釣り堀

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【アニメ感想文】ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 あんなに楽しみにしていたニジガク3rdライブも終わってしまいましたね。この数ヶ月、あのライブに参加することを希望に生活していたのでその穴は大きいです。とてつもない充足感と同時に大きな穴が心の中に同居している不思議な感覚……。この穴を埋めるにはやはり虹ヶ咲のことを考えることしかないのでしょうか?

 ということで、今回はいつか書きたいと思っていたアニガサキ全体の感想文について述べていこうと思います。なるべくコンパクトにまとめたいですが、書きたいこともそれなりにあるので程々のバランスでいければいいかな。

  • 文中でこの箇条書きを多用していますが、書かれていることは長い脚注みたいなものなので読み飛ばしてもらっても問題ないです。

 

 (5/13追記)コンパクトに収めることに失敗しました。せめて自分の考えが伝わるように整理できていたらいいんですけど…。

 

 無駄に項目を分けすぎて威圧感のある目次になりましたが、それぞれが短文の集合ですので、気になった箇所だけ読むって感じでもたぶん大丈夫です。

第1章 個の尊重

 アニガサキの最も重要な要素と言っても過言ではない個の尊重。1章ではスクールアイドルっていう一人称にフォーカスした話ができればいいかな。

第1節 衝動の肯定

 上に書いたとおり、アニガサキには何よりも重要視している価値観に「個の尊重」があります。個人の意志を最も位の高い場所に置き、これが阻害されてはいけないと全編に渡って言っているのです。もう少し正確に言うなら、意識が発生して理性が介在する以前の段階――衝動」*1を徹底的に肯定しています。有り体に言えば、自分の欲求に正直であれということ。まずはこれを軸にアニガサキを見ていきましょう。

第1項 自己の衝動の肯定

  これに関して象徴的なのは歩夢です。歩夢の抱いていた衝動はピンクや可愛いものが好き・スクールアイドルをやってみたいというもの。高校生になってまでそんなもの着られない・受験があるなどなど理由を付けてこの欲求を解放させることを拒んでいました。そこで、1話と12話で2度登場したセリフ――「動き出したら止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」がキーとなります。「衝動が芽生えたのならば、それを自制することは許されない」と換言できるほど強い意志*2を持ったこのセリフが歩夢、ひいては作中の人物の衝動を肯定していきます。

  • 実はアニガサキから過去ラブライブシリーズを見返してから気づいたのですが、これって全てのシリーズで一貫して主張されていたことなんですね。

    ro-puru.hatenablog.com

    初代を見返したときにこのことについて言及した気がします(してなかったらごめんなさい)。さらに、感想文は書いていませんがサンシャインについてもそうです。サンシャインに関してはむしろここをかなり強く言うアニメだったんじゃないでしょうか。動き出すこと*3への強力な激励と言いましょうか。サンシャイン2期の最終的な結論として、やりたいこと見つけて動き出した瞬間から人はもう輝いているというものがあります。これも自分に正直になってやりたいことをやる姿勢の肯定です。輝きを求め続けていた千歌に対し、実はずっと輝いていたんだよという答えを自覚させることで今までの自分を、もっと言えばスクールアイドルを始めた瞬間の自分を肯定させています。このことから、サンシャインには単なる衝動の肯定よりも強い意志が感じられました。

 3話のせつ菜、5話の果林、7話の彼方、そして8話のしずくもそうでしょう。みんな、スクールアイドルを始めたい・続けたい、自分をさらけ出したい等々の想いにストップをかけていました。けれども、彼女たちは最終的に自らの願いを成就させるために行動します。これらの話が描いていたことにもやはり自己の衝動の肯定の側面があると僕は感じました。

 特に印象に残っているのは7話です。彼方はスクールアイドルを続けたい、勉学・アルバイトを疎かにしたくない、遥のスクールアイドル活動を応援したいと、自分のキャパシティを超えた欲張りな「ワガママ」を通そうとします。結果的に遥と役割を折半することで話はまとまるのですが、この「ワガママ」をアニガサキでは「自分に正直なこと」と表現しました。ニュアンスを変えただけの言葉遊びのようにも感じますが、抱いた欲求(=衝動)をネガティブなものと捉えず、発露されるべき人間の本来の姿と極めてポジティブに扱っています。

 

 例に挙げた人物たちは例外なく自己衝動にストップをかけ、理性と欲求(=衝動)の板挟みで思い悩んでいました。このストップをかけるという理性的な部分も人間の意志ではあるのですが、やはりアニガサキで尊重されているのは節の冒頭で書いた通り衝動そのものです。衝動を肯定するとは、言い方を変えれば理性のストッパーを破壊するということでしょう。話の進め方を見ていると、むしろこちらの表現の方が適切かもしれません。アニガサキでは、自分の欲求を思い留まらせる理性を取り払い、その人 本来の姿を表出させることに重きを置いていました。ピンクや可愛いものを身に着け、歌を歌い踊りを踊った歩夢のように。

 

まとめ:アニガサキは、自己の衝動を肯定し理性によって抑圧されていたその人 本来の姿を表出させるべきだと言っている
第2項 他者の肯定

  対してこちらは象徴的なのが侑です。というか12話までの侑は、他者を受け止める役割を軸に肉付けを行った結果生まれたキャラのような質感すらあります*4。1項と対応させた書き方をするならば、侑は他人の中に存在するストッパーを取り払う手助けをしています。実際問題として、誰もが自分だけで理性的な部分の問題をクリアできるわけではありません。なので3話のせつ菜のように、自分の外側から背中を押してもらうことで、自らの衝動を押し通すための力とするわけです。そのための侑です。衝動を肯定した後、本来の姿を表したせつ菜のライブの後に褒めちぎるアフターサービスまで完備しています。やりたいことをやるよう煽るだけ煽って、実際の姿を見たらやっぱり…なんていうのは筋が通らないですし、優しくないですからね。

 侑へ歯に衣着せぬ言い方をするなら、他キャラクターの行動を無条件で肯定して背中を押す舞台装置です。役割だけを見ればこんな物言いになってしまうものの、劇中の彼女からそういった機械的な印象を感じられなかったのがこのアニメの巧いところだと思いました。

 そして、果林を肯定するエマ、璃奈を肯定する愛、しずくを肯定するかすみなど、侑だけがこの役割を担っているわけではありません。また、12話で歩夢を励ますせつ菜も。アニメの中では他人の意志を肯定する場面が多々現れます。

 

まとめ:アニガサキは、他者の衝動と、本来の姿を表した他者そのものを肯定する
第3項 1節まとめ

 1項と2項で書いたようにアニガサキでは衝動は肯定され、人間は内に秘めた欲求を解放するべきだと言っています。これは僕の思想が混じってしまいますが、人間は自分のやりたいことを実行するために生きているはずです。趣味であったり、社会貢献であったり、その形は問いません。とにかく、自分の欲求を満たし満足するために生きているのです。アニガサキはこの姿勢に肯定的と言えます。衝動という名の欲求を理性の抑圧から解放させ、その人の本当にやりたいことをやることを応援しているからです。これこそ、章のタイトルにもした「個の尊重」ではないでしょうか?

 

第2節 衝動を肯定したからこその『ラブライブ!

 1節で書いたようにアニガサキは個の尊重に徹底した姿勢で話を広げていきます。そして、このように根幹のコンセプトである個を尊重することと、そのためのアプローチである衝動の肯定によって従来シリーズと比較し異色の作品となっていきます。

第1項 グループが一色に染まらなくなる

 グループが一色に染まらないことから生じた変化は、これまでの『ラブライブ!』シリーズと比べて最も大きいと言えるはずです。スクールアイドルはグループで活動するもの、明言はされていませんでしたが今まで登場したスクールアイドルは全てグループ単位での活動をしてきました。しかし同好会はグループという1つの色に染まらずに、個人の持つ色を尊重していく方向に舵を切ります。これはどういうことか言わずもがなお分かりでしょう。ソロでの活動です。

  • 高坂穂乃果という絶対的な光でμ's、そのファン、スクールアイドルを愛する者たちを1つの色に染め上げたのが初代。各々異なる色を持っていても、それらをまとめあげて1つの色*5になれると言ったのがサンシャイン。対してアニガサキはそれぞれの持つ色で衝突が起きたとき、誰かが折れるのではなく、1つにならなければいけないというルールの方を曲げたのです*6

 ソロ活動をするに至った直接的な原因に2,3話で描かれたかすみとせつ菜の衝突があると言い難いところではありますが、理由は明らかにあそこにあります。4話時点では先程挙げた2名ぐらいしか明確な己の目的地を見定められておらず、他は漠然とこんなことをしたいな。ぐらいの意識でした。とはいえ、漠然としていてもメンバー同士の方向性の違いは明らかであり、各人がそれぞれの向いている方に走り出そうとしているので、1つのグループにまとまる(=1つの色になる)のは至難でした。事実、たった2名の方向性の違いですら一度は解散してしまったのですから。

 なぜ過去シリーズのように1つにまとまることができなかったのか。これは過去シリーズと違い彼女らには1つになる為の目的がなかった・必要がなかったからです。次項ではそれについて書きましょう。

第2項 それぞれに目的地が存在する

 1項で彼女達は1つにまとまる必要がなかったと書きました。それはそうです。彼女らの通う虹ヶ咲学園は超大規模校。校舎も立派、生徒も相当数いると推察されます。過去シリーズのように廃校の危機に瀕した学校を救うなんてシチュエーションではないです。

 少し曲解じみた言い方になってしまいますが、初代・サンシャインの両者は1つになるよう外側から「廃校の危機」という大きな圧力がかけられていたわけです。対して同好会には、そういった9人全員を同じ方向に向かせるだけの外側の圧力が存在しない。あるのは「やりたい」という心の内から湧き上がる衝動、つまり内側からの圧力のみです。このバラバラな方向に向いた衝動の行く先とは彼女達がそれぞれ目指した目的地――なりたい自分でしょう。

 作品内で散々肯定されてきた衝動こそが同好会を動かす原動力なのです。これは個を尊重するために衝動を肯定したからの帰結であり、やはりソロ活動というのは舞台設定的な意味でもテーマ的な意味でも虹ヶ咲だったからこそです。

第3節 自己実現の姿であるステージの自分

  アニガサキのソロアイドルとしての帰結は自己実現にあります。内容的に2節2項と分けない方が読みやすいかと思いましたけど、特に強調したい内容でもありますので第3節として別個に書いていきたいと思います。

 

 さて、人は誰しもなりたい自分というものを持っています。それはどんな形でも構いません。社会的に高い評価を得ている職業に就くとか、卓越した知識・技能を手に入れたいとか、人気者になりたいとか…。うまい例が思いつかなかったのでこんなものしか挙げられなくて申し訳ないですけど、まあその中身はなんでもいいです。きっと今の自分に完全に満足して、それ以上の向上心を失くす事態というのはありません*7

 人には常に自分が向かいたい場所が存在します。それこそがアニガサキにおけるスクールアイドルの目標であり、2節2項で書いたなりたい自分です。「学校を救う」のような外的な目的が無い代わりに、なりたい自分になる=人間が持つ自己実現の欲求を充足させるという内的な目的が主題になったわけですね。

 

 しかし全員が全員、かすみやせつ菜のようになりたい自分像を既に持っているわけではありませんでした。この話は4話で扱われていて、限りない自由さの中で内的な力のみで動こうとすれば愛のように迷子になってしまうことが示唆されています。愛の場合は、自分の好きなこと(=楽しむこと)こそが自分の目指すべき場所だと自覚し目標が定まります。好きなこと・やりたいことこそが向かうべき場所というのは、愛以外にも一般的に適用できる思想として描かれているように思われます。1節で書いた衝動を肯定することにより表出する人 本来の姿――これが人間の向かいたいところ、つまりなりたい自分とアニガサキは言っています。再度同好会が発足して1番最初にやる話として、自分と向き合い、自分のなりたい自分を見つける話が挿し込まれたのは意義のあることです。

 スクールアイドル活動の自由さについては、同じく4話でかすみにより「スクールアイドルに正解はない」と言及されていました。何でもやれて正解が存在しないスクールアイドル活動の懐の大きさが、登場人物の衝動を受け止めるだけの地盤となったということでしょう。

 

 そして、アニガサキにおいてステージに立つ自分となりたい自分は等価です。分かりやすいのは璃奈・しずくの2人でしょう。みんなと繋がりたいと思いつつ自分に自信が持てなかった璃奈がステージに立ったときの姿。自分をさらけ出したいと切望していたしずくがステージに立ったときの姿。あとは、可愛いを追求し続けるかすみにとってステージに立つことはそれを最大限に表現する場であるとか。つまりアニガサキではステージに立つこと=なりたい自分になる=自己実現と位置づけられています。話の流れでも問題を解決し、最後に訪れるのがライブシーンで、その瞬間の彼女たちは必ず理想の自分へ一歩近づいています。自分のなりたい自分になる、これこそアニガサキが13話かけて描いてきたものではないでしょうか?

  • 3rdライブで2期が発表されたことで断言できるようになった事柄があって、やはり1期は「始まり」の物語であるってことですね。1期で各々自己実現のためステージに立ちましたが、それは目標に向かう第一歩を踏み出せただけというわけです。もちろん、自己実現の欲求という終わりのないものを求めているのでそれを達成したらゴールはい終了!なんて事はありませんが、それでも彼女たちが最初の一歩を踏み出せたっていう意味合いを特に強く押し出していたことは明らかです。璃奈なんかはボードを取って表情を伝えることが後の目標になると思いますけど、6話ではそこまでいってなかったりしてますしね。衝動を肯定した結果、自分のなりたい自分へ少しだけ近づけた。13話ラストに歩夢が言った「はじめてよかった」はアニガサキ1期でスクールアイドル側が到達した回答でしょう。これは初代やサンシャインでも強く主張されてきた「始めること」への強い激励でもあり、やはりアニガサキはラブライブシリーズなんだと実感させられますね。

第4節 1章まとめ

  アニガサキには登場人物を動かす外的な圧力が存在せず、かつ自己の衝動という内的な原動力を肯定することにより自己実現を目的として話が展開されました。ソロアイドルでの活動は各々が抱く理想の自分へ向かって全力で走るため、グループという1つの集団になることができなかったことによる結果です*8。また、ステージに立つことは自己実現を果たすことと同義であり、1期では初めの一歩をようやく踏み出せたことを意味していました。

 


第2章 私(=スクールアイドル)とあなた(=ファン)

 1章で書いたことを端的に言えばスクールアイドルという人間の内側の話です。次は、スクールアイドルの背中を押す存在――ファンの話について書きたいと思います。これは1章で内側(=自分)にフォーカスしたのに対して、スクールアイドルの外側(=他人)に焦点を当てるものです。

第1節 アイドルとファンの境界

 アニガサキに登場する人間は大きく分けて3つに分類できます。同好会のメンバー、侑、ファンの3種類です。侑とファンは同質な存在であるため*9、もしかしたら分けなくてもいいかもしれませんね。その場合、このアニメに登場する人間はアイドルとファンに二分できます。そこで僕が取り上げたいのはこのアイドル / ファンの境界線がどこにあるかについてです。

 μ’sやAqoursの場合、グループのメンバーはみんな同じ目線に立つアイドル同士です。ファンというのはこれらのグループの外側にいる人間を指します。しかし同好会はソロアイドルの集合。このとき、μ’s・Aqoursのように同好会の内と外で線を引くことも可能ですが、僕は当人とそれ以外で線が引かれていると思います。つまり、共にアイドルとして活動する同好会メンバーすらファンの立場に置けるということです。象徴的なのは かすみ→しずく の関係でしょうか。8話でかすみがしずくに告げた言葉は、「あなたのファンである」と言い換えられます。

  • 3rdライブDAY2で久保田未夢さんが言っていた「私にとってはみんなも「あなた」だよ」はまさにこのことだと思います。アニメを作る側の方から僕の見方と合致する言葉が聞けて嬉しかった…。

 1章でも書きましたがメンバー間で互いを肯定しあい、助け合ったり、背中を押し押される関係になっています。この関係はアイドルとファンとしてです。これはアニガサキの特殊性でしょう。

第2節 ファン→アイドル から アイドル→ファン へ

 これまで(初代・サンシャイン)、ファンがアイドルの背中を押すという構図が前面に出ていました。それはアニガサキにおいても同様です。しかし、それは10話以降から転換し始めます。決定的なのは「夢がここからはじまるよ」を歌う前に同好会の一人一人が言葉を紡ぐシーン。スクールアイドルフェスティバルは13話サブタイトルで「みんなの夢を叶える場所」と字が当てられています。「みんな」とは従来シリーズから積み上げられてきた文脈を持つ語でもあり、それの意味するところはスクールアイドルとファンを含めた全員のことです。

 「みんなの夢を叶える場所」というキャッチフレーズは過去シリーズの「みんなで叶える物語」の対極にあるものだと僕は考えています。従来シリーズではファンがアイドルに夢を託し、背中を押すことで「みんな」が抱く1つの大きな夢を成就させてきました。対してアニガサキでは、夢の形は人の数だけ存在し、その夢を叶えるためアイドルがファンに向かって行動をします。かすみんボックスの意見募集でファン一人一人がそれぞれ異なる夢を持っていることを示し、その全ての要望に応える(様々な会場でライブをする)のがスクフェスでした。

 夢が人の数だけ存在する・アイドルがファンの願いを叶えるため働きかける。この2点もまたアニガサキの特殊性です。前者はやはり虹ヶ咲の根幹にある個の尊重により生じた視点でしょう。従来、ファンは「ファンという集団」としてしか描かれていなかったものが、「個人の集合であるファン」とミクロな考えが導入されています。集団を1つの存在として扱わず、あくまでも個人の集合でしかないと考え、それぞれの願いをピックアップし向き合う姿勢はやはり個の尊重だと僕は思いました。

  • 何回も擦ってるんですけど、以前に書いた8話の感想文がこのことについて言及しているので再掲します。

    ro-puru.hatenablog.com

第3節 高咲侑

 まず、侑は「ファン」を一般化して人格を与えられた存在です。虹ヶ咲の文脈では「あなた(You)」と表現されていますね。スクールアイドル9人に加えられる形で本作のメインキャラクターとして据えられたイレギュラーな存在。侑というキャラクターには「ファンそのもの」としての性格と、「高咲侑個人」としての2つの性格が同居しています。

 

 これまではスクールアイドルアイドル側からの視点でアニガサキを見てきました。しかし、実際に本作で主格が据えられているのは「あなた」=侑です。アイドルを扱う作品、しかも(?)『ラブライブ!』シリーズでありながらファンの物語を描いている本作。これまではファンから背中を押されるアイドルの物語だったものが、アイドルの背中を押すファンの物語へと転換されます。

 本作の縦軸の物語を担う1話~3話、10話~13話は侑が主体となって展開されました。特に1話~3話は侑の「背中を押すファン」としての性格が前面に押し出されており、1話で自分に自信を持てない歩夢を励まし、3話では心に鍵をかけていたせつ菜を解放しました。4話~9話は別にスポットライトが当てられるキャラクターがいたので一歩下がった描写が増えましたが、それでも常にアイドルを肯定し応援する姿勢が貫かれています。既に書いたように、やはり侑はアイドルを応援するための舞台装置的な役割がありました。舞台装置的な性格を持った二人称のキャラクターに主格が置かれている状況、考えてみると結構頭がこんがらがりますね。

 

 10話~13話では再び侑に焦点が当てられ、彼女が主人公として話が進められました。ここで話の転換が起こり、アイドルはファンの背中を押す側へと回ります。スクフェスのことですね。スクフェスはアイドル → ファンという風に大局的な視点からこの関係性を示しています。そして、それと同時に歩夢(=アイドル) → 侑(=ファン)という個人間の微視的な関係についても描いています。

「これからも、つまづきそうになる事はあると思うけど、私を支えてくれたように、あなたには私がいる!」

「だから、全員で歌います!あなたのための歌を!」

(13話・歩夢、同好会) 

  この言葉はライブを見てくれたファン全員に向けた意味と、歩夢そして同好会メンバーが侑に対し1対1で送った意味が込められています。歩夢と侑の、そして同好会と侑の紡いできたドラマを鑑みると、あなた=侑に送るシチュエーションとして美しくて、個人的にここはすごく好きな部分です。

 物語のラストはスクールアイドルに背中を押された侑が初めの一歩を踏み出すシーンで幕を下ろします。初代・サンシャイン・アニガサキと背中を押され続けてきたスクールアイドルがファンへお返しする話。それが僕から見えたアニガサキでした。

第4節 スクールアイドルの存在

 このアニメのスクールアイドルは、見た人の衝動を誘発させる(トキメキを与える)存在として描かれてきました。侑・歩夢・愛・璃奈にトキメキ与えたせつ菜のように。また、エマもスクールアイドルに憧れて海を超えてやってきましたね。

 内側に目を向ければ自己実現のためステージに立ちますが、外側では誰かの動き出すきっかけになっている。4話でかすみは「アイドル活動はお客さんに喜んでもらえればいい(要約)」と言いました。これもやはりこの作品の言いたいところだったのではないでしょうか。アイドルはファンがいなければ成立しません。ファンの期待に応え、ファンを応援する。ファンと同じ目線に立ち(歩夢と侑、スクフェスのアイドルとファンのように)夢を与え、背中を押し、押される。それが本作の言うスクールアイドルだった。そう僕は思います。

 

第5節 2章まとめ

 ファンに主格を置かれた本作は、従来シリーズのようにアイドルの背中を押し続けてきました。しかし終盤ではその立場が一転し、今度はアイドルがファンを激励する立場に回ります。これは、『ラブライブ!』シリーズそのもののアンサーだとも考えられるでしょう。スピンオフ的立ち位置にある虹ヶ咲だからできたことかもしれません。

 侑はファンの代表として人格を与えられ、アイドルとファンの関係を歩夢と個人間単位で成立させました。アイドルに触発されたファンが何かを始めるきっかけとする――恐らくアニガサキで最も描きたかったものの1つ(もう1つは個の尊重)です。そして、ここにこそファンをメインに据えた意義が出てきます。スクールアイドルによってトキメキを感じ、動き出した侑が志したのは音楽への道です。スクールアイドルに憧れてスクールアイドルを始めた穂乃果・千歌とは異なります。それの意味するところは、生まれたトキメキの向かう先は何でもいいということ。トキメキをくれた存在と同じ道を歩む必要はなく、自分の本当にやりたいことをする。侑という一例をピックアップし最初の一歩を踏み出す始まりの物語とした今作は、そのメッセージを克明に描いていました。

 


 雑感

  できればアニメ感想文は主観を抜いて客観性を保ったまま書きたいと思っています。それでもやっぱり、感情を前面に出した感想文を書きたくなるもので、いつも雑感ではそういうものを書いています。2章もだいぶ私見が入ってしまったのですが、こちらはそれ以上に僕の感情文を書こうと思います。

中須かすみについて

 このアニメでは自分でどうにもならない状況に陥ってしまったとき、他の誰かに助けてもらう描写が多々あります。散々文中で使用した「背中を押される」というワードに当てはめることができるでしょう。しかし、同好会で唯一そんな他人の助けを必要としなかったのがかすみです。彼女は同好会が廃部になっても一人で活動を続け、また2話では自身の問題点を自省によって見つけ出しています。一人で前に進むことができるのです。彼女は物語が始まった時点で既に完成しているキャラクターだったのではと僕は感じました。4話で愛が迷ったような自身の方針については完全に固まっており、強いアイデンティティを確立しています。そういう意味ではせつ菜もそうだったのかもしれません。だからこそ彼女たちはその強い個性がぶつかり合い同時に存在することができなかった。

 かすみの強さ、それは担当曲の歌詞にも現れています。ちゃんと確認はできていませんが、OPEDほかメンバーの担当曲の恐らく全てで他人の必要性について書かれています。印象的なのはツナガルコネクトの「ヒトリでカンペキじゃなくていいんだ…」などでしょう。しかし、Poppin' Up!に関しては完全に内的な歌詞です。かすみは自己研鑽にのみ意識を向け、自分一人で前へ進むことができる少女です。その強さは無敵級*ビリーバーにも現れています。究極的には自分が自分を好きでいればいい、だから自分が可愛いと思える自分になる。そんなかすみの内面を鮮やかに表現した歌詞。個として完成している、それが彼女に抱く印象です。

  • もしかしたら彼女について「強い」って言葉を使うのはアニガサキでは不適かもしれません。「自分一人ではどうしようもなくても、仲間がいてくれる」。アニガサキが13話かけて伝えてきたメッセージを否定しかねないからですね。仲間がいなくても前に進める強さをポジティブなもののように言うことは、すなわちメッセージの否定に繋がるので。それでも、個人の価値を個人で決定できる、これはやっぱり紛れもない強さなんじゃないかと僕は思っちゃいました。

朝香果林について

 果林は同好会に入ってワイワイやるのは自分のガラじゃないと入部を拒否してきました。しかしそれは自分の衝動に蓋をして、本当にやりたいことから目を逸らしている状態です。本当の彼女は誰よりも仲間と一緒にいたかったのではないでしょうか。

 VIVID WORLDではこれでもか!ってぐらい「キミ」と一緒にいることを望む歌詞を歌っていますし、夢がここからはじまるよでは「キミとじゃなかったら」の部分を担当しています。極めつけは9話の「仲間だけどライバル。ライバルだけど、仲間!」です。この人めちゃくちゃ他人のこと好きじゃないですか。 

総括

 このアニメのことめちゃくちゃ好きです。もう去年の秋からずっとこのアニメのことで頭がいっぱいです。3rdライブではめちゃくちゃ泣きました。配信参加の2日目でもギャン泣きして、ライブ後は情緒不安定のあまり実家の食卓で一家団欒中にガチ泣きして、寝る直前まで涙と鼻水を垂れ流していました。それぐらい感情を揺さぶられたアニメです。テーマが深く深く刺さったのかもしれません。

 個の尊重、そのための衝動の肯定。これは優しさです。他人の夢と衝突が発生するのを恐れて自分を我慢してはいけないんです。誰かに嫌われるかもしれないと、本当の自分を押し殺してはいけないんです。人はみな自由であるべきであり、欲求に正直になり抑圧された衝動を解放すべきなのです。なぜなら、人は自分のやりたいをやりきっている瞬間が最も幸福なのだから。これは13話ラストの歩夢が放った「はじめてよかった」に全て集約されているはずです。自己実現に当人の能力の有無は関係ありません。自分がなれる最高の自分になること、それに向かって全力で走り続けることこそに意味があり、本作の特に6話ではこれが叫ばれていました。

 完全に僕の願望ですが、スクールアイドルはファンにそんな幸福へと向かうきっかけを与える存在です。きっかけを与え、背中を押す存在です。向かう先は何度も言うように人の数だけあって、決められていません。自由で、優しくて、そんなこのアニメに出会えて本当によかったな…。 


  

 

highwinterline.net

 こちらのブログ、Twitterのフォロワーさんのものなのですが、初めて見たとき僕の見方とだいぶ近くて驚いたんですよね。それで今回 自分で感想文を書いた後に改めて読んでみたらやっぱりめちゃくちゃ似通ったようなものになっちゃって笑っちゃいました。僕の書きたかったことがより鮮明に、かつそれ以上のものが書かれている記事ですのでこのブログを見ている方がいたらぜひ読んでいただきたいと思い紹介させてもらいました。

*1:欲求とも換言できる。人間は抱いた欲求を全て行動に移すわけではなく、欲求を外に出してもいいか判定する「理性」のフィルターが存在している

*2:歩夢、そしてアニメ自体の意志

*3:劇中ではスクールアイドルを始めること

*4:実際には、「夢を追いかけている人を応援出来たら、私も何かが始まる」と言っているように、自分の夢を追いかける主体性を獲得するための準備期間だったわけですが

*5:Aqoursの場合は青だろうか

*6:サンシャインは互いに違う色であることを認めつつ1つの色になったので、「折れる」ではなく統合とかそういう優しい言葉で表現するのが適切かもしれません

*7:健康な人であれば、と注釈を入れておくべきかもしれませんね

*8:作品のロジックと順番が前後してしまうかもしれませんが、これらは双条件的なものだと思うので問題ないはずです

*9:ファンという集団に人格を与えたのが侑なのだから