釣り堀

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虹ヶ咲ではなぜライブをするのか rev.02

 

1. はじめに

 こんにちは、ろっぷるです。

 今回は以前書いた記事の内容について、少し異なる視座から眺めてみるものです。

 

↓ 以前書いた記事(読まなくていいです)

ro-puru.hatenablog.com

 

 上に示した記事では、以下のような記述をしていました。

 ということで、約4年越しですが、「虹ヶ咲ではなぜライブをするのか」について改めて探っていきましょう。ついでにですが、1期と2期の感想を一つにまとめた感想文は既に書いてありますので、暇があったら読んでくれると嬉しいです。

 

↓ 1期と2期の感想文(長い)

ro-puru.hatenablog.com

 

2. 問題提起

 この記事で書きたいことは、「虹ヶ咲のライブとは何なのか?」です。私の虹ヶ咲観を端的に記述すると、「自身のやりたいことを遂行するアニメ」になります。このとき、他者からの評価は必要ではなく、己が満足できる己になれているかに焦点が当たります。実際に可愛いか否か、他者から可愛いと思われるか如何に関わらず、可愛くあろうと振る舞うことが肝要になる。

 そうした見方をすると、観客の前でわざわざライブを行う意味が薄れます。極論、鏡の前で可愛くあろうと振る舞っていれば十分だからです。なぜならば、他者からどう評価されるかは重要視しておらず、己が納得すればよいのだから。それでも虹ヶ咲ではライブが行われる。この記事では、ライブが実践される意味について書いていきます。

 

3. 「投企」

 この問題を考えるに当たり、投企の概念を導入したいです。そして、投企の導入に当たり、次の考えを前提として置く必要があります。

● 前提①:人間にあらかじめ定められた本質はない

 この前提の言わんとするところをもう少し噛み砕いていきましょう。よく挙げられる例はペーパーナイフです。ペーパーナイフは紙を切る目的のもと、設計・製作されます。紙を切る機能という本質(=目的, 役割)が先にあり、それを実現させるために作られる。対して人間は、ペーパーナイフのようなあらかじめ決定づけられた本質が無いとする前提です。

 では、人間はどのように自身の本質を決定づけるのか?ここで導入されるのが投企になります。この記事において投企を以下のような意味で使用します。

投企:事実性の中で主体的で自由な選択を通じ、自己の本質を形作ろうとする運動・行為

 ここで、事実性とは自身の身体・能力、置かれた環境、過去など、自身を取り囲む自分ではどうにもできない事実を指します。簡単に表現してしまうと、例えばあなたは自由に歩いて散歩ができるとします。しかし、眼の前に壁があって自由に進めません。このような状況のとき、散歩の無限の可能性を阻む眼前の壁が事実性。事実性は限界と言い換えても良いかもしれません。自由が与えられていても、人間は空を飛ぶことはできません。従って、投企とは、人間は事実性(≒限界・条件)の中で主体的自由な選択を通じて実践される自己創出と言っています。

 

4. ライブとは投企が他者に知覚される場

 本題に入っていきましょう。単刀直入に言うと、ライブのパフォーマンスは投企と読み取れます。同好会では自由が許容され、その中で個々人が主体的にどのような自分で在ろうとするかを選択していきます。自分らしい存在で在ろうとする、可愛い存在で在ろうとする、大好きを叫ぶ存在で在ろうとする。つまり、「私はこういう人間で在ろうとしている」という志向の実践がライブでの姿と読み取られます。

 分かりやすい例は完結編第2章の菜々とせつ菜です。菜々はせつ菜を「自分の理想像」「自分でない者」と扱っています。従って、せつ菜としてのライブは「自分でないせつ菜という理想像で在ろうとする運動」と解されます。これはまさしく投企です。

 主体はまず成りたい自分像を見出し、自分がその像と一致していないことを自覚します。少し頭がこんがらがる言い方になっていますが、成りたい自分像は現在の自分と距離があります。「成りたい」と思うのは、現在の自分はその像に成れていないからです。つまり、「成りたい自分像」「理想像」といったものは、原理的に現在の自分と異なります。投企には、成りたい自分像と現在の自分との間にある距離を埋める実践の意が含まれています。要するに、「〇〇でない自分」が「〇〇な自分」を目指し、そう在ろうと試みることが投企となります。

 

 ここで、もう一つ前提を追加します。

● 前提②:投企が他者に受け取られることで、世界内の事実として固定される

 確認になりますが、投企の成立要件に他者の存在は含まれません。他者がいようがいまいが、〇〇であろうと主体的に振る舞えば投企は成り立ちます。先述のように、鏡の前で自身の理想像を演じることも投企となります。ということは、投企が目的になるならば、ライブを行う必要がないことになります。裏を返せば、投企が目的でないからライブを行う必要が出てくる。

 投企は目的遂行の到達点に近いものの、通過点となります。ライブの最終的な目的は自己の発信にあります。「私は〇〇であろうとしている」と投企し、それを外の世界へ向け発信することです。

 ライブには必ず観客がいます。ライブは、観客に投企を受け取られる場です。これは、前提②を導入したことにより、投企を事実化する行為になります。逆を言うと、他者の前で投企を実践しなければ、それは事実性へと昇華されず、内的決意や想像の内に留まります。

 自身一人で投企を実践し、完結することは独我論に繋がります。虹ヶ咲は個人主義的性質を持つものの、同時に他者の存在を認め、重要な要素として扱うため独我論的作品とは読みにくいです。そのため、他者の前で自己を表現しようと企図することに意味が発生します。その意味こそが投企の事実化です。他者の存在する世界の内で投企を他者のまなざしの下に晒すことは、内的決意を不変の事実性へと変換する契機となります。

 ここで重要なのが虹ヶ咲におけるファンの在り方です。一般的に、投企を他者のまなざしに触れさせる行為は、同時に他者の中でライブのパフォーマンスに意味付けが為されるものです。これは、私たちがアイドルを見て「かわいいな」「かっこいいな」などといった感覚を持つことを指します。私たちは、目の前に現れた事物を知覚し、その意味を己の中で構成します。ただし、構成される意味は千差万別です。同じアイドルを見ても「かわいい」と思う人がいれば「かっこいい」と思う人もいる。ですが、観客の意味付けがアイドル本人の投企と一致するとは限りません。「かわいい」「かっこいい」アイドルで在ろうとしていないかもしれないからです。この一般論は、自由であるはずの投企を阻害します。「〇〇で在ろう」と振る舞っているのに、他者からは「〇〇でない」と受け取られる危険を孕んでいます。強い言葉を使えば、それは投企の否定です。しかし、虹ヶ咲のファンはそうではありません。虹ヶ咲におけるファンの特殊性は、パフォーマンスを見て知覚するに限っており、意味の構成を行っていません(詳細に見ると反例は挙げられるが…)。大局的に物語構造を見ると、ファンからはそういった機能が排除され、アイドルの知覚に留まっているはずです。

 虹ヶ咲のこの姿勢の最も顕著な例はラブライブを物語から追放したことです。ラブライブはスクールアイドルの自由な投企を外部から用意された物差しで測る場です。そこでは、「〇〇なスクールアイドル」が期待され、評価される。全ての投企が「〇〇なスクールアイドル」であるか否かで十把一絡げに見られてしまう。こういった他者の在り方を規定する要素を最も初めに除去したのが虹ヶ咲と言えるのです。それは、「〇〇で在ろう」とする投企を妨げない物語構造的意味を有します。

 虹ヶ咲ではファンがスクールアイドルの在り方を期待し、役割を押し付けたり、測ることをしません。ライブを見たファンは、その投企を、自己表現を見て「勇気づけられる」「自分もやってみたいと思う」といった応答をすることに重きが置かれています。投企の本質についてなんら規定は行いません。従って、虹ヶ咲における投企は他者の視線の前にあっても本質を与えられることなく事実化されるのです。

 

 さて、ここまで書いたので虹ヶ咲がなぜライブをするのか結論を書きましょう。それは、主体的自由な選択の下で実践される投企を他者の前に晒し、世界内の事実として刻むためです。

 あらかじめ本質を持たない人間が、〇〇で在りたいと願い、その内的決意を可能性の域から跳躍させ、他者の承認する事実へと変換する場がライブなのです。

 

5. おわりに

 ここまでずっと書いてきました。思ったより文字数が多くなってしまったので考えていた各論について詳細に書くのはやめておきます。簡単に列挙するのに留めます。

  • 璃奈:「みんなと繋がりたい」という内定決意は既にあった。しかし、表情をうまく出せない事実性をがそれを阻害していた。璃奈のエピソードは投企を阻害する事実性を変容させる物語と読める。
  • 果林:自己の規定化=投企の放棄を行っていた。「自分はスクールアイドルをやるガラではない」「自分は読者モデルだ」等々、自分は〇〇であると自身の本質を決定していた。これは、「〇〇で在ろう」とする運動である投企の放棄。果林のエピソードは、自己を規定する態度から離脱し、自由な選択が可能な存在であることを引き受ける意味がある。
  • 彼方:「妹を支える」「スクールアイドルである」ことが並立不可能な二者択一の選択と捉えていた。結論として、「妹をささえるために、スクールアイドルでも在ろうとする」投企が実践される。璃奈とは違い、事実性の変容というよりは、事実性を再解釈し、投企を再配置するエピソードと読める。せつ菜の生徒会長とスクールアイドルを両立する行いも、互いに排他的であると考えていた投企の統合と読める。
  • ユニット:各人の投企が相互可用を生み、新たな投企が生まれる契機。

 とりあえずはこんなところでしょうか。まだ書きたいことはあるし、もう少し厳密なお話をしたいとも思っているので、またいつかオタクブログを書きたいな〜となったらやります。では。

虹ヶ咲の映画を見てきたよ2その2

 こんにちは、ろっぷるです。

 前回の記事に続いて感想を書いていきます。

ro-puru.hatenablog.com

映画 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第2章 萌え萌えアワード

可愛い部門

大賞

i) 璃奈ちゃんのMV

 みなまで言うまい。

ii) ダブルブレイド片手に髪の毛をかき上げる愛さん

 メロいってこういうときに使う言葉なんですね。せつ菜ちゃんの原点をウキウキで手に取る愛さん、大変色っぽかったです。

iii) ローポニー愛さん

 ギターが似合いすぎる。近江彼方ちゃん(27)ぐらい宮下愛(23)がしっくりくる。「吹っ切れた想い、前をむいてが流れて」でギターはせつ菜ちゃんを意識していることとか、そもそもせつ菜ちゃんの楽曲がギターの主張強めなので、そこを受け取っているのが感じられてよかったですよね。せつ菜ちゃんの輝きは流れ星のように一瞬かもしれないけれど、それを見た人間の中では永遠に残るんです。そして、また新しいトキメキの炎が、輝きが生まれる。

 何でも出来るから将来の選択肢はいくらでもある愛さんが、せつ菜ちゃんの輝きを追ってあえてギターの道を進むとか、ありかもしれない…って考えていました。

 

ノミネート

i) 髪の毛で両目が隠れるミアちゃん

 梅田スカイビルでのシーンですね。片目隠れはあんまり萌えないんですけど、両目が隠れると途端に可愛く見えちゃうんですよね。片目隠れはガキの印象を与えますが、両目は色っぽい。某絵師さんの絵が頭の中をよぎりました。私も今あれぐらい髪の毛が伸びていて、スタイリング剤を使わないと邪魔でしょうがないので早く切りたいです。

ii) 膝枕される愛さん、膝枕する璃奈ちゃん

 なんだよあれは。同好会の部室でいつもあんなことやってるんか。マジでいい加減にしろ。あの距離感でいつもやってない訳ないんだからそのシーンを劇中で見せろって言ってんの。そういう隠蔽体質がディスコミュニケーションによるすれ違い問題を産んでモラルハザードを引き起こしてんだよ。もう終わりだろこの同好会。

 ちなみに、私はこの関係に前々から気づいていて、以下のような下書きを残しています。

 

萌え萌え部門

大賞

i) 天王寺動物園で写真を撮る時の璃奈ちゃん

 くねくねしててかわいい。萌えっていうのはああいう細かい動きに宿るんですね。顔には出ないけどすごく楽しんでいるのが伝わってきて嬉しかったです。璃奈ちゃんはきっと誰よりも感情的で直情的な人間なんです。クロエとのやり取りからもその片鱗が見えますね。「Stay」の歌詞でも、すごく感情に素直な子なのが分かります。

 ミアちゃんにとって正解の道は自分の中で分かってる。だから「Cheer Mode」を作った。それでも、だとしてもミアちゃんと一緒にいたい気持ちは隠せなかった。璃奈ちゃんは自分の心を叫ぶと言うより、溢れ出てきてしまうという表現がしっくりくる気がします。だから、隠すための物理的な仮面が必要だった。璃奈ちゃんは感情表現が苦手な子ではないんです。ただ表情に出すのが苦手なだけ。それを存分に感じられる2章だった。

 相手と対等に立ち、蓋をできない零れ続ける自分のワガママを真っ直ぐにぶつける璃奈ちゃんが素敵だった。眩しかった。色んな人と繋がってきたけど、強引に手繰り寄せてでも守りたい繋がりがあった。璃奈ちゃんがそんなものを見つけられたのが、私は本当に嬉しかった。

ii) あ~~~~~~

 璃奈ちゃんと栞子ちゃんのダブル入賞です。正直、ここを選ぶのは軟弱すぎないか?とも思いましたが、自分の気持ちには嘘をつけない。あそこは間違いなく萌え萌えアワード大賞です。おめでとうございます。

iii) 冒頭で柱に捕まりながら階段を降りるせつ菜ちゃん

 なんかね~~~ぷいっとした表情が萌えでした。せつ菜ちゃんのああいう仕草に胸を打たれる。「そんなことあるんですよ」のセリフの時とか、なんか無表情に萌えるんですよね。普段が元気いっぱい快活少女だからこそ、ギャップが良いスパイスになっているのかもしれませんね。

iv) スマホを操作する璃奈ちゃんの手

 すっげ~~~~よかった。丁寧に璃奈ちゃんの手が描かれていて、萌えというか、エロ……って感じでした。えいがさきエロエロアワードがあったら大賞筆頭です。白くて細い手がスパパパパとスマホを操作するのに癖を感じざるを得ない。あとは、仮面を被った状態でミアちゃんと相対しているときの手のモジモジ。これも大変萌えでした。手の動きが良かった。2章、もしかして手フェチのアニメのなのかもしれませんね。

 

ノミネート

i) 仮面と取ったときの髪の毛

 璃奈ちゃんの髪の毛がふぁさ~って広がっていく姿美しい。私って実は髪の毛が大好きで、璃奈ちゃんの髪の毛がああいう風に柔らかく描かれるのが嬉しかったです。

ii) 3日目の璃奈ちゃんの私服

 クロエと対峙するときの格好ですね。ごめんなさい、オタクだから服には詳しくなくて、オーバーサイズっていいよな…しか言葉が出てきません。璃奈ちゃんってミニスカートのイメージが強いので、ああいう服を着てくれるの嬉しいです。

iii) ビデオ通話のときのかすみん

 腕を組んでなんだか難しそうな顔してるの萌えでした。そんなに難しいこと考えてる?

iv) 栞子ちゃんが梅田ダンジョンの話をしているときのせつ菜ちゃん

 こっちもなんか真剣な顔していてかわいかったです。特に、途中から身構えるんですよ。そこの萌えポイントが高かったです。そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。私もよく知りませんが。

 

以上です。いかがでしたか?ぜひみなさんの萌え萌えポイントも教えて下さいね。

 

おわり

虹ヶ咲の映画を見てきたよ2

 こんにちは、ろっぷるです。

 えいがさき2章を見ました。整理できていない部分が多分にありますが、まずは初日を経て感じたものを言葉にしていきます。一度言葉にすると、次見返すときの解像度が違う気がするんですよね。

1. イマと未来

 クロエはスクールアイドル活動に対し、寄り道と表現していました。ミアが歌手になるならば、テイラー家に戻り、良い環境で歌手としての研鑽を積むことが最短距離で、日本の高校生に混ざってサークル活動を楽しむのは確かに寄り道と言われても仕方のないことでしょう。クロエの示す道に従えば、ミアは歌手としてたった今から成長を始めることができるかもしれない。今のミアは歌手として寄り道の途中であり停止の最中にいます。

 ただし、今すぐに帰国し、歌手として成長を始めることが最短距離であるのは、当人の感情を無視した理想論であることを忘れてはならないと思います。ミアがあそこで帰国を果たし、テイラー家として歌手を目指すことは本当に最短距離だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。そうではなかったかもしれない、が肝要で、ミアは間違いなく日本に未練を残す結末になったでしょう。

 それをどう捉えるかの違いがクロエと虹ヶ咲のスタンスの違いとしてそのまま現れてきます。クロエは家族こそが永遠であり大切なものであり、対して、日本での活動は有限であり家族や夢に優先されるものではないと考えている…と推察されます。クロエはイマだけではなく、その先の人生も永遠に続くものに比重を置いています。一方で虹ヶ咲はイマに比重を置いています。

 ここで注目したいのは、イマの対比として永遠(一生)が提示されたことです。ミアの場合はそれが友人・家族という形を取って現れた。2章で立てられた問いは、「イマしかないものと、一生続くもののどちらが大切か?」です。ミアはどちらも大切で、ただ今はイマを優先したいと回答を出しました。

 ただし、それはミアの場合であって、ミア以外の人間一般に適用できるほどの強度がある示され方をしたとは感じていないです。クロエと果林の会話で、「家族だけがいつまでも続くものではなく……」と途中で止まっているのも3章で上述の問いに対する解が示される示唆と受け取っています。3章では、きっと以下のような回答が示されるのではないか?予想だけ投げておきます。

テーゼ:未来は一旦保留し、イマ隣にいる人との関係を大切にすべき

アンチテーゼ:刹那的なイマよりも、永遠に続く関係を大切にすべき

シンテーゼ:イマ隣にいる人間も永遠の関係になる。だからイマも大切なものになる

 現在隣にいる人とはいつか離れ離れになることは否定できません。ただし、永遠の一瞬・Hurray Hurray・2期12話を援用すれば、物理的な距離が離れようと友情は永遠です。築かれた関係はイマに留まるものではありません。えいがさきは2期までに描かれたものを再確認する色が強いと感じています。全ての種まきは既に終えられていて、3章もこれまで虹ヶ咲が言ってきたことが一貫して通されるものと考えています。

 

2. 寄り道こそが人生の本質ではないか

 映画本編の話題というより、私の考えを述べるターンです。クロエが言っていたことは、歌手になる目的を達成するためには最短距離で最適解なのでしょう。ですが、もう少し大局的に物事を考えて、生きるうえで最適解なのかは疑問を呈さざるを得ません。何か目的を達成すること(ミアの場合は歌手になること)を人生の最重要目標に据えるならば、クロエの言葉は正しいでしょう。しかし、私は「今を楽しむ」ことが人生で最も大切だと思います。ミアは同好会との関係を切り捨てて歌手として成功を収める方が結果的によりよい選択になっていたかもしれない。だけど、それは今を無視することでしか得られない結果です。私は今を大切にしたい、刹那主義者です。

 私の人生は寄り道に溢れています。それが将来どんな結果に繋がるかは分からない。ただ、今は楽しく過ごせている。生きることってそれでいいんじゃないですかね。今楽しいと思えることだけを積み重ねていけば、生まれてきた甲斐があったといつの日か振り返ることができるのではないか。

 結論、クロエのスタンスと従来の虹ヶ咲のスタンスのどちらが正しいかなんて人それぞれであるし、死を迎えるその瞬間まで正解は分からない。だから、これは願いです。寄り道を楽しむことこそが人生の本質であって、今を刹那主義的に生きることが幸福への道になっている。そう祈っているんです。

 

3. 隣にいる人

3.1 璃奈とミア

 2章はファンとスクールアイドルの関係についてが主題でしたね。ファンがいて、スクールアイドルがいればそれだけでいい虹ヶ咲の在り方を再確認できました。さらに、あなたがいて、私がいればいいという原点にも立ち返ったかなとも思います。

 璃奈とミアが互いに歌を伝えるシーンは、1期1話および1期12話で歩夢が侑へ自身の思いを伝える場面を想起させられました。ファンとスクールアイドルがいればそれでいい。それは、一人のファンと一人のスクールアイドルで最小単位の関係を構築すれば成り立つのです。

 また、応援し応援される関係について触れられました。ファンとスクールアイドルの属性は流動的で、一人の人間がどちらにもなれることは既にアニガサキ内で示されています。ファンは声を受け取る側でスクールアイドルは声を届ける側*1、この拡張された両者の概念をさらに拡張すると、ファンとスクールアイドルは「隣にいる人」と言えるのかもしれませんね。あるいは「友達」。記憶が曖昧ですが、劇中で「友達なんだから応援するのは当たり前だよ」というセリフがあったと思います。友達ならば応援する・応援される関係が成り立ち、それはファンとスクールアイドルの関係になる。これをベン図で示したのが下図になり、本来の客席とステージの間でのみ結ばれる関係から拡張を続け、2章では「友達」にまでファンとスクールアイドルの関係の概念は広くなったのかなとか考えてました。持って回った言い方になりましたが、つまり、ファンとスクールアイドルは友達であり、友達はファンとスクールアイドルの関係にある。2章ではそこまで言われていたんじゃないかなあ、と思いました。

3.2 愛とせつ菜

 こちらはスクールアイドルとファンの、特に声を送り合う行動そのものに触れられていた気がしますね。もっと言うなら、声を受け取ること。愛もせつ菜も、相手から声を受け取り、今もその残響が自分を構成している。DIVE!から始まった愛の中にはせつ菜の大好きが今も焼き付いていて、愛から声を届けられたせつ菜にも響いてる。ユニットでは他者の目線を通して自分を再認識する、他者と共にあることで新しい自分の色を見出だせるが主題でした。また今回ソロへ回帰しますが、1期の頃とは違い、他者の色を己へ内在化した姿が描かれます。

 せつ菜の大好きが愛の中でこだまし、愛の愛してるがせつ菜に刻み込まれる。他者と同じ色になることを拒み、自分色を見つける1期から更に進み、他者の色に自分色を融合させる段階へと進んでいるのです。自分を見つめ直すため他者を一旦排し、自らを徹底的に見つめ直す個人主義から、自分の外側へ目を向け、他者を取り入れる開かれたソロアイドルへ回帰している。

 人間は他者との関わりを断って生きることはできません。その社会の中で、自分自身と真剣に向き合った先の他者との相互作用へ自覚的になる。自分色は自分だけで構成されるものではない。他者との関わりの中で自分は作られている。個人主義を保存しつつ、他者の存在・影響を尊重する姿勢こそが虹ヶ咲だと私は思うのです。

 

4. 雑感

 とまあ色々書きましたが、素直な感想を書きましょう。お酒を飲みながら書いているので、いい感じに思ったことを羅列していきましょう。

4.1 愛について

 私って1期4話のことが大好きなんですよね。これまで散々オタクブログで言ってきましたし、今更どこが好きかを改めて書く気はないですが、とにかく好きなんです。そこで、愛がDIVE!から始まったことにフォーカスされたのがすごく嬉しかったんです。せつ菜から始まったスクールアイドルの系譜は多々あれど、愛に焦点が当たることって今までありませんでした。愛だって間違いなくせつ菜から始まったスクールアイドルなんですよ。ですから、愛からせつ菜へ向かう矢印だって小さいものではない。それが2章でしっかり描かれたことが嬉しかった。虹ヶ咲の重要事項である声援のお返し、その循環(あるいは円)、継承されるトキメキ。トキメキを外へ発すれば誰かに届くし、そのトキメキはいつか返ってくる。虹ヶ咲そのものが愛を通じて再度言及されたのがとにかく嬉しいんです。

4.2 せつ菜について

 1期8話でペルソナさえその人を構成する一部であり、その人そのものだと言われていました。対して、せつ菜は菜々とはそもそも別人として扱われました。ではせつ菜とは何なのか?それはなりたい自分です。自己実現の目標。

 菜々の在り方は、なりたい自分は自分で定め、それに向かって進んでいく投企そのものです。菜々はこういう人間、せつ菜はこういう人間と分け隔てるのではなく、菜々の向かう先がせつ菜だった。人間には規定された本質などなく、自ら本質を獲得できる自由さがあります。菜々は理想の本質をせつ菜として発現させ、そうなるよう無自覚ながら前進していた。自己の可能性を外の世界へ投げ出し、私を再規定する。人間はあらかじめ定められた形などなく、なりたい自分へ自己実現を果たすことが可能な自由な存在です。その投企の反復が生である。その反復の中で隣にいる他者の影響を多分に受けることが虹ヶ咲の言っていることだと、私は思うのです。

*1:ライブで客席にいるのがファン、ステージにいるのがスクールアイドルという概念より拡張されている

虹ヶ咲の映画を見てきたよ

1. はじめに

 こんにちは。ろっぷるです。

 昨晩、虹ヶ咲の映画を見てきました。1時間強のアニメの中でMVを5本挿入し、かつ物語に非連続さを感じさせず、縦軸横軸を描き切る圧巻の技の映画でした。さらに各登場キャラクターをフィーチャーしつつ、十分満足のいくものをお出しされたのではないでしょうか。

 見た直後の感想をすぐに残しておきたいな~と思っていたのですが、昨夜はお台場に泊まって、今日は朝からブラブラしていたので少し時間が経ってしまいました。映画も何回か見たのでファーストインプレッションでもなくなってしまいましたし。ただまあ、なんにせよ家に帰ってすぐに書こうと思ってブログを開いた次第です。

 では、感想文をポツポツ書いていきましょう。よろしくお願いします。

 

2. GPXとか

 競い合いを本当にやるのかな~と半信半疑だったんですが、ルールとしては1位を決めるちゃんとした競争でしたね。それでもエマちゃんのように、順位を気にかけないメンバーはいましたが。

 これまで己のやりたいことを貫き、そもそも比較される土台を一度は捨て去っていた虹ヶ咲に、競争の場が再度導入された意味ってなんだろうって考えていました。最終的な結論は2章ないし3章まで待たれるでしょうが、ここでは1章で感じたことを書いていきます。

 まず、気に留まったのはランジュママの発言ですかね。細かいセリフは失念してしまいましたが、「本気でやったことに意味がある」的なこと言ってましたよね?言ってたはずです。要は、過程が重要ってことですね*1。これはランジュママ、ひいては虹ヶ咲の青春観ってことでしょう。「何かを好きになったなら、それを追求してみよう」って換言してもいいんじゃないでしょうか。好きの気持ちが生まれたのなら、ただ好きでいるだけでなく、走り出してみよう!って。そうして熱中し続けた時間が、かけがえのないものになるから。これまでと少し違うのは、ただ好きにやっているだけなのとは異なるってこと。何を持ってというのは難しいですが、”上達”が目標に据えられることになります。ただし、何かを追求することを強制する意図はなく、そういうのと無縁でいてもいいよね~とストップをかけるのが前述のエマちゃんの役割でもあったりしたのかなとか考えてました。

 好きなことで1位を目指すっていうのは、もしかしたらその人の丸裸になった心が出てくる状況なのかもしれませんね。なぜなら、好きなものへどうしようもなく熱中している時間だから。そこに嘘偽りの気持ちはありません。そして、そんな状況での競争は、裸の心と心のぶつかり合いです。そこで、今回の競争で生じるぶつかり合いって、極限まで心同士の距離が近くなることなのかなとも考えていました。今回のランジュと歩夢ちゃんのように。離れ離れになるどころか、心が触れ合っていた*2。確実に、あの二人の心の距離は短くなっていたと思います。

 何も隠さない心をぶつけることで相互理解が深まることは、天ちゃんと小糸ちゃんの仲直りからも読み取れそうです。天ちゃんの包み隠さない想いを小糸ちゃんへぶつけることで、さらに二人の仲は深まっていきました。

 同好会メンバー同士、好きなことへ熱中する者同士のさらなる相互理解の環境として、今回のGPXはあったのかな~ってのが今のところの考えです。お互いを高め合うって話もありますが、それが虹ヶ咲的に重視されているポイントかどうかってのは、いったん保留したいですね。

 

3. 歩夢ちゃんとか

 直接的な言及はないので、ほんとにオタクの与太話なんですが、一個前の記事で書いた同好会の拡大の話をしてました?歩夢ちゃんが伝道者となって、同好会の思想を広めるっていう。ランジュの言葉によって、歩夢ちゃんがそれに自覚的になったのかなと私はキャッチしましたよ。

 あとMVの砂時計。スクールアイドルの象徴だと思うんですが、サビ前でそれが手から落ちるのが示唆的だなと感じていました。2期かOVAの頃から、歩夢ちゃんだけは高校生でなくなってもアイドルを続けそうだな~と感じていたんですが、その考えを後押しされるような内容でした。つまり、時間制限を手放すってことです。トキメキの連鎖を生む源流として、歩夢ちゃんは存在し続けるのかなと。まあ、虹ヶ咲的にはアイドルである必要はないと思いますが、何かしら他人に影響を与え続ける存在になっていくのは確かなのでしょう。

 全部のMVに言えることですけれども、歩夢ちゃんのMVはちゃめちゃよかったな…。ライティングが好みだったのかな。

 「これが精一杯」とたった一人のあなたに届けるのみだった歩夢ちゃんが、順当に、確実に変わっていくのを感じられてすごく感慨深くなっていました。アニメ外の話をすれば、開花宣言で今は小さな蕾だなんて歌っていた子が、今では「Stellar Stream」なんて曲を歌ってるなんてさ…。歌詞に何が書かれているのか本当に気になります。恒星といえば太陽で、虹ヶ咲でいう太陽って結構重要だったりするじゃないですか。夢僕とか、虹を生む光源であるとか。歩夢ちゃんは人々を照らす星に、輝き続ける星になったのかなあ。色々整理しきれていない部分ではありますが、感覚でエモいな~ってなってました。

 

3. 彼方ちゃん

 彼方ちゃんのライブでオタク泣きでした。周りをよく見て、そのために行動することが多い彼方ちゃんが、自分だけの夢を語るところ。衣装を作ってみたいとか、調理師になりたいとか、デザインをやってみたいとか。色々やりたいことがあって、それをつらつらと話す彼方ちゃんの姿が嬉しかったです。そして、MVではそんなワガママお姫様のなんでもありが出てましたよね。宇宙まで行っちゃうんですもん。

 映像でいうと、今回の彼方ちゃんMVは確実にキャラデザ一新のいいところが出ていたと思います。緩い顔で萌え表情豊かに動くのが印象的でした。彼方ちゃんにばっちり合ってる。宇宙服を着てるときに髪の毛をまとめてるのが萌えすぎ!

 

4. 映画 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第1章 萌え萌えアワード

大賞

・遥ちゃんと一緒がよかったな~と言っているときの髪の毛をクルクルする彼方ちゃん

異常髪愛者の私としてはたまらない1シーンでした。普段から考え事をしながら無意識に髪の毛クルクルしているんですかね。彼方ちゃんの少しパサパサしてそうな髪の毛を私もクルクルナデナデしたいです。

 

・ランジュママにご馳走されたステーキをガブガブ食べるかすみんの後ろ姿

たくさん食べる女の子は可愛い。食べ方がやっぱり庶民の子って感じですごくいいです。かすみんに色々餌付けして、口に運ぶ姿を見ているだけで幸せになれそうですね。1章のかすみん、なんかずっと食べていて萌え萌えでした。

 

・侑ちゃんのメッセージを読むために、前のめりになってバスルームのガラスに手を付けるエマちゃん

エマちゃんたまにそういう無邪気なところあるよね。

 

ノミネート

・MVのランジュの私服

オタクはパーカー+ロングスカートが好き。見た目以外でも、今回、かなり内面へ踏み込んだところや、ライブもあってランジュのこと相当好きになってます。新作が公開されるたびにメンバーへの好感度が上がっていく…。

 

以上、おめでとうございます。

 

5. さいごに

 この映画を見た感想を端的に言うなら、生きていてよかった、です。誇張ではなく…。見られてよかった。その嬉しさがただただ溢れました。

 TVアニメを見てから、ずっと好きでい続けられてよかった。

 

 色々思いや書きたいことはまだありますが、それについてはTwitterとかに脳直で書きます。今日は疲れて眠いので。ではこんなところで。

*1:競争し、てっぺんをとる意味を棄却しているわけでもないことは触れていましたね

*2:もしかしたら「繋がる」よりも近いのかもしれません

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会という場所

 

1. はじめに

 こんにちは。ろっぷるです。

 昨日、コミケに参加してきました。目当ての何かがあったわけではないのですが、暇だったので。女性声優のトランプを買ったり、虹ヶ咲の本を買ったり、よく分からない本を買ったり、なんだかんだ楽しめました。アニクラもよかったです。次回はよく分からない本の島をじっくり回る時間を作れればいいですね。

 

 同人誌即売会に参加するたびに、何かを好きな人達が集まって楽しんでいる空間って素敵だなって感じます。作品を好きで好きでしょうがない人たちが、本を描いて、頒布する。また、その二次創作を読みたい作品ファンがイベントへ参加する。参加方法の違いはあれど、そこは作品のファンが集まった空間です。オンリーイベントなんかだと顕著ですね。コミケは規模が大きいですが、島単位ではオンリーイベントの様相を呈していると考えられるでしょう。人生で触れてきたあらゆるものの中でアニメが最も好きな私なんかは、同好の士だけが寄り合い、楽しんでいる空間は感動すら覚えます。

 極論、「コミケオンリーイベントの集合体である」と同義のことを書きましたが、重要なのは、あらゆる表現が許容され集合体を形成しているということです。コミケでは何かを選択、あるいは排除することなく、個々人の表現したいものが無際限に共存できる場が形作られています*1。そんなことをぼんやり考えて、殊更コミケって場はすごく素敵だなって改めて思いました。

 

 そこで、コミケへの素敵だなって感情は、虹ヶ咲に抱くものと同じだと気づきました。どちらも、多様な表現が許される場です。なんなら会場は虹ヶ咲学園。学校の舞台となっている国際展示場は、オタクにとって「=コミケ」と言って過言ではありません。多様性を重視する虹ヶ咲がそこを拠点とするのは意図されたデザインのように思えるって話を今更する必要はないでしょう。ただ、「多様な表現が許される場」っていう話題は、虹ヶ咲関連で文章にしたいと思っていたので、コミケにかこつけてやっていきましょうって感じです。

 

2. コミケの理念

 コミケは「多様な表現が許される場」だと私は受け取っていましたが、それは主催の意図するところとそう違いはないです。コミックマーケット準備会が掲げるコミケの理念は以下のようなものになります。

コミックマーケットとは何か?」, 2014, コミックマーケット準備会, https://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn201401.pdf

 

 こうして見てみると、虹ヶ咲の目指すところとコミケの理念が同様であることが分かります。虹ヶ咲の目指すところというのは、スクールアイドルフェスティバル(SIF)です。そこで、SIFの理念についても作中の台詞を引用して見てみましょう。

侑「街全体を巻き込んで お祭りみたいにしたんです」

侑「いろんなところでいろんなアイドルたちが 自分らしいライブを披露する」

侑「そして スクールアイドルが大好きな人たちも 自分の好きを自由に表現できる」

侑「みんなの夢が集まって それを全部叶える場所」

侑「みんなが好きになってくれた スクールアイドル同好会らしいフェスの形って そういうものだと思うんです」

テキストは「アニガサキ台詞集」より引用 

 両者に共通するのは、全ての表現/表現者を受容すること、そのための場であることを志向していること。

 まず、コミケにおいて全ての「参加者」は対等とされています。

 これは、SIFにも見られる思想です。SIFは、舞台の上に立ち、歌って踊るスクールアイドルのみを主役とするのではなく、ファンも同様に主役であると謳っています。ファンをも自分の”好き”を自由に表現する表現者として受け止める「みんなの夢を叶える場所」がSIFです。2期で開催されたSIF2では、全ての参加者が表現者を応援するファンであり、また表現者自身でもあり、場を形作り、運営するスタッフでもあることが強調されます。従来、スクールアイドルの自己表現を受け止める存在だったファンが、文化祭の催し物を通して自分の好きを表現する。逆に、スクールアイドルが従来のファンの表現を受け止める。さらに、2期6話で侑が撮影した映像のように、全ての生徒がSIF2を作り上げるための活動に参加する。真の意味で、全ての参加者が対等に扱われるのです。実際問題として、実行委員会のような取りまとめ役が存在しますが、SIFの究極の形として、中枢機能が無くとも場を継続して運営できる形態があるのではないのでしょうか?

 次に、少し脇道に逸れますがコミケにおける「表現」についても見てみたいです。

 取り上げたいのは、「コミケットは、このようにさまざまな表現メディア、表現者が渾然一体となり、相互に刺激を与え合いながら、新たな表現の地平を拓いていくことを目指します」の部分です。SIFでのスクールアイドル間のコラボや、2期のユニット活動など、相互に刺激を与え合い、表現によって新しい表現が生まれていくことは虹ヶ咲でも描かれています。この刺激という言葉は虹ヶ咲風に換言すると、「トキメキ」になるんじゃないかと思います。他者の表現からトキメキを受け取ったファンが、新しい表現を生み出していく。侑を見ると、これは虹ヶ咲のメッセージのコアにあると読み取れます。これは、スクールアイドルとファンの垣根が融解するということと等価です。

 最後に、コミケという「場」についてです。

 上述の全てを受け入れる場として存在することがコミケの意義とあります。何者も拒まず、受容する表現の場とすること。これは、SIFもとい虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会も同様です。このような同好会について、次で書いていきます。

 

3. 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会という場

 同好会は全ての”好き”を受け入れる場所であることはSIFから読み取れますが、始めからそれが明確に目標として1期2話で示されています。

かすみ(いろんなかっこいいもかわいいも一緒にいられる)

かすみ(そんな場所が本当につくれるなら…)

かすみ(そこは絶対 世界で一番のワンダーランドです!)

テキストは 「アニガサキ台詞集」より引用

 無敵級*ビリーバーで自分自身を受容し、自分だけの可愛いを追求する中須かすみちゃんが上記のような目的を持って同好会という場を守ったことについてダラダラ萌え語りをしたい気持ちが湧き出てきますね。まあそれは置いておいて。

 同好会は場としてこのような機能がありますが、特筆したいのはそれが広がり続けていることです。始めは10人の表現の場として始まった同好会ですが、SIFを経て広がりを持ったことは上述の通りです*2。しかし、同好会の拡大はこれに留まりません。アイラとペネロペの存在です。同好会に属さなくとも、SIFに直接参加しなくとも、トキメキを受け取った人間は自己表現をしてよいという理念を場所を問わずに受け取ることができます。このことについては、LoveLive!Days 虹ヶ咲SPECIAL 2023の前日譚でもフォーカスされています。まだ読んでないよって人は、購入してみましょう。損はさせません。

 前日譚では、ときめきの輪が広がっていく原文ママ)と表現されているこれは、全ての表現を受け入れるのと同じく同好会の重要な機能だと考えています。自由な表現を行うのに、同好会のメンバーになることも、SIFに参加する必要もないのです。ただ、同好会の理念に触れ、感化されていく。ここまでくると、場というより精神性の話になってきますが。でも遠からずってところなんじゃないでしょうか。同好会は場を通り越してイデオロギーになっていく。自分の好きを存分に表現していいという。同好会の理念に触発された表現者から何者かが次にトキメキを受け取り、新たな表現者となっていくなだれのような連鎖こそが同好会の拡大。劇場版はこの連鎖が主題になると想像しています。きっと、場所を飛び越えるってことを強調しながら。沖縄のスクールアイドルの話とかね。

 もっと突っ込むなら、同好会の空間的な広がりに留まらず、時間的な広がりについても言及されるんじゃないかって。要するにメンバーの卒業です。もはや同好会の理念を成り立たせるのに”誰か”は必要ではなく、現行のメンバーが卒業しようとも、同好会の理念は何一つ変化しないことが示されるのではないかと。それによって、同好会の理念が恒久的に継続され、拡大し続ける持続可能性が提示されるのです。正直、私が見たい映画の内容っていう偏りを持った想像ですけども。

 まとめると、同好会は場よりもさらに抽象化され、空間的・時間的広がりを持ったイデオロギーになっていくんじゃないかってことです。そうなると、そんな同好会を守って、機能(ワンダーランド)を実現させた中須かすみちゃんの株が上がり続けてしまいますね。虹ヶ咲を好きになればなるほど、その理念の体現者である中須かすみちゃんを好きになってしまう構造、にくいね。

 

4. おわりに

 コミケに参加してぼや~って思ったことを書きました。ついでに映画の予想とかも。たまに書きたいなーってことが浮かんできて、それを書くって楽しいね。

 

おしまい

 

参考

コミックマーケットとは何か?」, 2014, コミックマーケット準備会, https://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn201401.pdf

「アニガサキ台詞集」, https://linked34ce.github.io/anigasaki/

*1:最低限のルールは存在しますが

*2:2期13話で侑ちゃんが誰かをときめかせたのも、同好会の拡大の一環であると考えられます

ツナガルコネクトの話

 こんにちはろっぷるです。

 最近、暑くて外に出たら生命の危険を感じる天気が続いていますね。東武動物公園と虹ヶ咲のコラボへ遊びに行ったときには、酷暑の中で萌えパネルを探して本当に楽しかったですし、本当にきつかったです。

(萌え萌えな璃奈ちゃんのパネル)

 

……

 

 今回は、「#これが私のトキメキ」の『ツナガルコネクト』ブログになります。詳細はこちらのツイートをご参照ください。

 昨日のPastelさん(X@lovemagi_pastel)からバトンを受け取りました。

pastel8memorandumllfinalafter1.hatenablog.com

 私の好きなメンバーの楽曲で、この曲が披露された回/この曲自体がきっかけで璃奈ちゃんが推しと自負するようになった思い出の曲です。

 変に練った話はせず、この曲に対する素直な思いをブログにします。こういうのが一つぐらいあってもいいでしょう。

youtu.be

 

……

 

 私がツナガルコネクトを好きな理由は、コミュニケーションが苦手な人間に対するシンパシー一点突破です。

 笑顔のカタチ(⸝⸝>▿<⸝⸝)(ツナガルコネクトの披露会)の璃奈ちゃんを見て、頑張れって応援したくなるとか、萌え萌えなロリっ子が頑張ってる!萌えェ!とか、ローテンションっぽい萌えっ子が萌えやなあとか、萌萌萌萌萌、萌萌萌、萌萌萌萌萌萌萌。とか、様々な感想を抱きますよね。それでも、私は璃奈ちゃんの己に対する認知に、他人事ではないものを感じたのです。

 結局、応援したくなってペーパーホワイトを振っているのは我々同じなんですけども、そのプロセスのスタート地点が私の場合は共感にあるってわけですね。璃奈ちゃんは表情がうまく表に出せなくて気持ちを伝えられないのに対して、私は言葉を紡げないことで気持ちを正確に伝えられない悩みの違いがありますけども。

 

 自分が相手に伝えたいことを伝えられないって、人間関係のスタートラインに立てていないませんよね。ありのままの自分を相手に知ってもらって、受容あるいは拒否されるのならば結果に如何はあるものの、それ自体は受け入れやすいものです。ですが、相手に誤解されたまま拒否されるのって、どうもやるせない気持ちになりますよね。分かってはいるんです。そういう自己表現が苦手なところも含めて“自分”であって、周囲はそんな“自分”に対する評価を下しているんだと。

 本当はそんな顔をしたいわけではなかった/言いたいわけではなかった。そんなことばかりが頭の中で螺旋を描いている。表立って「お前、キモいわ!」なんて言う人は多くないですから、今のコミュケーションは失敗だったかなあ、と自省するしかなく思考が悪い方へ加速してしまう。そうすると、もっとうまくしなきゃって気持ちから、己の言動に対する評価がさらに厳しくなっていく。今の言動は成功だったのか?失敗だったのか?失敗だったならばやり直したい。そんなことばかり考える。

 自分はどうすればよいのか?人間が皆、普通にできることを私はできないのか?正解のアルゴリズムがあるなら、それを知りたくなる。しかし、そんなものは存在せず、どうにかしようと努力するしかないのは分かってる。

 変わりたいって思う。変わろうとしてみる。本当に変われるのか?変わっているのか?己が変わったと思った自分は変わっていないのではないか?自問自答を繰り返して、自分を鑑みてみる。厳しくなった己への評価では、何もうまくいっていない、失敗だと落ち込む。無理だと諦観に浸ることが多くなる。

 

 ぐるぐるぐるぐるこんな堂々巡りを璃奈ちゃんもしていたはずです。だけど、同好会という場所を見つけ、そこで璃奈ちゃんは変わることができました。前を向くことができるようになった。

 表情が出せないコンプレックスにばかりに目を向けず、自分のできること、長所に注目し、そこを伸ばしていくことにしました。それは、それが受容され、応援してくれる場所に身を置くようになったからです。

 みんなと同じようなコミュケーションはまだできないけれど、それでもいい、いや、それが良いとさえされる同好会。璃奈ちゃんの好きな場所であり、ツナガルコネクトの土台です。同好会を土台とした上で繋がっているんです。同好会は、“虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会”という固有名詞のみを指すのではなく、人が受容され、応援される“場”を示します。人と人が繋がることも、それによって、同好会の概念的な“場”が広がっていくこともツナガルコネクトでは歌われているのでしょう。

 

 前を向けるきっかけとなった同好会に加わった璃奈ちゃんは、自分と同じように塞ぎ込んでいる人たちに優しく手を差し伸べる人間へと変わっていきました。自分が受け入れられたように、今も膝を抱えて泣いている誰かへ向けて。

 

 自分は不完全で、カンペキじゃなくてもいい。それらを隠さずに受け入れ、一歩踏み出そうとしてみてもいい。ヒトリじゃなくてもいい。コミュニケーションの失敗から苦しんでいた璃奈ちゃんのアンサーとして歌われるツナガルコネクトが、私には眩しい。でも、同じ苦しみを知っている璃奈ちゃんが頑張っている姿を見て、強いなって思うし、応援したくなります。

 初めに共感からツナガルコネクトを好きだと書きましたが、少し嘘です。この共感の一歩先へ行っている璃奈ちゃんを表現したこの曲が、私は心の底から好きなんです。

 

……

 

 以上です。いかがでしたか?

 長い企画ですし、一本くらいこういうブログがあっても許されるかなって思って、悪い意味ではなく何も考えずに書きました。

 次回はButterfly担当のこてつじろうさん(X@kotetsu_jiro)のブログが、8/12(月)にアップ予定です。

 私はバトンを渡して、今回はこれで終わりたいと思います。

 

完結編第一章公開まで、あと28日

誰かに向けた応援歌――『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』1期+2期感想文

 

1. はじめに

 虹ヶ咲2期が終わり、ユニットライブを経て、気づけば虹ヶ咲2期1話が放送されてから既に1年以上が経ちました。その間に僕も学生から社会人へと身分を変え、時の流れを感じずにはいられません。今回は、そんな一年前に放送されていた虹ヶ咲2期についての感想文を書いていこうと思います。書こう書こうと思って先延ばしにしていたら、こんなに時間が経ってしまいました。

 2期の感想とは言いましたけれども、書きたいテーマを考えるとそれは1期から地続きにあるもので、1期の存在を無視することはできません。ということで、実際にはタイトルにある通り、本稿は1期+2期の感想文になります。

ro-puru.hatenablog.com

 二年前に書いた1期の感想文があるのですが、大筋はこちらへ乗りつつ、さらに2期で得られた考えを加えていく形にしていきます。1期の感想文の内容は今回の記事でほとんどカバーしていくので読まなくて問題ありません。この記事単体で僕のアニメ虹ヶ咲観を一から伝えられればと思います。本稿の狙いは、第一に僕が僕のために考えをまとめることがありますが、もう一つ、「虹ヶ咲のアニメを見たけれどよく分からなかったな」という感想を抱いたオタクへ一つの見方を提供することを目標にしています。

 

 アニメ虹ヶ咲では「個性の尊重」「他者の存在」がテーマのコアにあり、二つを両輪にして物語が展開されました。本稿では、この二つの要素を中心にアニメ虹ヶ咲から読み取れたことを書いていきます。長くなりますがお付き合いいたたければ嬉しいです。

 

 以下では特に断りが無い限り、アニメの要素のみを取り上げていきます。ゲーム、書籍等の他媒体とは切り離して進めていくので、その点はよろしくお願いします。

 

2. 個性の尊重

 虹ヶ咲の特色を一つ挙げるなら、僕は「個性の尊重」を選びます。この作品に惹かれた大きな理由であり、虹ヶ咲の根幹を成す要素です。特に1期でフォーカスされ、丁寧に描かれた部分ですね。

 本章では、虹ヶ咲がどのようなアプローチで個性の尊重を描いていったのかを書いていきましょう。先に結論を一言でまとめるなら、「その人のやりたいことを応援する」になります。

 

2.1 衝動の肯定

 個性を尊重する虹ヶ咲の姿勢が最も顕著に表れているのは、その人が内に抱く衝動を肯定するところにあります。印象的なシーンを挙げれば枚挙に暇がないですが、特に1期1話で歩夢が放った「動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」を引用したいです。

 スクールアイドルを始めたいという衝動を抱き始めた歩夢は、それを制することは許されないと言っています。肯定というには強すぎるこの言葉は、自分自身の衝動に従うことを認める――正確には衝動に従うことをmustとする思想を虹ヶ咲が内包することを示しています。自分が本当にやりたいことをやれ、この思想は個性を尊重する姿勢そのものでしょう。

 

 とは言ったものの、なぜ衝動に身を委ねるのを認めれば個性の尊重になるのか。そのために、本稿における「衝動」という語の定義を説明しましょう。端的に、本稿で使用される衝動とは内発的動機づけの換言です。

 もう少し詳しく述べてみましょう。まず、人間の行動は全て、「何かをしたい」という動機づけ(motivation)に従って行われます。音楽を聴きたいからライブに行くとか、寂しい思いを紛らわせたいから友人と会うとか、お腹が空いたからご飯を食べるとか、歩き疲れたから椅子に座るとか、座っていたら足に不快感があるから足を組むとか、目が乾燥してきたから瞬きをするとか。意識しているかどうかの如何によらず、人間が何かをするのには必ず動機づけ(=理由)があります。

 そして、内発的動機づけとは、己の関心により生まれる動機づけです。敷衍すると「自分がそうしたいから」という気持ち。誰に強制されたわけでなく、没頭したところで利得があるわけでもなく、ただやりたいから熱中する趣味は内発的動機づけによる行動の最たる例でしょう。

補足:内発的動機づけとは、動機づけの分類の一種です。この概念の対に外発的動機づけがあります。外発的動機づけの詳しい説明は省きますが、簡単に、内発的動機づけ以外の動機づけと理解して良いでしょう。つまり、「したい」という気持ち以外の動機づけです。外発的動機づけによる行動は、結果的に達成したい目的が据えられているのが特徴です。例えば、お金が欲しいから仕事を頑張るとか、親に怒られたくないから勉強をするとか。翻って、内発的動機づけ、すなわち本稿における衝動は、それに従って為される行為自体が目的になります。趣味をしたいから趣味をする、など。

 簡潔にまとめます。「したい」という気持ちが内発的動機づけであり、本稿における衝動です。

 

 話を戻します。「したい」そのものである衝動を肯定することがなぜ個性の尊重になるのか。ここで、再び1期1話から「ピンクとか、可愛い服だって…今でも大好きだし、着てみたいって思う!自分に素直になりたい!」というセリフを引用したいです。これは歩夢の衝動を吐露する言葉ですね。可愛い服を着たい衝動、それを肯定した姿がすぐ後に披露される「Dream with You」の衣装でしょう。

 つまり、衝動が行動という形で自分の外側――この世界へ発露したとき、その姿は個性で彩られているのです。表現を変えましょう。個性とは、衝動によって為される行為の中に存在するのです。服の例は非常に分かりやすいと思います。自分の好きな服を着たいという衝動が世界に表出したとき、それは個性そのものなのです。

 もう少しこの話題で踏み込んでみましょう。侑から衝動を肯定され、自身でも己の衝動を肯定した歩夢はライブをしました。その姿は歩夢の個性そのもの。ゆえに、虹ヶ咲におけるライブとは、自身の個性をいかんなく表現する行いと言えます。2期8話の言葉を借りれば「自分を表現すること」。スクールアイドルのライブとは衝動を肯定した結果であり、個性が前景化した自己表現の姿なのです。

 

 作中のほとんどの人物は自身の衝動にストップをかけ、そのストップを破壊する手助けに他者から衝動を肯定されています。他者から衝動を肯定された登場人物は、次に自分自身で衝動を肯定しライブを披露します。分かりやすいのは、1期1話の歩夢以外に、1期3話のせつ菜、1期5話の果林、1期8話のしずく、そして2期7話の栞子あたりでしょうか。名前を挙げた彼女らは自身の衝動にストップをかけており、それぞれ、周囲に迷惑をかけることへの忌避感、自己を規定した枠組みから出ることへの足踏み、本当の自分を出すことへの恐怖、後悔することへの憂懼など、様々な理由から衝動の肯定を避けていました。

 衝動を制止しようとするこれらの理由――動機づけは内発的動機づけの衝動ではありません。悪い状況に陥ることを避けたいという外発的動機づけです。確かに、望ましくない状況から逃げようとするのもその人の選択に間違いありません。しかし、虹ヶ咲が肯定するのは衝動のみです。衝動を押さえつけ、他の道へ歩みを進めようとするのをこの作品は許容しません。「動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」。初めから、この姿勢は貫かれているのです。

 この作品が外発的動機づけにより衝動に蓋をするのを認めない強硬な思想を有しているのが見られるのは、特に1期5話・2期2話及び3話のエマ、2期7話の同好会などがあるでしょう。エマは非常に顕著な例で、相手が衝動を我慢していると察知すると、強引さをもって本心を開示するよう対峙します。また、2期7話では同好会全員がかけつけ、栞子に衝動を認めるよう圧力をかけます*1

 衝動に目を瞑ることへ非常に厳しい態度をとる虹ヶ咲ですが、反対に衝動へはどこまでも優しく寄り添います。印象的なのは1期7話です。このエピソードで、彼方はスクールアイドルを続けたい、勉学・アルバイトを疎かにしたくない、遥のスクールアイドル活動を応援したいと、自分のキャパシティを超えた欲張りな「ワガママ」を通そうとします。結果的に遥と役割を折半することで話はまとまるのですが、この「ワガママ」を虹ヶ咲では「自分に正直なこと」と表現しました。抱いた衝動をネガティブなものと捉えず、発露されるべき人間の本来の姿と極めてポジティブに扱っています。

 

 虹ヶ咲では、このようにその人が持つ衝動を肯定することが徹底されていました。衝動の中にその人の個性が存在すると言い、それをこの世界に表現するべきだというメッセージを含みながら。

 上で名前を挙げた人物たちは例外なく、自己の衝動とそれを封じる理性のストッパーのジレンマに苦しんでいました。作中ではこの理性のストッパーを取り払い、衝動に身を任せ、個性というその人本来の姿を表出させることが重要視されています。これが、虹ヶ咲に見られる個性の尊重でしょう。

 

「2.1 衝動の肯定」 要約
虹ヶ咲では衝動のみが肯定され、人の個性とは衝動の中に存在する。ライブに立つスクールアイドルは、衝動が肯定され個性が前景化した姿そのものである。

「目覚めてく 強く 裸足で駆け出していこう どんな私からも逃げたりしない」, Solitude Rain

2.2 他者の肯定

 前節では自身の衝動の肯定に焦点を当てていました。そして、自身の力だけで衝動を押さえつけるストッパーを壊すことが困難な人物が多くいたことも。そこで、身動きが取れず立ち往生する彼女たちには、背中を押してくれる誰かが必ず隣にいたのです。この背中を押してくれる他者の存在も、虹ヶ咲において重要な要素です。

 虹ヶ咲は単なる個人主義を謳った作品ではありません。同時に、隣にいてくれる他者の必要性についても説いています。それは、ほとんどの人物が他者の力を必要としていたところからも読み取れるでしょう。

 

 自身の衝動を肯定するよう要求していたように、虹ヶ咲は他者の衝動も肯定します。最も顕著な例は侑です。「あなた」として僕らファンの代名詞的存在として人格を与えられた侑。いかなるスクールアイドルですら応援し、1期1話の歩夢、1期3話のせつ菜を筆頭に、他者の衝動を肯定してきました。1期10話までの侑は、他者の衝動の肯定という役割に人格を与えた存在とまで言えるでしょう。

 侑はファンの代名詞という性格上、他者の衝動を肯定するのは必然にも思えます。しかし、肝要なのは侑だけがこの役割を担っていたわけではない点です。この例で分かりやすいのは1期8話のしずくとかすみの関係です。スクールアイドル桜坂しずくが衝動にストップをかけているのに対し、かすみはしずくの「あなた」として背中を押す役割に回ります。彼女自身が自己の衝動を肯定するスクールアイドルであるにも関わらずです。この例の他に、1期6話で璃奈を肯定する愛(と同好会メンバー)、1期12話で歩夢を肯定するせつ菜、2期6話でせつ菜を肯定する歩夢など、こちらもきりがありません。

 これらから言いたいのは、虹ヶ咲は自身の衝動を肯定するのと同時に、他者の衝動も肯定しているということです。この背中の押し合いは虹ヶ咲を見る上で重要な示唆になります。

 

「2.2 他者の肯定」 要約
虹ヶ咲では自身の衝動を肯定するのと同時に、他者の衝動も肯定している。また、それは人物間で循環している。

「自身持てなくってうつむいてた そんなわたしの背中 押してくれたね」, Dream with You

2.3 衝動を肯定した同好会

 その人の個性を尊重するため衝動の肯定がなされた結果、同好会がどうなったかについて書いていきましょう。まず、グループが一つにまとまることが困難になりました。正確には、ラブライブで結果を残せるグループにまとまることができなくなった。

 このことは1期2話及び3話で描かれています。これらのエピソードでは、ラブライブで納得のいくパフォーマンスを披露するため可愛さを追求したいかすみと、大好きを届けたいせつ菜の間に軋轢が生じました。これは、色の異なる個性が同じ方向を向こうとした結果です。そのため、せつ菜は自分の衝動を封じ込め同好会が一つになれるよう身を引く選択をしました。

 しかし、同好会のためという外発的動機づけにより衝動を覆い隠しスクールアイドルをやめる決断を虹ヶ咲は許しません。本当の気持ちを曝け出せとせつ菜に要請します。だけども、そうなるとかすみと再びぶつかることは避けられない。そこで、彼女らはラブライブに出ない選択をするのです。

 

 これは衝動を肯定できない環境にあるならば、その環境を破壊してしまえというメッセージです。それほどまでに虹ヶ咲はその人がやりたいことをやることに重きを置いています。

 メタな話で言えば、ラブライブという大会はシリーズの中で最重要の目標*2。それをかなぐり捨ててでも個性を尊重するのが虹ヶ咲の立ち位置です。

 もっとメタな話をすると、彼女たちは一つにまとまる必要がありませんでした。ラブライブに出る必要性が初めから存在していないからです。過去シリーズはラブライブで優勝することで果たしたい目的が据えられており、これを達成するためグループがまとまるよう外側から圧力がかけられていました。誤解を恐れぬ言い方をするなら、彼女たちは外発的動機づけによりグループとしての体をなしていたのです。しかし、虹ヶ咲にはラブライブで結果を残すことにより達成したい事柄が存在しません。廃校の危機に瀕し、これを覆したいシチュエーションではありません。従って、ラブライブに出ない選択をすることができました。

 この選択は虹ヶ咲が純粋に個性の尊重を描くため足場を固める地ならしでもあります。そのことについては次節以降で触れていきましょう。

 

「2.3 衝動を肯定した同好会」 要約
衝動を肯定できないのなら、ラブライブへの出場という目的すら取り除くべき障壁とする。

「言い聞かせてみたって もうカラダ中騒いでる 止まらないHeart 強く熱く…!!」, DIVE!

2.4 自己実現の姿であるステージの自分

 ラブライブに出ない選択がどのような意味を持つのか、さらに踏み込んだ見方をしていきましょう。

 1期3話の選択により、同好会は衝動が肯定され、しかしどこかへ向かわせる外圧が存在しない宙ぶらりんな状態になりました。虹ヶ咲のスクールアイドルには道標となるルールがない。辿り着くべき目的地もない。どこへ向かえばよいのか?あるのは「やりたい」という心の内から湧き上がる衝動、つまり内側からの圧力のみです。このバラバラな方向に向いた衝動の行く先は、彼女達がそれぞれ目指した目的地――なりたい自分でした。

 

 さて、人は誰しもなりたい自分というものを持っています。それはどんな形でも構いません。社会的に高い評価を得ている職業に就くとか、卓越した知識・技能を手に入れたいとか、人気者になりたいとか…。その中身はなんでもいいです。きっと今の自分に完全に満足して、それ以上の向上心を失くす事態というのはありません。

 人はいつでも理想の自分の姿を頭の中で思い描いています。それこそが虹ヶ咲におけるスクールアイドルの目標であり、上で書いたなりたい自分です。「学校を救う」のような外的な目的が無い代わりに、なりたい自分になる=人間が持つ自己実現の欲求を充足させるという内的な目的が主題になったわけですね。

 

 しかし全員が全員、かすみやせつ菜のようになりたい自分像を既に持っているわけではありませんでした。この話は1期4話で扱われていて、限りない自由さの中で内的な力のみで動こうとすれば愛のようにどこへ行けばよいのか分からず迷子になってしまうことが示唆されています。愛の場合は、楽しむことこそが自分の目指すべき場所だと自覚し目標が定まりました。好きなこと・やりたいことが向かうべき場所というのは、愛以外にも一般的に適用できる思想として描かれています。衝動を肯定することにより表出するその人の本来の姿(前景化した個性)――これが人間の向かいたいところ、つまりなりたい自分と虹ヶ咲は言っています。再度同好会が発足して一番最初に自分と向き合い、自分のなりたい自分を見つける話が挿し込まれたのは意義のあることです。

 スクールアイドル活動の自由さについては、同じく1期4話でかすみにより「スクールアイドルに正解はない」と言及されていました。何でもできて正解が存在しないスクールアイドル活動の懐の大きさが、数多くいる登場人物の衝動を受け止めるだけの地盤となったということでしょう。

 

 そして、虹ヶ咲において、ステージに立ち個性が前景化した自分となりたい自分は等価です。分かりやすいのは璃奈・しずくの二名でしょう。みんなと繋がりたいと願いつつ、自分に自信が持てなかった璃奈がステージに立ったときの姿。自分を曝け出したいと切望していたしずくがステージに立ったときの姿。他に、可愛いを追求し続けるかすみにとってステージに立つことはそれを最大限に表現する場であるとか。つまり、虹ヶ咲ではステージに立つ=なりたい自分になる=自己実現と位置づけられています。話の流れでも、最後に訪れるのがライブシーンで、その瞬間の彼女たちは理想の自分へ一歩近づいています。自分のなりたい自分になる、これこそ虹ヶ咲が描いてきたものではないでしょうか?

 

「2.4 自己実現の姿であるステージの自分」 要約
人をどこかへ向かわせる外圧を取り払い、衝動という内圧のみが存在する虹ヶ咲のスクールアイドルが目指したのは「なりたい自分」。ステージに立つ彼女たちの姿は、なりたい自分――自己実現の姿と等価。

「どこまでも行けそうなんだ 自分らしくね どこまでも行けそうなんだ!」, 夢が僕らの太陽さ

2.5 虹ヶ咲の刹那主義的側面

 個性の尊重の話題から少し逸れますが、こちらも書いておきたい事柄です。これまで書いてきた通り、虹ヶ咲では衝動を何よりも重んじ、それを行動という形で発露させることを良しとしていました。この姿勢から刹那主義的な側面を見ることもできます。

 衝動を肯定している瞬間、したいことをしている時間は何よりも楽しいものです*3。そして、虹ヶ咲はその充実した瞬間のみを考えろと言っています。

 2期7話では、後悔したくないという思いから足踏みをしていた栞子へ、そんなことを考えず衝動に身を任せるべきだと糾弾しているようでした。と、かなり曲解じみた書き方をしましたが、言わんとすることは当たらずとも遠からずでしょう。さらに、2期11話ではより直接的に、過去や未来に囚われず、楽しい今を追いかけるべきとも言っています。これらから、現在だけでなく、その他の時間に渡って衝動を止めるいかなる障壁も存在しないという思想が垣間見えます。

 非常に危うい刹那主義の姿勢ではありますが、同時に虹ヶ咲はウソをつきます。衝動に従った結果は必ず良いものになるというウソ。2期7話でスクールアイドルに青春を捧げた薫子が言った「してないよ。後悔なんて」、1期13話の最後に歩夢が溢した「始めて、よかったって!」など。スクールアイドルを始めて後悔した人はおらず、誰しもが輝かしい未来へ向かっていけると言うのです。

 要するに虹ヶ咲のロジックはこうです。「楽しい今という刹那を積み重ねていけば、後から振り返ったとき、過ごした時間は必ず素晴らしいものだったと回顧できる。だから、今は何も考えず眼の前にある衝動に正直になるべき」。

 

 とはいえ、そんな足元がおぼつかないロジックは自分ひとりの場合です。記事の冒頭でも書いたように虹ヶ咲は他者の存在が重要です。もし自己実現を叶えようとして転んでも、隣りにいてくれる他者がいてくれれば励ましてもらえることは2期12話でも言及されています。そんな優しさが虹ヶ咲には内包されているのです。

 

「2.5 虹ヶ咲の刹那主義的側面」 要約
衝動の肯定は刹那主義的。一種向こう見ずなだけかもしれなくとも、結果は素晴らしいものになると信じている。
未来とは今の積み重ねの先にあるものであり、その今を楽しく過ごせば必ず「よかった」と回顧できる。

「ふと振り返れば続く 刻んだ軌跡虹色 どんな瞬間もきらり True Stories」, Future Parade

2.6 「2. 個性の尊重」 まとめ

 ここまで虹ヶ咲が描く個性の尊重について書いてきました。一度ここで話をまとめておきましょう。

 

 まず声を大きくして主張したいのは、虹ヶ咲において衝動は何よりも上に位置づけられているということです。その人の個性を尊重するため、個性が最もよく表れる衝動という名の「したい」気持ちを肯定するのです。それは何者にも侵されず、されてはいけないと言っています。事実、1期3話で同好会のためという外発的動機づけによりスクールアイドルであることをやめようとしたせつ菜を認めませんでした。たとえそれが人のためだという願いであっても、自身の衝動を蔑ろにすることだけは容認しないのです。

 次に、虹ヶ咲は他者の衝動も肯定します。同好会の誰かが困っているとき、必ず誰かが背中を押し、衝動を行動として実現させる手助けをします。

 そして、虹ヶ咲の個性の尊重を語る上で絶対に避けられない1期3話の「ラブライブなんて出なくていい!」があります。これは、自分という人間の評価を他者から下されるのを嫌ったがゆえに出てきた言葉です。ラブライブという大会で、誰かに用意された尺度で計られるのを拒絶するのです。自身の価値を自身の外側から当てられる物差しで評価されるのを虹ヶ咲は認めません。私という存在の価値は私が決めるのです。

 自身の衝動を肯定し、自分を計る全てを投げ捨てた同好会は個人主義的な活動方針に舵を切ります。当然です。衝動に従い、自分を計る外的な基準が失われ、自分以外に頼るものなどないはずだから。それは自由の刑とも言える真っ更な荒野へ放り出されることと同義*4。作品を見ると気づくのは、同好会は他者の衝動を肯定こそしますが、道標は示しません。往くべき道は己が切り開かなければならないのです。

 そんな中で唯一の目的地は己の衝動――なりたい自分になる自己実現でした。衝動を肯定され彼女らが行うライブは個性が前景化した自己実現の姿です。自分のなりたい自分になる。これが、虹ヶ咲の個性の尊重でした。

 

 虹をモチーフにしたアニメで、数ある人の個性全てを尊重するという姿勢を貫き通した虹ヶ咲。それは1期11話でかすみんボックスいっぱいに詰め込まれたSIFへの要望、そしてそれを全て叶える姿が何よりも雄弁に語っています。ファンという存在をファンという集団として扱わず、個人の集まりとして描いたのがかすみんボックスです。ファン一人一人に望みがあり、個性があるのです。それを残さず尊重するのがSIF。これが同好会の集大成としてある美しさ。

 

 最後に、虹ヶ咲における個性の尊重についての所感に以前のブログで書いた文章を引用します(本稿用へ一部表記を修正しています)。巷では1期15話とも称される2期3話の感想文で書いたものになります*5

 

 既存の評価軸・他者からの期待に応え、自分を形成するのは人間社会を生きていく上で必要なことです。法律という取り決めであったり、文化という枠組みであったり、家族のしつけという小さなルール。これらを遵守することは自分の外側から要請され、人間はこのルールに従うような自分を作り出します。また、生徒会長のような立場の人間は清廉潔白なことが求められ、そう振る舞うこともある。このように、自分の外側から「こうあれ」と型にはめられる圧力がかけられ、演じることは生きているとままあることでしょう。そうすれば円滑に物事が進むからです。

 しかし、そうして出来上がった自分は本当に自分なのでしょうか?1期8話を見ればYESと言えるかもしれません。ですが、確実に押し殺した自分もいるはずです。押し殺してきた自分の正体、これは僕が以前から衝動と言ってきたものでしょう。

 作中では「正直な自分」と表されているこれ(衝動)を隠すことに虹ヶ咲は否定的です。2期3話では、作曲の課題で「求められる音楽」を作ろうと他者からの期待への応え方で悩んでいた侑。このアプローチを修正したのが九人の言葉。衝動に従ってきた彼女らから、「自分のやりたいことをやればいい」と背中を押されるのは説得力があります。このシーンを見て「ああ、僕の知ってる虹ヶ咲だ…」と安心感を覚えました。

「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」

 そして侑のこの言葉。これこそ虹ヶ咲の掲げる個性の尊重を最大限端的に表現したものでしょう。このセリフ、聞きながら泣いちゃいました。

 

 唐突ですが人間は何のために生きているんでしょう?先人たちが哲学的・自然科学的なアプローチから様々な答えを出してきたものだと思いますが、僕は「満足するため」だと思っています。快楽主義に属する考え方なのでしょうか。

 虹ヶ咲はこの問いに対し、僕と同じ立場を取っているものと捉えています。その上で、「満足」をするには何をすればよいか?という問いが生まれ、この問いの答えこそが自己実現に当たると考えています。終わることのない自己実現の欲求を充足させ続け、自分自身に満足し続けることこそが良い生き方であると言っている。

 虹ヶ咲におけるライブ――自己実現は自分に正直になった人間の姿です。それは、他者が定めた基準に適応するように「うそ」をついている自分ではなく、自分が真になりたい自分です。他者に依存せず、自分のやりたい気持ちだけが指針になる。つまり、自己実現という生きる意味を自ら創出できるのだと思います。

 生殖の結果、現象として生を受けた僕らにあらかじめ用意された意味なんてないと僕は考えています(それに対する考えが一般的にあることも理解しています)。そういう立場を取ったとき、他人の期待に応えたり、社会的に善とされる人間になることで自分の意味を獲得する手段もあるでしょう。しかし、そのような個性を潰した生き方をするよりも、繰り返し言うような自分が定めた目標へ走り自己実現を行うことの方が幸せなはずです。

 

 世界に一人しかいない自分が、その個性をもって自己実現を叶える。自分の生きる意味は自分で定める。だけど、自分の外側の視点を通して自分を見直すことで、新たに発見できる自分の価値があるかもしれない。これが僕から見た虹ヶ咲2期3話でした。

ro-puru.hatenablog.com

 

「高鳴ってく 自分の気持ちに ウソをつくのって すっごくむずかしいね」, La Bella Patria
 

3. 他者の存在

 これまで、虹ヶ咲は人の個性を尊重するアニメだと書いてきました。その中で、「私」という存在の価値を自分で定めるという、誤解を恐れぬ言い方をすれば他人に依存しない個人主義の性格が強い要素についても触れてきました。

 個人主義的な思想が見える一方で、この作品は自分以外の人間と関わりを持つことを同じ重さで称揚しています。「2.2 他者の肯定」で、スクールアイドルは他者からの肯定を必要としていると書いたこととも繋がります。この章ではそのことについてさらに書いていきましょう。

 

3.1 スクールアイドルとファンの関係

 スクールアイドルとファンの関係は、虹ヶ咲において特筆すべき要素です。もっと言えば、スクールアイドルとは何か?ファンとは何か?まで作品内で言及されています。スクールアイドルにとってファンは必要不可欠なものであり、多くの場合、ファンの存在なくしてスクールアイドルは一人で立つことができません。本節では、このことについて考えていきましょう。

 

 やりたい気持ちを我慢する、他者のため自分の気持ちを犠牲にする、変化を恐れる、能力の欠如に苦しむ、拒絶されるのを恐れる。前章でも言及しましたが、何かを始めるのには十人十色の壁が生じ得ます。それらを打ち破り、新しい世界へ踏み出すのは大変なことです。きっと、多くの人は自分だけで壁を乗り越えるのが困難で、同好会の面々もそれは同じでした。

 そのため、彼女らの多くは自分の外側――他者に背中を押され、その手から伝わる力を推進力として自らのしたいことをし、なりたい自分へなっていきました。背中を押してくれた他者、それをこのアニメではファンと呼んでいます。そして、背中を押すことを応援(エール)と。スクールアイドルは一人で動けなくともファンに応援され、それを前へ進む力とし輝く存在として描かれています。

 1期12話まではスクールアイドルが応援される側、ファンが応援する側に置かれる構図ができあがっていました。それが1期13話では逆転します。つまり、スクールアイドルが応援する側へ、ファンが応援される側へ転置されます。「夢がここからはじまるよ」のライブ前に応援の能動と受動が逆転しているのが分かりやすいですね。いつも応援してくれる「あなた」へ向けた恩返し。今度は、今まで応援してくれた「あなた」が何かを始める番だと言っているのです。

 

 さらに触れておきたいのは、関係の双方向性についてです。関係の双方向性というのは僕が勝手に言ってるだけの言葉ですので、順を追って説明します。
 まず、関係とは、スクールアイドルとファンを繋ぐ応援のことです。これが双方向であると言っています。さらに、双方向という語を用いたのは、スクールアイドルから送られる応援とファンから送られる応援が等価だという含みもあります。つまり、スクールアイドルとファンは応援によって繋がれ、この応援はどちらの側から送られていても同じ行為だということです。1期12話までのように侑が同好会の面々を応援したことも、1期13話で立ち位置が逆転し同好会の面々が侑を応援したことも、どちらも頑張る・頑張りたい相手へ向けたエールで、そこに違いはないという考えです。

 

「3.1 スクールアイドルとファンの関係」 要約
虹ヶ咲では、背中を押してくれる他者を「ファン」、背中を押すことを「応援」と呼んでいる。
ファンから送られる応援も、スクールアイドルから送られる応援も、違いはない。

「あの日受け取った勇気 時を超えて今 送りたい 私からも」, 夢がここからはじまるよ

3.2 拡張されるスクールアイドルとファンの枠組み

 上述の考えを発展させてスクールアイドルとファンについてさらに見ていきましょう。上ではスクールアイドルとファンから伸ばされる応援という矢印に注目してきました。次は応援という矢印を伸ばす両者自身についてです。

 ここで注目したいのは、スクールアイドルがファンの立場にもなれることです。「夢がここからはじまるよ」でスクールアイドルはファンを応援する側に回りました。つまり、スクールアイドルがファンのファンになった。このように、虹ヶ咲ではスクールアイドルとファンという立場は流動的で、その時その時によって個人が属する立場は変化していきます。「2.2 他者の肯定」でも書いたように、1期8話でしずくを応援するかすみなどは分かりやすい例として挙げられるでしょう。あのエピソードでは、かすみはしずくのファンとして、しずくを応援する立場に回っています。

 これが何を言っているのか。僕はファンという概念が拡張されているのではないかと考えています。客席に立ち、ステージ上の人間を応援する存在だけがファンなのではなく、他者を応援する人々の全てがファンであると虹ヶ咲は言っています。

 

 そこで、スクールアイドルの概念も拡張されているのか?つまるところ、侑はスクールアイドルになったのか?という疑問が浮かび上がります。なった、が僕の答えです。ならば、拡張されたスクールアイドル概念とはなにか。その定義を一意に定めるのは困難ですが、僕の考えを書いていきましょう。

 狭義のスクールアイドルは、ステージ上に立ち、歌って踊る存在を指しました。そして2期を通じ拡張された概念が僕らに提示されます。SIFと文化祭の合同開催は目を留めたいところですね。狭義のスクールアイドルが先頭に立ちライブを行うSIFと、学校の生徒(客席から声援を送る狭義のファン)が各々のやりたいことをする文化祭が並立して開催されるというのです。これが意味するところは、スクールアイドルのライブと、生徒の出し物に違いはないということでしょう。少し話が飛躍してしまったかもしれませんね。そこで、2期6話で合同文化祭の開会にあたって流れた映像を思い出してほしいです。そこでは、開催に向け準備を進めるスクールアイドルと、一般生徒の様子が何の別け隔てもなく映されています。あの映像ではスクールアイドルも一般生徒も同じ存在として描写されているのです。

 つまり、あの催しを通して読み取りたいのは、スクールアイドルのライブも、流しそうめん同好会の流しそうめんも、その他様々な出し物も、全て等しいということです。どれも各々がやりたいことを実現した産物であり、個性を表現したものに違いがありません。拡張されたスクールアイドルとはまさに、自らの個性を表現する全ての人々を指します。

 「2. 個性の尊重」で書いたことと対応させるなら、自分の衝動を我慢せず、自己実現及び、自己表現する人間広義のスクールアイドルと扱うのです。劇中では明言されていませんが、2期8話、2期13話でステージに立つ侑はスクールアイドルと言えるのです。翻って、自己表現の手段がステージ上で歌って踊る存在のことを(狭義の)スクールアイドルと呼ぶのです。

 

「3.2 拡張されるスクールアイドルとファンの枠組み」 要約
虹ヶ咲では、自己表現をする人々を「スクールアイドル」、誰かを応援する人々を「ファン」と呼ぶ。さらに、一人の人間が、自己表現をするスクールアイドルにも、誰かを応援するファンのどちらにもなれることが描かれている。

「Take your hand out, we can reach」, stars we chase

3.3 自己を表現する

 虹ヶ咲における自己表現は、自身の存在を世界に発信することが目的にあります。素晴らしいライブ・演奏をして他者からの評価を得るためではなく、ただ純粋に、自分を世界に表現することが。

 2期3話のラストの侑のセリフ――「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」から僕はそう読み取りたいです。

 当然ながら、僕らという存在は過去未来に渡ってこの瞬間にただ一人しか存在しません。ある評価軸で見れば誰かの下位互換かもしれない。でも、決して同じ人間は世界にいません。そんな僕らがただ寿命を迎えひっそりと消えゆくのは余りに寂しいことではありませんか。せめて、この世界に自分の存在を示したい。そんな願いが自己表現なのではないでしょうか。彼女らのライブ・演奏は彼女らにしかできないもので、それだけできっと意味があるものなんです。

 

 自分を全力で叫べばきっと誰かに届く。良いとか悪いとかではなくて、トキメキを届けられる。自分のやりたいことへ突き進む姿に価値があるから。この叫びが誰かに届くことで、作品内で綿々と紡がれてきたトキメキの連鎖になるのです。

 侑は広義のスクールアイドルに含まれます。彼女の自己表現は2期13話でファンへトキメキを届けました。トキメキとは、全霊をかけ自己表現するスクールアイドルを見て、自分もそうしたいと思う衝動ではないでしょうか?トキメキを受け取って始めた自己表現が、今度は誰かの元へ届く。その連鎖が、この作品の根本にあるよう思われるのです。

 

「3.3 自己を表現する」 要約
この世界に一人しかいない私を世界へ叫ぶために自己表現をする。きっと、それ自体に価値があることだから。

「届け!届け! 地球の果ての果てまで 響け!響け! 私色の瞬きが溢れてる」, Poppin' Up!

3.4 個性が絡み合う

 それぞれが自己表現で自らの個性を発信し、それらが有機的に絡み合うことで生まれる作用もあります。SIFのことですね。みんなが一歩踏み出して個性を表現するみんなの夢を叶える場所、個性という名のみんなの大好きが集まる場所。

 一人で自己表現をするのも幸せなことに疑う余地はないでしょう。SIFはさらに、みんなと一緒にそれを行う楽しさが生まれる場所でもあると思うのです。トキメキの連鎖の集大成としてたくさんの大好きが集まる。それって、個性――たくさんの色が虹を作ることではありませんか?まだ自分の衝動を見つけられない・認められない誰かがその虹を見ることで、また次のトキメキが生まれるかもしれない。

 一人でも楽しい、だけどみんなとならもっと楽しい。それを体現するお祭りなんじゃないかって僕は思います。

 

「3.4 個性が絡み合う」 要約
みんなと一緒だと支え合うことができる。一人よりもみんなと一緒ならもっと楽しい。きっとこれはロジックではない。

「Vividな世界 ねぇ どうして 一緒だったら 心はずむの」, VIVID WORLD

3.5 繋がりは物理的な距離を越える

 トキメキを共有し、応援を送りあった関係は物理的な距離を越えます。2期12話でこのことは言及されていて、将来離れ離れになったとしても、背中を押してもらった手の温もりは残るのです。

 抽象的な話に移れば、「Future Parade」で「夢の虹は いつも 胸の中 僕ら繋いでるから」と歌われているのも引用したいです。「3.4 個性が絡み合う」で一人一人の個性が持つ色が集まることが虹だと書きました。これに表現を付け足すと、SIFは虹が始まる場所です。「Future Parade」のイメージは、SIFで発生した虹色の一点から、放射状に各々の色が各々の向かう場所へ広がっていき虹を架けるものです。

 図にしてみました(OfficeのライセンスがないからGoogleパワポで作ろうとしたらだいぶ使いづらかった)。イメージとしてはこんな感じです。SIF(虹が始まる場所)では一箇所に集まっていた個性たちが、それぞれの辿り着きたい場所へ向かっていったとき、必ず離れ離れになってしまいます(侑と歩夢のように)。ですが、それで虹が消えることはありません。

 

 「Future Parade」について、劇中から読み取ったことではなく、完全に願いを書きます。

 自分のなりたい自分を追いかけ、いつかバラバラになったとしても、同じ虹を架けていることはこれからもきっと変わりません。同じ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会という一点から出発して円弧を描く色たちだから。むしろ、前に進むにつれ個性・色は強まっていき、より鮮やかな虹を架けるかもしれない。たくさんの色が歩んだ軌跡を虹と呼ぶのかもしれない。その虹を見て、新たなトキメキが生まれる。SIF、もっと言えばSIFの発端となった同好会はまさしく虹が始まる場所なのでしょう。

 

「3.5 繋がりは物理的な距離を越える」 要約
いつか離れ離れになっても、繋がりは消えない。

「昨日とは違う 風が心を締め付けるけど 思いは繋がってるから」, Awakening Promise

3.6 「3. 他者の存在」まとめ

 自己表現を行うにあたり、背中を押してくれる他者の存在の必要性について虹ヶ咲では描かれていました。手を引くではなく背中を押すという表現を使っていることには意図があります。「2.6 「2. 個性の尊重」 まとめ」でも書きましたが、虹ヶ咲では自分の夢は自分で見つけるものだと言っています。「TOKIMEKI Runners」の「きっと夢だと決めてしまえ」にある通り。それは、虹ヶ咲において目的地とは衝動に従いなりたい自分になることだから。誰かに行き先を決めてもらうのではなく、あくまで自分で定めた目的地への推進力としてファンから背中を押して貰うことを描いているのです。

 ですが、他者の存在により目的地に影響を受ける場合もあるかもしれないことも描かれていました。本稿では触れませんでしたが、2期3話の合宿のことです。自分以外の視点を取り入れることで新たな自分を知ることができるというエピソード。新たな自分の個性を知り、それを加味した上で目的地の再設定が生じるかもしれない。劇中では、個性の混ざり合いにより新しい自己表現の形が生まれましたが。これらのような意味でも、他者は必要な存在として扱われています。

 また、夢を追いかけ自己実現する姿を表現するのは、自分の存在を叫ぶため。それ自体にきっと意味があるから。自己表現する自分を見た誰かにトキメキを届けられるかもしれないから。もし誰かにトキメキを与えられたなら、それが虹の咲く種になるのです。

 同じ同好会という場所、もしかしたら大好きを追いかけるという共通点さえあれば、同じ虹を架けられるのかもしれません。虹を架けるのに距離は意味を無くし、応援を送り合う関係は途絶えること無く、永遠に繋がり続けるのでしょう。

 

「キラキラ繋がって 虹色があふれる 出逢えた奇跡は 何より宝もの」, Love U my friends
 

4. おわりに

 最後に願いの文章を書いていきます。アニメ範囲外の事柄に触れます。

4.1 虹ヶ咲の青春観

 この作品は青春がいつか終わるものだと自覚的です。「永遠の一瞬」、「Hurray Hurray」、及び2期11話が顕著だと思います。いつか繋いだ手を離さなくてはいけない。今がとても楽しいから、その時間に限りがあることが怖い。

 将来のことなんて分からないし、今以上に楽しい時間がくるかも分からない怖さもある。けれども、この青春という時間は必ず自分の過去の中で光る宝ものになる。今この瞬間を最高にし続ければ、寂しいだけじゃない未来が待ってると信じてるから。今できるのは今を楽しくすることだけで、これからのことに思いを馳せるより今を大切にしたい。同好会の仲間は、共に過ごした日々は、いつまでも消えない繋がりと思い出になる。2期で飾られていた第一回SIFやしずく邸での写真のような、その一瞬が消えない繋がりに、思い出になる。

 そんなことに思いを巡らせて、「もうちょっと感じていたい この永遠の一瞬を」に至るのが虹ヶ咲の青春観なんじゃないかな、と僕は思います。

 

4.2 感想文

 媒体としてのアニメの強さを感じられる作品でした。セリフに多くの直接的なメッセージを込めなくとも、物語で、画面で、歌で多くのことを表現できる。虹ヶ咲は受け手に解釈を委ねる余地がある箇所も多い作品ですが、それでも、制作者が伝えたかったことは間違いなく伝わったと思います。オフィシャルブック2で言及されていたお話を見るにこれは間違いないはずです。

 

 さて、制作者の意図は置いておいて、生き方…もう少しスケールを小さくするなら日々の過ごし方について考えることが多い作品だったとも思います。僕はアニメ虹ヶ咲に強く共感したためここまで好きになりました。

 まず、自分の好きなことを貫いていいんだという激励。劇中では徹頭徹尾このことが叫ばれていました。どんな障害があったとしても、自分の衝動――やりたい気持ちだけは阻害されない、目を逸してはいけない、と。2期6話では、たくさんのやりたい気持ちに迷ったら、全てやってしまえ!とも言われました。

 上手くできないかもしれない。もしかしたら誰かの下位互換にしかなれないかもしれない。でも、自分という存在だけは代替不可能で、唯一無二なんです。他の誰に否定されようと自分の価値だけは自分で認めて良いんです。自分をもっと好きになるべきなんです。

 自分の価値を認められるようになったなら、きっと自分を叫びたくなる。私はこういう人間で、大好きなものがあると。その表現方法は問わず、同好会のように歌や踊りでもいいし、侑のように音楽でも、文化祭に参加した多くの「あなた」のようにその手段に制限はありません。もしかしたら、自分の自己表現に惹かれた人と新しく繋がりが生まれるかもしれない。そうして繋がる人が増えていったら、もっと自分を叫びたくなる。トキメキを響かせたくなる。

 みんながみんな自由に自分の好きなことに夢中になって、それを発信する。それを肯定し、応援してくれる人に囲まれて、自分も誰かを応援する。理想論かもしれないけれど、それって素敵な世界(ワンダーランド)ですよね。

 

 

「この世界でたった一人だけの私を もっと好きになってあげたい」
「この世界中の 全員がnoだって言ったって 私は 私を 信じていたい」, 無敵級*ビリーバー

*1:OVAでもアイラに迫っていましたね

*2:正確には、ラブライブで優勝したその先の結果を追いかけていたのが過去シリーズですが

*3:これが衝動を肯定する一種の誘因(incentive)とも考えられる

*4:サルトルの言う自由の刑には自由さの中で己に加え、人類を決定する責任についても含意されていますが、虹ヶ咲はそこまで言及していません

*5:1期で中心的に扱われた個人の自己実現を描ききった話数として15話と呼ばれている…はずです