価値を自分で決める閉じた世界観を保ちつつ、ライブをする開けた世界観への接続ができる…かもしれませんね。

 

といった具合です。

 

5. おわりに

 4. に書いたことは自分でも結構うーんって感じです。でも記事を書くタイミングが今しかなったので文章にしてみました。分かる人にはバレると思いますが、この記事はある人間の影響を受けています。これまで書いてきた記事の考え方と似ていたので参考にさせてもらいましたが、何より言ってることが難しいので正直よく分かってないです。

 この記事を書くにあたり勉強していく中で、他にも考え方に触れてみたい人物が出てきたり、参考にした人の考え自体ももっと分かりたいと思ったりまだまだ道半ばです。主観-客観あたりの考え方はもう少し知見を広げたいですね。後は人間は社会的な生き物なのでそういう見方とか。他に”自己実現”、”自己超越”などのキーワードについてももっと知りたいです。ガッツリ勉強の時間をとるのは難しいかもしれないけれど、少しずつ進められたらいいかな。

 

それでは……。

 

 

*1:詳しくないけれど、脳を介するか否かで判定可能なのかな?

*2:「満足」の語は2期3話でしずくから侑へ向けられた発言から取っています

*3:人間は根源的に己の意味を求め、結果として満足を求めると言う人もいますが

*4:もしかしたら1期6話の璃奈

僕の虹ヶ咲観における「自己実現」について

 今回は僕が虹ヶ咲のブログを書く際によく使っている言葉、「自己実現」「真に自分がなりたい自分」「他者の視点からの脱却」等々の言葉について書きます。僕の方でも感覚的に使っている部分が大きかったので、ブログの中身をより明瞭にする目的で意味を定めていきたいと思います。

 また、この記事は年内に出すことを目標にしている虹ヶ咲2期の感想記事の準備でもあります。


1. 自己実現とは?

 まず僕の虹ヶ咲観の根幹にある自己実現についでです。これは平たく言えば「自分のやりたいことをやりきる」の換言です。自己実現の言葉自体は20世紀の心理学者アブラハム・マズローが用いたものとして、安い自己啓発本などでしばしば取り上げられるため、うさんくさいなどあまり良い印象を抱いていない方もいるかもしれません。現実の僕らへ適用できるかはともかく、アニメを見る際にはいい道具となる考えだと思っています。

https://www.ac-illust.com/main/detail.php?id=22143936&word=%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AC%B2%E6%B1%825%E6%AE%B5%E9%9A%8E%E8%AA%AC&searchId=

 マズローによると、人間は上図のような5段階ないし6段階の基本的欲求を抱えており、これらを満たすため生きようとします*1。それぞれ低次なものから、食欲・睡眠のような生理的欲求、健康的な生活を目指す安全の欲求、社会集団に属することで孤独を避ける社会的欲求、そして他者から認められ承認を欲する承認欲求があります。これら4つの低次なものは欠乏欲求と名付けられ、その上に高次な成長欲求――自己実現の欲求があるとしています。

 人間はそれぞれ低次の欲求から満たそうとします。最も低い生理的欲求はまさに生命活動に関わるものです。安全欲求は問題なく食事ができる環境にある人間が次に抱くものです。外敵から身を守れる場所を欲したり、そもそも外敵のいない環境を目指したり。そうやって低次の欲求から満たしていった先に、最後に待っているのが自己実現の欲求です。

 自己実現の欲求は自分が適している物事に没頭し、自己の可能性を最大限発揮できていると自覚することで満たされる欲求です。またこの欲求には終わりがなく、己の能力を高め続けることを人生の最終目標に据え、成長を実感することで欲求を充足させ続けられるというものです。(手元に資料がない状態で書いているので誤りがあるかもしれないです)

 ただ、僕が虹ヶ咲のブログで使用している「自己実現」はマズローが用いていたものとは意味が異なります。あちらの自己実現の形は社会貢献と結び付けられた善性の概念ですが、僕のブログでは“他人に迷惑を迷惑をかけない範囲で”自分のやりたいことをやるというものです。それが仕事のような社会貢献に繋がっている必要はありません。なんなら、“自分の能力を最大限発揮される”という条件すら脱ぎ捨ててもいいかもしれません。

 

2. 僕の自己実現

 このマズローとの差異が「真に自分がなりたい自分」にも関わってきます。彼が提唱した低次の欠乏欲求は僕の虹ヶ咲観にも引き継がれるとして、その上に立つ成長欲求に違いがあることは上述の通りです。そこで僕が考える自己実現とは以下の状態です。

 

① 自分のやりたいことをやりきっている
② ①の際に、それは他人のためではなく、自分のためだけに行う
 
2.1 自分のやりたいことをやりきっている

 まず①の「自分のやりたいことをやりきっている」。これを僕は衝動の肯定と呼んでいました。…自分の使っている言葉を説明しようとしたら、自分の使っている言葉で説明しだすマトリョーシカになってきたね…。

 とはいえ一口に人間のやりたいことと言っても、僕は大きく2種類に分けられると思っています。それは衝動からくるものと、理性からくるものです。この違いを説明するには理性からくるものの例を上げると分かりやすいです。例えば「人に好かれたいから他人に優しくしたい」。これをその人のやりたいことと言っても差し支えないでしょうが、計算の上に成り立つ理性的な欲求と言えるでしょう。

 対して衝動的な欲求とは、1期1話歩夢の「可愛い服を着たい」などが挙げられると思います。一般的な意味での生理的欲求より高次な欲求なので衝動という語を当てるのは紛らわしいような気がしなくもないですが、自らの利益など、行動の結果を計算に入れず心から「やりたい」と思うことを衝動としています。

 衝動の肯定とは、「やりたい」を実行してよいと肯定することです。1期1話で侑が言っていた「着たい服着ればいいじゃん」ですね。年齢不相応な格好をする願いに理性でストッパーをかけていた歩夢が、あの階段でDream with Youを歌うことで心の障害を破壊しました。これが「自分のやりたいことをやりきっている」です。

 そして、このやりたいことを達成した暁には何らかの変化が自分に訪れるはずです。1期1話歩夢の「可愛い服を着る」。1期3話せつ菜の「大好きを叫ぶ」。1期6話璃奈の「みんなと繋がる」等々。これまでの自分から変化し、自分のやりたいことをやりきっている姿になることを僕は自己実現と呼んでいるのでした。そして、この姿は劇中でステージに立つスクールアイドルとして描かれています。

 さらに、このとき実現しているときの自己こそが「真に自分がなりたい自分」です。計算からではなく己の欲求に従い行動し、自らに嘘をついていない姿。逆に真に自分がなりたい自分“ではない”自分とは、1期8話までのしずくが挙げられます。理想のヒロインとして振る舞い、誰からも好かれるよう生活し、自己を理性的に成長させていく。これもまた彼女の「なりたい自分」であったことに間違いないと僕は考えますが、それが“真に”かと問われればNOと言わざるを得ません。この場合、彼女が真になりたかった自分は、計算から生まれた八方美人の味気ない人間ではなく、誰かに嫌われるかもしれない素の自分と言えるでしょう。

 最後に、自己実現に能力の有無、適性のあるなしは関係ないです。例えば1期6話の璃奈。表情を作ることが苦手な彼女は決してアイドルに向いている人間と言えません。しかし、スクールアイドルであれば話は別です。スクールアイドルに求められるのはただ「やりたい」という気持ちのみ。だからこそ璃奈はスクールアイドルとしてステージに立ち、ライブを通してみんなと繋がることが出来ました。璃奈ちゃんボードを使うとか、できないことをできることで補うとか、手段は本質ではありません。繰り返しますが、ここに必要なのはやりたい気持ちのみです。やりたいことをやりきったからこそ1期6話の璃奈は自己実現をしていたと言えるのです。

 

2.2 それは他人のためではなく、自分のためだけに行う

 次に②です。これは難しい話だと思います。

 人間社会には多種多様な人がいますね。中には自分より他人に尽くすことが本当に幸福だと感じる人間もいるでしょう。その場合、社会貢献し続けることがその人の自己実現と言って問題無さそうです。というか、原義に従うならこちらこそ自己実現していると言えます。

 ですが、僕の虹ヶ咲観ではこれに否定的です。2期8話で作曲に悩む侑にミア・テイラーは「みんな喜んでくれるよ」と言いました。それでもいいかもしれない、でも、本当に自分がしたことはそうなのか?と侑は疑問を抱きます。結果的には自分を伝えたいという至極自己中心的な解答に至りますが、この自己中心的な考え方が僕の使う自己実現です。誰のためでもない、自分のための自分のやりたいことをやるのが自己実現

 そしてせつ菜や栞子に言及しようとすればやや複雑な話になってきます。生徒会長としての菜々も、他人をサポートする栞子も彼女らのやりたいことであったはずです。しかし、これらの姿は僕の言う自己実現像に含みません。これは自己実現「自分のためだけに行う」ものと定義してしまった結論からの逆説的な帰結です。されどもこの条件を捨てることはできないのです。後述する「他者の視点からの脱却」に繋がる話ですが、僕は人間が自分一人で自らの意味を獲得できることに価値を感じているので、他者に依った自己実現の形を認めるわけにいかないのです。

 

 自己実現には終わりがない、自分を高め続けることが生涯。この考え方もまたマズローのものから僕の言う自己実現に引き継がれています。1期6話の璃奈はライブで成功を収めました。だからといって彼女のスクールアイドル活動が終わるわけではありません。もっとたくさんの人と繋がりたいとか、もしかしたらボードを取りたいとか、様々な目標が次々と立てられるはずです。達成しても達成しても新たに生まれる目標に挑戦し、それをさらに達成することが自己実現の欲求を充足することとなり、これは生涯終わることのない活動だと僕も考えています。

 僕の思う虹ヶ咲(少なくとも1期)はスクールアイドルという形で自己実現を叶えていき(やりたいことをやっていき)、最終的に満足するまでの物語です。この満足の語、僕が勝手に使っているだけでなくて、2期3話でしずくが侑に対して使ってもいるんですよね。

 

3. 他者の視点からの脱却

 こちらも自己実現と並んで僕の虹ヶ咲観の根幹をなす考え方です。この発想に至ったのは1期3話の「ラブライブなんて出なくていい!」からです。他者の視点からの脱却――この言葉は、自分の価値を他者による評価ではなく自分自身で定め、自己実現の度合いすら己で決定できることを示しています。

 

 まずラブライブとはなんでしょう?それはスクールアイドルの全国大会で、スクールアイドルの点数化・順位付けを行う競技会です。

 芸術作品で順位付けを行う場合、対象の魅力を定量的に扱えるものにしなければなりません。それが点数です。その多寡でもってスクールアイドルの順位付けを行うのです。

 点数は評価を行う者が有限の数だけ評価軸を用意し、総合的に決定するものだと想像できます。例えば「ダンス・歌唱の難易度」「ダンス・歌唱の構成」「ダンス・歌唱の正確さ」などなど。一見これらは正確にスクールアイドルの価値を測れるように見えますが、それは僕らがこういったある意味ペーパーテスト的な“良し悪し”の感性に慣れ親しみ過ぎているからです。

 

 このような評価方法には2つの問題があります。1つ目に評価軸の量的な問題。2つ目にその質的な問題です。

 まず問題の1つ目が、評価軸が有限の数しか存在しないこと。人間の魅力と簡単に言っても様々なものがあります。それはきっと無限個*2の要素が複雑に絡み合い出来上がっているもので、せいぜい競技会で用意できる程度の数では全容を測れるわけがありません*3

 2つ目は、点数が他者の主観に依存して下されてしまうことです。普通に考えたら競技会は客観的な評価軸でもって点数化を行うシステムのように思われますね。しかし、この話題において絶対的な客観は存在しないとします。

 なんとなく、競技会で使われる評価の指標って人間の主観から離れてフワフワと宙に浮いた客観というものを言語化したもののように思われませんか?だけども、誰の主観も介さない本当に客観的な指標って原理的に作り得ないと思うんですよね*4。結局、僕らが思ってる客観的な評価ってのは、同じ価値観を共有した人間の主観を平均化したものです。「ダンスの上手さ」を測る指標1つとっても、まず「どういうダンスが上手いと言えるのか?」を考えなければなりませんし、それは会議に参加する人間各々の主観から発せられます。つまるところ、競技会に参加し点数化されるということは、何者かの主観で測られることになります。自分のやりたいことをやっているのに、他人の主観で評価されるって矛盾に感じませんか?

 

 恐らくこのような背景から虹ヶ咲は競技会の存在を切って捨てます。少し論理の飛躍がありますが、競技会の価値観から抜け出すことはそのまま他者の視点からの脱却を意味します。

 

補足:ラブライブの話をしてるのに、人間の評価がどうこうまで話を広げてるのちょっと紛らわしいですね。話を抽象化して、「ラブライブに出ない選択をする」=「誰かに評価されることを嫌う」ってことです。せつ菜が存分に大好きを叫んだとしても、少なくともラブライブから好ましい評価を得られない。そこに矛盾があるだろって文章でした。

 

 ならばどうやって自分を評価すればよいのか。簡単な話で、他者がダメなら自分ですればよいのです。2期3話侑の「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」が全てを如実に表してくれています。ブログを書くことの放棄になりますが、これが答えです。というか、自分のやりたいことをやっているのをどう価値付けるかなんて、それは自分しかいないに違いないんですよ。

 

 栞子の言う「適性」も他者の視点から脱却することで意味を変えます。栞子が唱え続けてきた適性とは、自分の外側――例えば社会が用意した評価軸の上で良い点数をとることができる能力を指します。テストでいい点数をとったから勉強の適性がある、とか。

 ただ、2期7話で言われた「やりたい気持ちも適性」の考えを採用するなら、その評価軸は自分の内側に位置を移します。自分がやって楽しいか、満足できるかが適性を測る評価軸になるのです。自分の気持ちを測るのに他人の介在は必要ありません。自己実現に当人の能力は関係ない話がここに繋がってきます。

 他者の視点からの脱却は、自己実現に能力の有無は関係なく、自分のやりたいことをやればいいという話を補強する材料となります。

 

4. おわりに

 僕は虹ヶ咲(少なくとも1期)を、自己実現をする人間がスクールアイドルであり、彼女らは自分の価値を自分で決めているアニメと考えています。個の尊重をする虹ヶ咲のコンセプトを出発点に、人間は満足するために生きているという僕が用意した結論に至るための僕が作った超主観的・個人的な見方です。

 人間が満足するための手段として自己実現の欲求を充足させるという手段を用意しました。そのためにやりたいことをやりきる――スクールアイドルをすると解釈して。スクールアイドルを通して自己実現の欲求を充足させるには、自分が用意した評価軸の上で成長すればよい。どこまでも自己完結的な考え方です。自分でやって自分で満足する。そんな在り方を虹ヶ咲のスクールアイドルに求めるのは、僕がそういう在り方に憧れているからかもしれませんね…。

 

おわり

 

 暇があれば今度は僕なりの「自己表現」「トキメキ」についての記事も書きたいと考えています。こちらは今回のような人間の内側に目を向けた概念ではなく、外側に向けたものです。他者との関わりについては2期のテーマにもあると思うので最終回を見るまで何とも手が出しづらいのが正直なところですが、様子を見てやっていきましょう。

*1:簡単のため、僕は5段階の論を採用しています

*2:ないしそれに限りなく近い数

*3:人間の魅力という無限個の軸で測られるべきものが有限個の評価軸で測られるため問題が生じる

*4:自分に対する相対的な意味での客観なら話は別

虹ヶ咲2期8話『虹が始まる場所(TOKIMEKI Runners)』感想"付録" - アニメ文脈『TOKIMEKI Runners』歌詞読み

 昨晩いそいそと感想文をアウトプットしたら案外時間の余裕ができてしまったので、今日も少し何か書こうと思います。自分の考えをドカドカと吐き出すのは気持ちが良いです。

 

2期8話感想↓

ro-puru.hatenablog.com


1. アニメ文脈で『TOKIMEKI Runners』の歌詞読みをしてみよう

 歌詞読みってすごく体力使うからあんまりやったことないんですけど、さすがに侑が作詞・作曲したこれはアニメ単体で見ても積み上げられた文脈が強いのでこの機会にやってみます。ではさっそく…

 

1.1 アニメで記された歌詞

生まれたのはトキメキ 惹かれたのは輝き

 1期1話でせつ菜の『CHASE!』を見た侑そのものですよね。あの瞬間から侑の心の中にトキメキが芽生えました。それはせつ菜――スクールアイドルが全身全霊をかけて自分の存在を叫んで自己表現をする輝きに惹かれたからです。

 輝きの正体について2期8話でようやく判明し、自己表現する姿だと明確に定められました。

 

あの日から変わりはじめた世界

 毎日歩夢とぼんやりと目的も持たず、ただ流れていく時間を謳歌していた日々は変わり始めます。1期1話時点では同好会は解散しており、ファンや他校のスクールアイドルとの繋がりなんてものもありませんでした。その環境はあのライブを境に目まぐるしく変化し始めます。

 新しいスクールアイドルが生まれる遠因にもなり*1、加えてランジュが来日するきっかけとなったスクフェスも開催され、さらに規模を拡大した第2回まで開き、本当に遠いところまできましたよね。

 音楽をやりたい気持ちから音楽科へ転科することにもなり、人生に小さくない転機が訪れた日です。その影響は上で書いたように自分自身だけではなく、繋がりを持った人間全員まで伝播してきました。

 

見てるだけじゃ足りない カラダ動かして

 スクールアイドルを見てしまったら、もう見ているだけではいられません。それはトキメキを与えられたからで、具体的な目標も定まらず走り出した侑のように、気持ちよりも先にカラダが動き出してしまうような衝動が全身を支配するのでしょう。

 きっと、スクールアイドルから与えられたトキメキだけじゃなくて、何かをやりたいって気持ちが生まれたら全員そうなんです。1期4話アバンで観客が楽しそうにする姿に惹かれた愛なんかはこっち寄りの存在な気がします*2

 

できることないか 探してみようよここで

 抽象的な部分ですが、侑の例を当てはめてみると、まだ夢が分からない状態で出来ることとして誰かを応援することが代入されました。

 こういう見方をすると、トキメキを抱いた人間は居ても立っても居られなくなり、その衝動をどうにか発散しなければ気が済まない様子を表しているように読めます。この時点では侑のように、まだトキメキの行き先であるの具体的な形が見つかっていないのかもしれません。だから何でもいい、今自分に出来ることを探すんだと思います。

 

これは夢かな? 夢ってステキな言葉

言ってるだけでイイ気分

 恐らく1期3話あたりの侑です。あのときにはもう音楽のことを意識しだし、強い興味を抱いていたはずです。でも、まだ夢なのかどうかは判然としない。音楽っていうのは1期11話, 12話でようやく侑の口から夢だと明言された事柄ですよね。

 でも、トキメキに実体が生まれ始めたそのときにはもう楽しい気持ちでいっぱいなのでしょう。上手でなくとも、音楽室のピアノを借りて『CHASE!』の練習をする時間は充実したものであったはずです。夢*3って、始まった瞬間は希望しか無くて、目の前が光り輝くような景色に見えるはずです。みなさんも経験したことはありませんか?

 

きっと夢だと決めてしまえ

ああっ勇気が湧いてきた!

 これはどういうことでしょう。Runnersって言う通りもう止まることはできなくて、夢かも?と予感を抱いた時点でそちらに舵を切って進もう!って言ってるんでしょうか。僕的にアニガサキは刹那主義の面があると思っているので、そういう性質が強く前面に出ている歌詞に思えます。考えるよりも、今自分が感じている直感を信じて楽しいと思える方向に突っ走ってしまう姿勢に見える。

 走って行く先を夢だと決めてしまえばもう迷うことはなく、突き抜けるのみです。夢を追っている時間はやはり楽しいもので、活力がみなぎり、そんな状態を勇気が湧いてきたと表現しているのかもしれませんね。

 1期12話で「夢があるんだ」と宣言した時点の侑はこの状態だったように思えます。あのときは、きっと音楽が自分の夢だと決めて走り出したんです。そして2期8話でようやく自分を表現したい夢が明確になったと受け取りました。

 

ワクワク叶える物語(ストーリー)

 

どうなるかは僕ら次第

 自発的に行動を起こし、現在の環境を勝ち取った侑だから言える言葉です。夢への道程で選択権は夢を見つけた者にある。すごく前向きな歌詞だと思いませんか?やりたい気持ちがあるなら、それを掴み取るかどうかの可能性はもうその人の中にあるんです。

 アニガサキのメッセージとして、僕らに投げかけているものでもあります。スクールアイドルを見てトキメキは受け取ったはずだ。なら、その後の君たちはどうするのだと。

 

出会いって それだけで奇跡と思うんだよ

 仲間、人間同士の相互作用を重要視する歌詞です。このアニメは迷ったとき、行き詰まったときには必ず他者からの助けがあり前へ進むことが出来ます。

 侑にとってそんな助けをくれる同好会、新規3人組、そして3人組と出会う遠因となったスクフェスを支えてくれる人たち全てとの出会い・繋がりは奇跡に違いありません。その繋がりがあったから現在に至った。人間が人間に出会うことって、それ自体が素晴らしい出来事なんです。

 

ワクワク叶える物語(ストーリー)

 

みんなで楽しくなろうよ

 侑が同好会にいたいと願う理由そのものじゃないですか?みんなと手を取り合って、足りないものを補いながら関係が同好会の本質ではないはずです。きっと、みんなと一緒にいて楽しいからあの輪の中にいたいんです。これはランジュへのメッセージも意図されてそうですよね。

 僕は一人の時間も大好きですが、それと同じように誰かと過ごす時間も好きです。その感情は人間の中でかなり普遍的に存在し、多くの人が当てはまるはずです。出会ってしまったなら、一緒に楽しんでしまった方が楽しいはず…。

 

生きてる!ってココロが叫んじゃう

そんな実感欲しいよねっ

 夢へ向かって走ること、自己実現を叶えることこそが人間の生きる意味だと僕は言ってきました。まさにそれですよね。生きてる実感を得るために侑は夢を追いかけるんです。この作品に生きる人物たちの目的そのものです。

 

(ワクワクしたいキミと ワクワク発ストーリー)

始まれ! (ワクワクしようキミも!)

 (追記)ここで、「キミも!」と言っているんですね。

 

 

 こんなところです。今まで僕がブログで書いてきた文章をそのまま回収された歌詞って感じです。すごくしっくりきて、アニガサキもこの曲を軸に物語が構成されていたんだと実感できました。

 

1.2 アニメ範囲以降の歌詞

 侑のノートに記された歌詞は以上までですが、それ以降の意味も考えるのが自然でしょう。これからのアニメ範囲でこちらをカバーする可能性も考えられますが、ひとまず現時点での読み方をさっきよりハイペースで書いていこうと思います。

 

不意にきたよヒラメキ やれるかもと呟き

これからはキミと旅する世界

 もう夢へと走り出した状態のことでしょう。その道中ではきっといろんな気づきがあります。1期6話で璃奈が璃奈ちゃんボードをひらめいたように。侑にもきっとそんな経験がたくさんあった、または訪れるはずです。

 2行目が意外と難しい気がします。スクールアイドル目線なら読んだ通りなのですが、侑の立場に立ってみると誰のことを指すのか。同好会?ピアノを聴いた観客?何にせよ、一人ではなく自分と共にいてくれる誰かの存在を大切にした歌詞です。

 

知らないことがたくさん キモチ高まって

できることあるよ 何かはわからないけど

 夢へ駆け出し、扉を開いた先は未知の世界が広がっていて絶えず刺激を受けるでしょう。そんな喜びのことを言っているのかな。

 また、知らないこと=できないことと読み替えてもいいかなと思ったり。また璃奈ちゃんの例を出しますが、できないことがあっても、何かできることがあるかもと可能性を模索するのは必然的に訪れる困難です。そこに闘志を燃やす様子を描いているのかな~って読み方。

 

みんな夢見たい? 夢っていつから見るの

気がついた時 もう見てる!

だからまっすぐに進んでみよう

わあっ希望に呼ばれたよ

 これ1番の反復ですよね?トキメキが生まれて、気づいたときには夢になってる。それは何か大きなきっかけがもたらされるだけでなく、グラデーションのようにいつの間にか夢を見ているのかもしれません。

 転びそうなぐらい全力で走って、重心を前に移し前傾姿勢でいるのは、さながら希望(≒夢?)に引っ張られているものなのでしょう。呼ばれているから、応えるように自らものそちらへ向かっていく。

 

キラキラ求める明日(tomorrow)

 

どうしたいかは僕ら次第

 「どうなるかは僕ら次第」と姉妹のような歌詞。「どうしたい」なんてものは自発的な感情そのもので、それは僕らに委ねられてるのは当然かもしれません。再度の確認をすることで、行動の選択権が夢見た人にあることを強調しているように感じます。

 

願いって 大きなほどキレイだと思うんだよ

 これは…分かりません!勝手に願い=夢と読み替えていますが、大きなほど綺麗なのでしょうか?小さい夢を間接的に否定しかねない危険を孕んでいるように感じますが、穿った見方かな。

 でも、侑の夢がステップアップしていって、スクフェスの開催まで漕ぎつけたのはアニメでポジティブに描かれており、そういう側面もあるのかもしれません。夢の大きさを測る定規が人それぞれ違う相対的なものと考えるなら、自分の限界に近づくような、そんな夢を追いかけることが是とされているのかな。

 

キラキラ求める明日(tomorrow)

 

みんなで笑顔になろうよ

 上に書いたことと同じですかね。

 

そして走りだして

 

どこ行こうか? (どこでも!)

トキメキに聞いてみよう

好きなことが鍵だよね

胸に手をあて 聞いてみるよ「大好き」を!

 いやすげえなここ。完全にここから逆算してアニメ作ってない?

 自分のやりたいことが指針で、好きなことを尊重して行き先を決めてるんです。侑の在り方そのもの、かつ、アニメ全体の思想そのもの。僕のアニガサキ観的には読んだままです。みなさんもそうではないでしょうか?

 

飛ばして

さあみんなも!

 2期8話まで見たみなさんなら、改めて確認しなくてもよいでしょう。この歌詞のメッセージは…

 

2. おわりに

 こんな感じです。付録ってことで色々雑多なことを書いていこうと思ったんですけど、歌詞読みだけで結構文字数いっちゃって疲れた!読み方的にはいつもの手癖で書いたのですが、やっぱり指を動かすのは大変です。

 

 まだ日曜なので、暇があったら他の記事も書けたら嬉しいですね。

*1:栞子

*2:せつ菜のライブが始まりになったことには違いない

*3:どんな規模のものでもいいと思います。自分の能力で届くか分からないもの、用意に達成できるもの、極論昼ごはんに何を食べたいかだって夢って言えると思います

虹ヶ咲2期8話『虹が始まる場所(TOKIMEKI Runners)』感想 - 自分のこと、みんなのこと

 2期7話感想文を書く時間がなくて、自分的にかなりグダグダなもになってしまった後悔から出来るだけ早くブログを開いて文章を残そうとしています。「やりたいと思った時から、きっともう始まってるんだと思う」

 

前回の↓

ro-puru.hatenablog.com


1. みんなに喜んでもらえるのは嬉しい、でも…

 アニガサキの感想文を書くとき、いつも引っかかっていることがあったんです。僕のアニガサキ観はどこまでも個人主義で、(他人に迷惑をかけず)自分が満足できればよいというものでした。そのためのアプローチが、芽生えたトキメキに従って自分が真になりたい自分になること。

 ですが、他者のために振る舞い、承認を獲得し、欲求を満たすことで生まれる満足だってあるはずです。そんな満足の形から意図的に目を背け、僕は僕の見たいアニガサキ像を形成していました。

 だけど今回の話はそんな見方すら許容してくれる可能性を示してくれた。

「確かに、今のままでもみんなに喜んでもらえるかもしれないけど、今、私が感じているこのトキメキは、もっと、なんていうか…」(侑)

 きっと、侑が曲を渡せばみんなは喜ぶだろう。だけどそれで本当に自分は満たされるのか?そんな疑問を投げかけてくれたと僕は受け取りました。

 何よりも自分がしたいことというのは自分が中心にあって、それを達成したときにしか味わうことの出来ない感覚があるはずで。少なくとも、スクールアイドルのような自己表現に存在をかける人物達から受け取った"トキメキ"という感情は自分のためにあるんだと侑も予感していたはずです*1

 

 このアニメは、1期3話で他者に迷惑をかけてしまうぐらいなら環境の方を変えてしまえと言いました。1期4話で自分がやりたいことは自分が楽しいと思えることだとも言いました。また、1期の全編を通して、やりたいと思ったならその瞬間にもう始まっていて止めることは許さず、自分が真になりたい自分になれとエールを送ってくれました。

 2期3話では満足できるかが重要で、自分はこの世界に一人しか存在せず、そんな自分しかできないことをやっていいんだと肯定してくれました。そして今回、2期8話で他人の喜ぶことも良いだろう、だけどもやはり最もやりたいのは自分自身のことだとも。

 

 2期3話で他者の視点からの脱却の話をしました。あのときの考えは今も変わっていません。トキメキに従う行為――自己実現は自分が自分で叶えていくものだと今でも思っています*2

 僕はこんな、自分を満足させるために"ソロ"で自己実現を叶えていくこのアニメのことが好き。それを改めて再確認できたエピソードでした。

 

2. 生まれたのはトキメキ

 僕はこれまでトキメキのことを衝動と換言し扱ってきました。作中の言葉を用いるよりも、一般名詞を使った感想文の方が分かりやすいと思ってそうしていただけで、2つの語の間に差異を設けていなかったのですが。

 今回の話はトキメキ=衝動も肯定してくれるエピソードだったように感じました。

 前々回、正直特に必要なかったけど気分で作った図が案外使えそうだったので流用します。

 この図は心から湧き出たトキメキ自体には形がなく、きっかけを通して具体的な夢になるということを言いたかったものです。1期1話で侑はせつ菜からそれこそ身を焼かれるようなトキメキを受け取りましたが、何をしたいのかは定まっていませんでした。

 スクールアイドルとは明確な夢を与えるものではなくて、トキメキと名付けられた「何かをしたい気持ち」そのものを誘発する存在ということです。スクールアイドルが夢を与えるなら、それはきっとスクールアイドルになる夢など限定的なものです。だから、それよりももっと根源的な、何かをしたい気持ちそのものを与える起爆剤の役割を与えられたのでしょう。

補足:1期でスクールアイドルはトキメキを与える存在だと明言されました。今回、スクールアイドルは自己表現をする存在だとも。そして、スクールアイドルではない侑が自己表現をする側に回りました。それの意味することはもしかしたら、①スクールアイドルとその他の区別の破壊②侑がトキメキを与える側に回る、なのかもしれません。

 

 侑は1期で夢を見出しました。今回のエピソードはそれをもっと明確にする話だったのかなと捉えています。なぜ音楽をやりたいと思ったのか、その答えは2期3話でもいったん示されましたが、なぜ同好会に身を置きつつその夢を追っていたのかを僕らに提示したような。2期1話でランジュから発せられた問いへのアンサーでもあります。音楽科で自己表現の手段を磨きつつ、同好会に属する意味。

 たぶん、同好会にいる侑はファンではなく(スクールアイドル同士を指す言葉としての)仲間でライバルへ加わったのです。これはある意味、ファンとしての自分と音楽をする表現者としての自分を分離し、夢を確立することなのかもしれません。

補足:スクールアイドルとファンの垣根を破壊することが2期のテーマだと仮定したとき、「ファンの自分」と「夢を追う自分」を剥離させる意味に答えられないので「たぶん」と言っていますが。もしかしたら、「見てるだけじゃたりない」なのかもしれませんね。自己表現者の姿にトキメキを感じるファンへはスクールアイドルを含めた誰しもがなり得て、そこから何かを始める(=見てるだけじゃたりない)ことが拡張された概念の「スクールアイドル」なのかも。

 

 またいらぬ図を用意しました。お気づきですね?ただ図を作るのが楽しくなっているだけなのが…。

 僕が現時点で考えているスクールアイドルとファンの統合は、図のようなループをイメージしています。スクールアイドルからトキメキを与えられたファンが夢を見つけ、自己表現を行うことで拡張されたスクールアイドルになり得る。ここに特別な区別は存在しません。誰しもがファンに、スクールアイドルになる可能性を秘めている。これからの話でこういったところに言及されるか注目したいですね。

 

3. 人間同士の相互作用

 これもまた1期から感じていて、2期でさらに強くアニメから発信されているような気がする要素です。

 スクールアイドルの背中を押すファン、ファンを応援するスクールアイドル、ライバルで仲間、スクフェスの開催にあたり協力してくれたみんな、見てくれるみんな。要素を書き連ねれば枚挙に暇がありません。

 自己実現像そのものに他人は介在しないと、少し強めの表現であるものの僕は言ってきました。ですが、そこにたどり着くまでの道筋は自分一人で歩いて行くものではありません。誰かが助けてくれるから自分のキャパシティを超えた大きな夢も実現できる。みんなと歩くから、その道程は彩り溢れたものになる。そこにきっと理由はないです。人は人と共に過ごすことで楽しさを感じるんだ。1期6話でも、1期7話でも、1期8話でも、そして1期9話、1期12話、1期13話…それこそこれを描いたエピソードを上げればキリがありません。

 

 僕はこのアニメの描く人間像は内外へ向けた2つの性質を併せ持っていると思います。内へは自己実現の欲求、外へはみんなと共に歩み、関係を育む欲求が生まれている。2期は1期よりも殊更に外向きへの働きが強く感じます。特に感じるのは「お返し」。1期13話でスクールアイドル→ファンへのお返しを示してから、2期4話で愛さんから美里さんへのお返し、そしてまた2期6話、2期8話でありとあらゆる人間へのお返しが描かれました。お返しというのは何かを受け取って初めて発生する概念で、それは人間同士の相互作用を象徴するものに他なりません。内的な自己実現という目標を掲げ続けたアニメがこれを強く押し出すことに僕はどうしても惹かれてしまいます。

 

 2期でこの要素のアンサーが出されるかは分かりませんが*3、ランジュを攻略するキーになる手応えもあります。スクールアイドルとファンの垣根の話題と並行して今後注視していきたいポイントです。

 

4. おわりに

 明日から次の話の放送まで本当に書く時間を確保するのが難しそうなので今のうちに書いてしまいました。突貫工事ですが、前回よりは書きたいことを書けたと思います。

 また何か思い浮かんだら追記しようと思うのでよろしくお願いします。

 

 いやでもやっぱり、僕の見たいアニガサキ像をかなり押し付けているとはいえ、自分のしたいことだけが指針になるような主張をしてくれるこのアニメのことが本当に好きなんです。これから2期後半で、1期の例を見ればさらに話を突き詰めてくると思うので緊張しますね。どんな思想を用意しているのか楽しみで仕方がありません。

 

 あと、気になったのは侑ちゃんが音楽科の方で苦戦している話の回収は未だされていない認識でいいのかな。今回答えられたのは同好会に身を置く理由だけで、キャパシティを超えた夢を抱えたアンサーにはなってないような。ミアの助力があってTOKIMEKI Runnersを作れたことから、他者からの応援によって不足した能力を補うって見方もできなくはないですが。

 あとは、せつ菜が菜々と統合されたように、音楽の夢と同好会でみんなに近くにいることの2つの目標が統合された線もある?僕なりの答えは保留ですが、今後の話で明らかになるのかな。

 

顔が良すぎるだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!

*1:侑の例を一般的なものまで拡張しようとしていますが、違うトキメキの可能性の存在を完全に否定しきれていないし、する意図もありません

*2:自己表現は他者の存在があってこそ実現するものだけれど、表現する自分を作り上げるのことは上に書いたような真になりたい自分になることで、ここに他者は介在しない考え

*3:既に十分に描ききっている感もあり

虹ヶ咲2期7話『夢の記憶』感想 - やっぱり大事なのは満足できるか

 忙しくなってきて感想文を書く時間を捻出するにも苦労しています。今週も金曜の夜にせこせこと書き始めて…もうちょっと余裕をもってやっていきたいです。

 2期7話についてですが、作品として新しい概念は恐らく登場せず、これまでのエピソードで同好会が手にしたロジックを使って栞子ちゃんを攻略する話でした。最後のひと押しは薫子さんだったわけですが、その一言が重かった。

 

前回の↓

ro-puru.hatenablog.com


1. 適性も自分を中心にして決めていい

 これは僕の思想です。2期3話の感想文にも書いた、「自分の価値は自分で決める」とかなり近く、繋がったものです。これは僕の見たいアニガサキに違いないのですが、やりたいこそが適性をそう受け取りました。

 

 今回の話では大きく2つの適性が出てきました。1つは栞子の言う「できる(skill?)」、もう1つは果林の言う「やりたい(want)」

 栞子は「向いていることに全力を尽くす」ことこそが良いことだと言いました。これは、自分の外部から与えられた評価軸の上でプラスになれる能力を備えているか否かが判断の基準になります。分かりやすいのは点数が出るテスト。赤点を取ってしまえば適性がなく、逆に高得点であれば適性があると言っている。つまり、適性の有無は常に自分の外に用意された指標によって測られる。ラブライブなんかは顕著な例で、基準に従ってスクールアイドルを点数化し、その高低で順位付けを行う。そして、点数の低い者は適性がないと判断されてしまう。

 対する「やりたい」を適性と捉える捉え方は、評価軸を自分の中に置いています。この評価軸は自分が満足できるかどうかを測るもので、達成能力の存在に注目していません。出来るかどうかというのも結局、他者がいて成り立つ相対評価で、自分中心に考えるときには発生し得ないとまで言わずとも希薄な概念になるはずです。こちらの考えでは己が楽しめて、満足できれば適性があると言え、その能力については言及していないのです。

補足:とはいえ、自分の出来ることを突き詰め、周囲から称賛されることによって得られる満足感もあります。というか現実的にはこちらの満足感を得ることの方が多いでしょう。だから栞子はこちらの道を選択していた。

 

2. 後悔したくない

 栞子の言う適性が云々の話は実のところ、後悔したくない・傷つきたくない願いが中心にあります。それは栞子の言うように誰だってそうでしょう。傷つきたくないから、上の補足で書いたような道を栞子は進んできた。他人から低い点数をつきつけられて、お前には結果を出せないと示されたら誰でも傷つきます。また、捧げてきた時間にそんな評価を下されるのは悲しいです。

 だけれど、やりたい気持ちを我慢することだって後悔するはずです。スクールアイドルは今しかできない、瞬きの間を生きる存在です。高校生である現在を逃せばその後悔を拭う機会は二度とやってこない。だから今始めることにも大きな意味がある。

 当人の能力なんて関係なく、自分のやりたいことをやり、束の間でも満足感を得ようとする姿勢は刹那主義を感じさせます。虹ヶ咲の優しさは、こんな刹那主義の生き方でも必ず報われると言ってくれることです。1期13話歩夢の「はじめてよかった」に始まり、今回の薫子さんの口から出た「後悔なんてしてない」。芽生えた衝動に従うまま突き進んだら、きっと良い未来が待っているんです。そう言ってくれるアニガサキが好きです。

 

 「後悔なんてしてない」は動き始めた者たちへの最大限の保障だと思います。すごーく感覚的な話をすると「はじめてよかった」の最上級の言葉。衝動に従った結果、1期13話の歩夢は「はじめてよかった」と言ったけれど、同好会に属する彼女たちはいつの日か「後悔なんてしてない」と、やってよかったとやりたいことに全力を尽くした高校生活を懐かしむはずです。

 今やりたいことをやることへの不安の解消的な意味を担う薫子さんの発言は、とても大きな意味を持っていると感じました。

 

3. おわりに

 1.も2.も、まだまだ書くことも書きたいこともあったと思う。でも、今もう疲れすぎて書くことが全く思い浮かばないし、文章も組み立てられなくてダメです。2期7話は上で挙げた話題以外にも触れるべきところはたくさんあると思うし、毎週感想を書いてきてようやく綻びが出たって感じですね。でも出ない記事より出る記事です。

 次の話はなんか重そうだし、コンディションを整えて後悔するような記事を残したくないですね。

 

 本当に顔と髪の毛の造形が好みな姉妹です