釣り堀

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初代ラブライブ(1期・2期・劇場版)を見たので、アニメ虹ヶ咲を踏まえた感想

 いきなり気温の高い日が続くようになり、もはや春を過ぎて夏になったか?と思われるこの頃。僕は先週から少しずつ初代ラブライブを見返していました。というのも、アニメ虹ヶ咲(以下、アニガサキ)を視聴するにあたって先代シリーズを知っておいて損はないだろうという判断のもの。アニガサキを見ていてラブライブシリーズの文脈を把握しておかないと困る箇所が存在した手応えもなかったですし、必要に迫られたというより、どちらかというと好奇心に近い興味からの視聴開始でした。

 しかし実際に初代を完走してみた結果、アニガサキは何よりもラブライブシリーズの系譜であり、その先達が紡いできたモノを無視して語るのは不可能だと実感しました。上にも書いた通り、アニガサキを見る上で必ずしも触れておく必要があるものではないのですが、アニガサキが作品で述べていることは初代という土台の上に成り立っており、その土台を見ないふりはできないのです。再三の確認になりますが、アニガサキの主張を飲み込むのに先代シリーズの知識は必要ありません。あくまでもアニガサキが生まれた経緯を知るのに不可欠な存在というわけです*1

 というわけで初代を見ていて気づいた点をポツポツ書いていこうと思います。2クール真剣視聴したわけでないので、自信を持って発信できる内容か不明ではありますが、備忘録としてもね。

  

 「1. 今までのラブライブに対するスタンス」は本当に昔話なので今回書きたいこととはあまり関係ないです。

 

 

1. 今までのラブライブに対するスタンス

 ラブライブシリーズに初めて触れたのは初代1期が放送されていた2013冬。もう8年も前ですね。当時は中学2年生で、深夜アニメに触れ始めて2年ぐらいの若いオタクでした。この頃にはもう放送されているものをとりあえず見るという視聴スタイルを確立していたので、そこそこアニメに触れてきた時期だったと記憶しています。

 そんな当時の初代への印象は恐らく「キャラが可愛いアニメ」ぐらいのものだったと思います。今でもこんな感想しか抱けないことが多いので、ましてや昔の僕なんてそんなもんでしょう。それでも、2期を見終えるまではコンテンツに対してマイナスイメージを抱くことはありませんでした。

 

 問題は2期が終わったあとの期間。2期は高校1年生の春に放送されていました。ちょうどこの時期ぐらいから2chで雑談板に入り浸るようになり、まとめサイトを見るようになり、Twitterでは様々な人をフォローするようになりました。恐らく2chの影響が強かったのでしょう*2、高校生の僕はみるみるうちに冷笑オタクになっていきました。2chを覗いたことがある人は分かると思いますが、10年代中盤ぐらいからの雑談板はそういう風潮がより強くなっていた時期でもあります。

 初代2期の終了後、ラブライブというコンテンツの人気は最盛を迎え、いわゆるラブライバーと呼ばれるラブライブファンが大量に生まれました。その方々が起こす様々な問題は頻繁にネットで話題となり、その度にラブライバーを中傷するスレやツイートが溢れかえるようになりました。高校生の僕はそういった内容の話題を好み、よく見ていたのを覚えています。ここまでなら人格的に難のあるオタクで終われたものの、事もあろうに僕はラブライバーを通してラブライブ自体を見下すようなスタンスをとるようになってしまいました*3。それ以来、以前は初代を好意的に受け止めていた姿勢を一転させ、さながらアンチとも言えるスタンスへと変化させていきます。

 人間は嫌いなものをさらに嫌いになるよう記憶を改ざんする生き物。初代を自分の思想と真っ向から反発するアニメだと思い込みこれまで避けてきました。(サンシャインに関しては別アニメということで、巻き添えを食らって嫌いになるようなことはありませんでしたが)

 

 時は経ち現在。初代の内容をほとんど忘れ、高校生の時分に培ったマイナスイメージだけが胸に残っていました。これが原因だと思われますが、僕は初代においてラブライブ(大会)は絶対に優勝しなくてはならないものであり、この大会こそが作品内における絶対的な価値観だったと勘違いを起こします*4。いや、これは本当に勘違いだったんですよね、詳しくは次に書きますが。こういう経緯があり、アニガサキ3話で読み違えが発生したり、よく覚えてもいない初代をあまり好きでない作品だったと言ったり、色々とよくないことをしてきました。というわけで、今回の文章は今までの誤った認識を改めた報告でもあります。

 

2. ラブライブ(大会)について

 タイトル通り。初代におけるラブライブ(大会)の立ち位置について。これは 1. にも書いた通り完全に誤解していました。初代を見返して気づいた最大のポイントはここです。

 ラブライブとはスクールアイドルの全国大会なようなものと作中で表現されています。実際にそんなようなものでしょう、投票によって予選・本戦で勝ち抜いた全国トップのスクールアイドルを決定する催し。初代とは、この大会でトップを取ることを目標として努力し、苦難を乗り越えていく物語…なんかではありませんでした。これが私の勘違いです。スポ根という看板だけで、初代は大会を至上の価値観として据え、これで優勝できなければすべてが無駄になる作品――そんな風に初代を捉えていました。

 

2.1 初代におけるスクールアイドルの全国大会ラブライブ

 初代では1期と2期共にラブライブの出場・優勝を目指しています。しかし、それぞれ別の本質的な目標があり、優勝そのものは手段に過ぎませんでした。その本質的な目標とは

  1. 1期 音ノ木坂学院の廃校を阻止する
  2. 2期 μ’sの9人で活動した足跡を残す

となります。2期の方は優勝そのものに価値を置いているところもあるかもしれないですが、それはより濃い足跡を残すためだと考えられます。ではそれぞれについてもう少し書きましょう。

 

 1期は、少子化の煽りを受けた志願者数減少により廃校の危機に陥っていた音ノ木坂学院を救うお話となります。そのための手段がスクールアイドル。そして、その活動を手っ取り早くアピールできる場がラブライブでした。つまり、学校の魅力を伝え廃校を阻止するためにスクールアイドルとしての活動を開始し、その活動を多くの人に見せつけるためのラブライブ。なので、ラブライブで優勝できなくとも廃校を免れれば目的達成というわけです。そして実際に、1期ではラブライブへの出場を辞退したものの、学校への志願者数は増加し廃校は見送られることになりました。1期は明確にラブライブを至上の価値と置いていないことが分かりますね。

 

 そして2期。こちらは少し事情が変わっているので、正直 上で書いたことを断言できかねているのですが、優勝への強すぎる妄執のようなものはなく、トップを目指すスポ根にありがちな毒を抜かれたような作品になっています。2期1話の花陽の言から足跡を残すことが今回の目的であると読んだものの、スクールアイドルの活動を続けることに楽しさを見出した穂乃果の様子を見るに大会で優勝をすることも目標になっていそうだなとも考えたり。

 2期10話でみんなの想いを背負ったアイドル――『みんなで叶える物語』をキャッチフレーズに定め本戦に挑むわけですが、この”叶える”の意味によっても読み方が変わりそうです。みんなの想いを背負いμ’sが輝くことこそみんなの願いだとするならば、必ずしも優勝を必要としません。しかし話の流れを見る限りラブライブで優勝することによってみんなの願いは成就されるように見えるのです。つまり優勝そのものが目的に設定されていると。ここら辺は僕の読み不足か作中で明言されていないのか不明ですが、μ’sが優勝に固執する理由が見えなかったので上に書いたような結論*5にまとめました。

 

まとめ:初代において、ラブライブは何よりも優先されるものとして描かれていなかった
2.2 アニガサキでのラブライブ(大会)

 では初代でラブライブが絶対の価値観でないとするならば、アニガサキを見る上で何が変わるのかという話です。これは3話で侑がラブライブを否定した発言へと直接繋がります。

 事の発端はせつ菜が同好会を抜けたこと。ラブライブで良い結果を目指すならばグループ全体が1つの色にまとまる必要があったのですが、かすみとの目指すべきところの違いによりそれは実現しませんでした。優勝を目指すならば2人は同居できない、そこで侑の下した決断というのが「ラブライブに出なくていい」です。自分たちのやりたいことへの障害になるならば大会なんて出なくていい。ラブライブを否定することによってアニガサキが主張していることは3つあります。

  1.  1つ目は「個人が持つ個性を尊重する」です。せつ菜は観客に自分の”大好き”を伝えたい、かすみは自分の”可愛い”を表現したい。ラブライブに出場することで少なくとも1名のやりたいことを諦めさせ、無理やり1つのカラーに染めなければならないのならラブライブなんて出なければいい、そう言っています。つまり、個々人それぞれが持つカラーを大事にという虹ヶ咲*6の根本となる思想が叫ばれています。初代では高坂穂乃果を軸としてμ’s、ひいてはファンまで1つになることで優勝を果たしていましたので、明確に初代と差別化の意図がありますね。
  2.  2つ目の内容は1つ目と被りますが「やりたいことがあるならば、それを曲げなることはない」です。個性を貫き通したいとき、ラブライブという障害があるならば避ければ良い。自分のやりたいことこそが最も尊重されるべきものであり、何人にもこれが阻害されてはいけない。と、少し強めの言葉で書きましたがそれぐらいの気迫をこのアニメからは感じましたね。
  • 実は、この主張は初代にも見らました。2期1話で様々なことに思いを巡らし「ラブライブに出なくてもいいんじゃないかな」と言う穂乃果をμ’sのみんなが激励して勇気づけます。「やりたい気持ちに嘘を付くな・やりたいことを貫き通せ」ここら辺の主張は初代・アニガサキで共通に見られ、これがラブライブシリーズの根幹にあるものなのでしょう。サンシャインをまだ見返していないので断言は難しいですが、十中八九この予想は当たっていると思います。
  1.  もう1つ理由があって、それが今回認識を改めたかどうかで見方が変わってくるものです。以前と現在の認識を並べると

     以前▶初代では、ラブライブで優勝することこそが至高の価値

     現在▶初代では、ラブライブは必ずしも出場・優勝が必要とされない

    です。以前の認識でいくと、ラブライブの否定はそのまま従来のラブライブシリーズからの脱却を意味することになります。しかし、現在改めた認識では、アニガサキは初代の「大会は目的を達成するための手段でしかない」という思想を引き継ぎ踏襲した作品になりそれぞれ真逆の読み方になります。この読み方の逆転こそが今回の再履修の最も大きな収穫だったでしょう。

     

まとめ:アニガサキ3話でのラブライブの否定は「個性の尊重」「意思の尊重」「従来シリーズの踏襲」を主張していた

3. アイドルとファンの関係

 これは2.2で書いたμ’sがみんなの想いを背負って叶える存在という話になります。初代ではアイドルという存在はファンから応援されるモノとして描かれています。2期10話で「ファンのみんなの応援を原動力にして、みんなの夢を背負い叶える存在がμ's」と明言されていますからね。これ、アイドルの立場からすれば「ファンの夢や願いを背負う」と捉えられますが、ファンからすれば「アイドルに夢を託す」ことに違いないです。対してアニガサキはこれに真っ向からぶつかります。物語の始まりこそ アイドル(アライズ/せつ菜) のライブを見た 観客(穂乃果/侑) が突き動かされる似たシチュエーションです。それでもこの2つの物語が別々の道を歩んだのは、穂乃果がアイドルの道を、一方の侑はファンの道を進んだことによる帰結に思われます。

 初代では2期9話にあるようにアイドルはファンに背中を押され前に進む存在です。強まる雪の影響で交通網が麻痺し、会場へ向かうことが絶望的になった状況で助けてくれたのは音ノ木坂学院の全校生徒。彼女らはμ’sに夢を託し、成就させてもらうため手助けをするのです。この出来事を根拠の1つにして、2期10話でファンのみんなの応援を原動力としている旨の発言がなされるわけですが、これが初代におけるアイドルとファンの関係でしょう。

  • これは脱線話ですが、穂乃果を軸にしてみんなの夢が託されるということは、必然的に夢が1つに収束することになります。虹ヶ咲の多様性を求める姿勢とこの在り方は相容れません。従って2.2のラブライブの否定が出てくるわけですが、それ以外にもアニガサキではスクフェスが大きなイベントとしてあります。スクフェスを開催するにあたり、同好会は観客の様々な意見を受け入れ、それらを全て実現するためお台場全体を会場としました。初代では夢の形が1つであるのに対し、アニガサキでは観客の数だけ夢があったのです。多様性を最高の価値とするアニガサキらしいやり口ですね。

 

 一方でアニガサキにおけるアイドルとファンの関係は初代と異なるものになります。初代がファンの夢をアイドルに託し背中を押して叶える物語という結論に至ったのに対し、アニガサキはファンの数だけ存在する夢をアイドルが叶える物語になります。象徴的なのは先程にも述べたスクフェスでしょう。無数に存在した夢を全て受容し実現する。それぞれが抱く夢を肯定する姿はまさに「自由と肯定」の物語です。

 そして、そんなアニガサキの至った結論というか帰結は、今まで侑(=ファン)に背中を押されてきた同好会の面々(=アイドル)が、逆に侑の夢を応援するというもになります。13話で歌われた「夢がここからはじまるよ」の歌詞によりこの関係が端的に表されています。初代・アニガサキを通してファンから貰い続けてきたアイドルがお返しをする話、それこそがアニガサキなのでしょう。侑(=ファン)を主格に置いた作品であるからこそ描けた物語だと思われます。

まとめ:アニガサキはアイドルからファンへお返しをする話

 

4. 「全体」と「個」

 既に触れている内容でもあり、ここで特筆することがそんなにあるわけでもないのですが、初代とアニガサキの思想の差異は「全体」と「個」の捉え方でも生じています。

 

4.1 初代における「全体」と「個」

 初代では穂乃果を軸にμ’s、ひいてはそのファン、劇場版ではスクールアイドルを愛する者全てがまとまりを持った集団として描かれました。何度も言及した”1つになる”とはこのことですね。最初はバラバラだったμ’s、音ノ木坂学院の生徒あたりは1つになっていく過程が分かりやすいです。再び引き合いに2期10話出すと、あの話でμ’sとファンが1つになりましたが、それはつまり、アイドルの数だけ集団が存在することになります。μ’sが夢を叶えるならば、必ず夢を挫かれたグループが生まれる。

 劇場版はμ’s以外の人々をも救う*7物語となります。穂乃果がスクールアイドルの象徴として関係する全ての人間の夢を背負い叶えるので、全ての人間が等しく夢を叶える形になります。僕の好みの話運びかどうかは置いておき、ロジックとしてはこういう意味合いがあったでしょう。

 

まとめ:初代はスクールアイドルに関係する人々が、穂乃果を軸として1つの大きな夢を叶える話
4.2 アニガサキにおける「全体」と「個」

 アニガサキは徹底的に「個」にフォーカスした話です。どんな集団があろうとも、それは「個」の集合である。そういうスタンスを取り続けています。以前に自分が書いた記事ですが、8話なんかもそういった話だったように考えています。

ro-puru.hatenablog.com

あとはこちらも何度も触れたスクフェスの存在。

 集団があるならば個がある。それぞれの個は全て違うカラーを持ち、1つに染まることを嫌う。「個の尊重」に対するアニガサキなりのアプローチがこれだったのでしょう。

 

まとめ:アニガサキは集団があるならば、必ず個人が存在し、その数だけ個性があると言っている

5. 雑感

 流しで初代を見た結果ですが、こんな風なことを感じました。アニガサキは初代が築いた土台の上に立っており、踏襲する思想があり、一方で対立する思想も内在しています。自分が思っていた以上にアニガサキはラブライブシリーズの一員だったんですね。ナンバリングから外れた作品だからこそのアプローチ(ファンを主格に置いたこととか)があったり、相変わらず面白い作品だと思います。

  ここら辺も書いておきたかったことです。劇場版でのμ’sの尽力の甲斐あってスクールアイドルの存在が一般化した世界がアニガサキとするならば、その多様な活動形態が生まれたことはμ’sに対する最大のリスペクトです。何度でも述べますが、初代を見た結果として、アニガサキは何よりもラブライブシリーズの一員であったと僕は思いました。初代を見返して本当によかったです。

*1:ラブライブシリーズなので当然なんですけど、実際に見てみるまで僕はこのことを考えていませんでした

*2:入り浸る時間が最も長かったので

*3:これは本当に良くないですね

*4:こういう思想が僕の苦手なフィールドなので、そのイメージを作品に押し付けていたのでしょう

*5:ラブライブを絶対のモノとして扱っていない

*6:ここではアニメだけではなく他コンテンツも含めたニュアンス

*7:っていう言い方は少し強い・適切ではないかもしれませんが