僕の虹ヶ咲観における「自己実現」について
今回は僕が虹ヶ咲のブログを書く際によく使っている言葉、「自己実現」「真に自分がなりたい自分」「他者の視点からの脱却」等々の言葉について書きます。僕の方でも感覚的に使っている部分が大きかったので、ブログの中身をより明瞭にする目的で意味を定めていきたいと思います。
また、この記事は年内に出すことを目標にしている虹ヶ咲2期の感想記事の準備でもあります。
1. 自己実現とは?
まず僕の虹ヶ咲観の根幹にある「自己実現」についでです。これは平たく言えば「自分のやりたいことをやりきる」の換言です。自己実現の言葉自体は20世紀の心理学者アブラハム・マズローが用いたものとして、安い自己啓発本などでしばしば取り上げられるため、うさんくさいなどあまり良い印象を抱いていない方もいるかもしれません。現実の僕らへ適用できるかはともかく、アニメを見る際にはいい道具となる考えだと思っています。
マズローによると、人間は上図のような5段階ないし6段階の基本的欲求を抱えており、これらを満たすため生きようとします*1。それぞれ低次なものから、食欲・睡眠のような生理的欲求、健康的な生活を目指す安全の欲求、社会集団に属することで孤独を避ける社会的欲求、そして他者から認められ承認を欲する承認欲求があります。これら4つの低次なものは欠乏欲求と名付けられ、その上に高次な成長欲求――自己実現の欲求があるとしています。
人間はそれぞれ低次の欲求から満たそうとします。最も低い生理的欲求はまさに生命活動に関わるものです。安全欲求は問題なく食事ができる環境にある人間が次に抱くものです。外敵から身を守れる場所を欲したり、そもそも外敵のいない環境を目指したり。そうやって低次の欲求から満たしていった先に、最後に待っているのが自己実現の欲求です。
自己実現の欲求は自分が適している物事に没頭し、自己の可能性を最大限発揮できていると自覚することで満たされる欲求です。またこの欲求には終わりがなく、己の能力を高め続けることを人生の最終目標に据え、成長を実感することで欲求を充足させ続けられるというものです。(手元に資料がない状態で書いているので誤りがあるかもしれないです)
ただ、僕が虹ヶ咲のブログで使用している「自己実現」はマズローが用いていたものとは意味が異なります。あちらの自己実現の形は社会貢献と結び付けられた善性の概念ですが、僕のブログでは“他人に迷惑を迷惑をかけない範囲で”自分のやりたいことをやるというものです。それが仕事のような社会貢献に繋がっている必要はありません。なんなら、“自分の能力を最大限発揮される”という条件すら脱ぎ捨ててもいいかもしれません。
2. 僕の自己実現
このマズローとの差異が「真に自分がなりたい自分」にも関わってきます。彼が提唱した低次の欠乏欲求は僕の虹ヶ咲観にも引き継がれるとして、その上に立つ成長欲求に違いがあることは上述の通りです。そこで僕が考える自己実現とは以下の状態です。
② ①の際に、それは他人のためではなく、自分のためだけに行う
2.1 自分のやりたいことをやりきっている
まず①の「自分のやりたいことをやりきっている」。これを僕は衝動の肯定と呼んでいました。…自分の使っている言葉を説明しようとしたら、自分の使っている言葉で説明しだすマトリョーシカになってきたね…。
とはいえ一口に人間のやりたいことと言っても、僕は大きく2種類に分けられると思っています。それは衝動からくるものと、理性からくるものです。この違いを説明するには理性からくるものの例を上げると分かりやすいです。例えば「人に好かれたいから他人に優しくしたい」。これをその人のやりたいことと言っても差し支えないでしょうが、計算の上に成り立つ理性的な欲求と言えるでしょう。
対して衝動的な欲求とは、1期1話歩夢の「可愛い服を着たい」などが挙げられると思います。一般的な意味での生理的欲求より高次な欲求なので衝動という語を当てるのは紛らわしいような気がしなくもないですが、自らの利益など、行動の結果を計算に入れず心から「やりたい」と思うことを衝動としています。
衝動の肯定とは、「やりたい」を実行してよいと肯定することです。1期1話で侑が言っていた「着たい服着ればいいじゃん」ですね。年齢不相応な格好をする願いに理性でストッパーをかけていた歩夢が、あの階段でDream with Youを歌うことで心の障害を破壊しました。これが「自分のやりたいことをやりきっている」です。
そして、このやりたいことを達成した暁には何らかの変化が自分に訪れるはずです。1期1話歩夢の「可愛い服を着る」。1期3話せつ菜の「大好きを叫ぶ」。1期6話璃奈の「みんなと繋がる」等々。これまでの自分から変化し、自分のやりたいことをやりきっている姿になることを僕は自己実現と呼んでいるのでした。そして、この姿は劇中でステージに立つスクールアイドルとして描かれています。
さらに、このとき実現しているときの自己こそが「真に自分がなりたい自分」です。計算からではなく己の欲求に従い行動し、自らに嘘をついていない姿。逆に真に自分がなりたい自分“ではない”自分とは、1期8話までのしずくが挙げられます。理想のヒロインとして振る舞い、誰からも好かれるよう生活し、自己を理性的に成長させていく。これもまた彼女の「なりたい自分」であったことに間違いないと僕は考えますが、それが“真に”かと問われればNOと言わざるを得ません。この場合、彼女が真になりたかった自分は、計算から生まれた八方美人の味気ない人間ではなく、誰かに嫌われるかもしれない素の自分と言えるでしょう。
最後に、自己実現に能力の有無、適性のあるなしは関係ないです。例えば1期6話の璃奈。表情を作ることが苦手な彼女は決してアイドルに向いている人間と言えません。しかし、スクールアイドルであれば話は別です。スクールアイドルに求められるのはただ「やりたい」という気持ちのみ。だからこそ璃奈はスクールアイドルとしてステージに立ち、ライブを通してみんなと繋がることが出来ました。璃奈ちゃんボードを使うとか、できないことをできることで補うとか、手段は本質ではありません。繰り返しますが、ここに必要なのはやりたい気持ちのみです。やりたいことをやりきったからこそ1期6話の璃奈は自己実現をしていたと言えるのです。
2.2 それは他人のためではなく、自分のためだけに行う
次に②です。これは難しい話だと思います。
人間社会には多種多様な人がいますね。中には自分より他人に尽くすことが本当に幸福だと感じる人間もいるでしょう。その場合、社会貢献し続けることがその人の自己実現と言って問題無さそうです。というか、原義に従うならこちらこそ自己実現していると言えます。
ですが、僕の虹ヶ咲観ではこれに否定的です。2期8話で作曲に悩む侑にミア・テイラーは「みんな喜んでくれるよ」と言いました。それでもいいかもしれない、でも、本当に自分がしたことはそうなのか?と侑は疑問を抱きます。結果的には自分を伝えたいという至極自己中心的な解答に至りますが、この自己中心的な考え方が僕の使う自己実現です。誰のためでもない、自分のための自分のやりたいことをやるのが自己実現。
そしてせつ菜や栞子に言及しようとすればやや複雑な話になってきます。生徒会長としての菜々も、他人をサポートする栞子も彼女らのやりたいことであったはずです。しかし、これらの姿は僕の言う自己実現像に含みません。これは自己実現を「自分のためだけに行う」ものと定義してしまった結論からの逆説的な帰結です。されどもこの条件を捨てることはできないのです。後述する「他者の視点からの脱却」に繋がる話ですが、僕は人間が自分一人で自らの意味を獲得できることに価値を感じているので、他者に依った自己実現の形を認めるわけにいかないのです。
自己実現には終わりがない、自分を高め続けることが生涯。この考え方もまたマズローのものから僕の言う自己実現に引き継がれています。1期6話の璃奈はライブで成功を収めました。だからといって彼女のスクールアイドル活動が終わるわけではありません。もっとたくさんの人と繋がりたいとか、もしかしたらボードを取りたいとか、様々な目標が次々と立てられるはずです。達成しても達成しても新たに生まれる目標に挑戦し、それをさらに達成することが自己実現の欲求を充足することとなり、これは生涯終わることのない活動だと僕も考えています。
僕の思う虹ヶ咲(少なくとも1期)はスクールアイドルという形で自己実現を叶えていき(やりたいことをやっていき)、最終的に満足するまでの物語です。この満足の語、僕が勝手に使っているだけでなくて、2期3話でしずくが侑に対して使ってもいるんですよね。
3. 他者の視点からの脱却
こちらも自己実現と並んで僕の虹ヶ咲観の根幹をなす考え方です。この発想に至ったのは1期3話の「ラブライブなんて出なくていい!」からです。他者の視点からの脱却――この言葉は、自分の価値を他者による評価ではなく自分自身で定め、自己実現の度合いすら己で決定できることを示しています。
まずラブライブとはなんでしょう?それはスクールアイドルの全国大会で、スクールアイドルの点数化・順位付けを行う競技会です。
芸術作品で順位付けを行う場合、対象の魅力を定量的に扱えるものにしなければなりません。それが点数です。その多寡でもってスクールアイドルの順位付けを行うのです。
点数は評価を行う者が有限の数だけ評価軸を用意し、総合的に決定するものだと想像できます。例えば「ダンス・歌唱の難易度」「ダンス・歌唱の構成」「ダンス・歌唱の正確さ」などなど。一見これらは正確にスクールアイドルの価値を測れるように見えますが、それは僕らがこういったある意味ペーパーテスト的な“良し悪し”の感性に慣れ親しみ過ぎているからです。
このような評価方法には2つの問題があります。1つ目に評価軸の量的な問題。2つ目にその質的な問題です。
まず問題の1つ目が、評価軸が有限の数しか存在しないこと。人間の魅力と簡単に言っても様々なものがあります。それはきっと無限個*2の要素が複雑に絡み合い出来上がっているもので、せいぜい競技会で用意できる程度の数では全容を測れるわけがありません*3。
2つ目は、点数が他者の主観に依存して下されてしまうことです。普通に考えたら競技会は客観的な評価軸でもって点数化を行うシステムのように思われますね。しかし、この話題において絶対的な客観は存在しないとします。
なんとなく、競技会で使われる評価の指標って人間の主観から離れてフワフワと宙に浮いた客観というものを言語化したもののように思われませんか?だけども、誰の主観も介さない本当に客観的な指標って原理的に作り得ないと思うんですよね*4。結局、僕らが思ってる客観的な評価ってのは、同じ価値観を共有した人間の主観を平均化したものです。「ダンスの上手さ」を測る指標1つとっても、まず「どういうダンスが上手いと言えるのか?」を考えなければなりませんし、それは会議に参加する人間各々の主観から発せられます。つまるところ、競技会に参加し点数化されるということは、何者かの主観で測られることになります。自分のやりたいことをやっているのに、他人の主観で評価されるって矛盾に感じませんか?
恐らくこのような背景から虹ヶ咲は競技会の存在を切って捨てます。少し論理の飛躍がありますが、競技会の価値観から抜け出すことはそのまま他者の視点からの脱却を意味します。
補足:ラブライブの話をしてるのに、人間の評価がどうこうまで話を広げてるのちょっと紛らわしいですね。話を抽象化して、「ラブライブに出ない選択をする」=「誰かに評価されることを嫌う」ってことです。せつ菜が存分に大好きを叫んだとしても、少なくともラブライブから好ましい評価を得られない。そこに矛盾があるだろって文章でした。
ならばどうやって自分を評価すればよいのか。簡単な話で、他者がダメなら自分ですればよいのです。2期3話侑の「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」が全てを如実に表してくれています。ブログを書くことの放棄になりますが、これが答えです。というか、自分のやりたいことをやっているのをどう価値付けるかなんて、それは自分しかいないに違いないんですよ。
栞子の言う「適性」も他者の視点から脱却することで意味を変えます。栞子が唱え続けてきた適性とは、自分の外側――例えば社会が用意した評価軸の上で良い点数をとることができる能力を指します。テストでいい点数をとったから勉強の適性がある、とか。
ただ、2期7話で言われた「やりたい気持ちも適性」の考えを採用するなら、その評価軸は自分の内側に位置を移します。自分がやって楽しいか、満足できるかが適性を測る評価軸になるのです。自分の気持ちを測るのに他人の介在は必要ありません。自己実現に当人の能力は関係ない話がここに繋がってきます。
他者の視点からの脱却は、自己実現に能力の有無は関係なく、自分のやりたいことをやればいいという話を補強する材料となります。
4. おわりに
僕は虹ヶ咲(少なくとも1期)を、自己実現をする人間がスクールアイドルであり、彼女らは自分の価値を自分で決めているアニメと考えています。個の尊重をする虹ヶ咲のコンセプトを出発点に、人間は満足するために生きているという僕が用意した結論に至るための僕が作った超主観的・個人的な見方です。
人間が満足するための手段として自己実現の欲求を充足させるという手段を用意しました。そのためにやりたいことをやりきる――スクールアイドルをすると解釈して。スクールアイドルを通して自己実現の欲求を充足させるには、自分が用意した評価軸の上で成長すればよい。どこまでも自己完結的な考え方です。自分でやって自分で満足する。そんな在り方を虹ヶ咲のスクールアイドルに求めるのは、僕がそういう在り方に憧れているからかもしれませんね…。
おわり
暇があれば今度は僕なりの「自己表現」「トキメキ」についての記事も書きたいと考えています。こちらは今回のような人間の内側に目を向けた概念ではなく、外側に向けたものです。他者との関わりについては2期のテーマにもあると思うので最終回を見るまで何とも手が出しづらいのが正直なところですが、様子を見てやっていきましょう。