釣り堀

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虹ヶ咲ではなぜライブをするのか

 今回はタイトルの通り、虹ヶ咲のアニメで彼女らはなぜライブをするのかを考えてみようと思います。今まで自己実現をキーワードにアニメを見てきましたが、それは心の内側の方へ関心を向けた考え方で、なぜライブのような外側へ向かった行為が行われるのか不明瞭でした。自分自身で満足できればそれでいいという考え方では、ライブを始めとした自己表現を行う意味が説明できないからです。

 これは単に1期の内容を2期にまで適用させようとした結果生じた歪みでしょう。1期には1期のメッセージがあったように、2期には2期のメッセージがあります。当然、2期では1期とまた別な主張を読み取らなければならなく、できるのであれば1期+2期を貫く包括的な見方を確立したいと思っています。今回はそんな試みのスタートになるような記事になります。

 初めに逃げるようなことを言っておくと、ここで書くことは暫定的な考えです。同時に、いつかまたアップデートした内容を構築することの宣言でもあります。


1. 前提を定める

 記事を書くにあたり、前提となる考えを提示したいと思います。これらの前提を出発点とし、なぜ彼女らはライブをするのかまで辿り着くことを目標としましょう。

 

前提

① 人間は生得的な意味を所持していない(それは、自分で獲得していく)
② 人間には自由意志が存在する
 
1.1 人間は生得的な意味を所持していない

 この話題については以前も触れたことがあります。僕がこう考える根拠はやはり1期3話にあります。「ラブライブなんて出なくていい!」を極限まで拡大解釈すると、人間の意味・価値を自分の外側から与えられた型に当てはめて計ることの拒絶になるでしょう。

 第一義には信仰を脱ぎ捨てることになるかもしれません。センシティブな話題ですし、記事の主題ともズレるのでこれ以上は言及しませんが、そういうことです。その他にも、例えば家業の跡継ぎになることを期待され生まれてきた長男は、両親からその役割を全うすることを望まれ(意味を付与され)ますが、そういったものも破り捨てる姿勢です。敷衍した言い方をすると、「人間の価値は自分で定めていくもの」となります。

 

1.2 人間には自由意志が存在する

 ①で「人間の価値は自分で定めていくもの」と言いました。それを真の意味で実現させるためには人間の自由意志を認めたいところです。外側からの力で動かされている存在ではなく、舗装されていない真っ更な荒野を自ら進んでいけるのでなければ”自分で(主体的に)”定めていくと言えないからです。

 ①と同様に②も前提として据えたのは、両者ともなぜそうなのか説明が困難だからです。もしかしたら僕以外の誰かに任せれば答えを出してくれるかもしれませんが、僕には荷が重い問題ですね。

 

補足:浅学であることを自覚しながらも、僕は人間に関して決定論の立場に近い人間です。まず、宇宙が始まったときから物理法則に従ってこの世界は発展してきました。斜方投射を行う際、初期条件を与えればその軌道が予測できるように、ビッグバンの時点で今後の世界の在り方は予測され得るもののはずです。ただし、量子力学の世界では実現される状態が確率的に(かつ連続な関数で)表記されることにより、予測の数は無限大へと発散すると思われます。ならば世界は非決定論的であるとも言えそうです。しかし人間の一生に関しては、初期条件を与えれば生を全うするまでの短い時間程度なら予測可能(生まれた瞬間に定められている)そうではありませんか?このときの初期条件とは遺伝子・家族・近隣住民・国家・時代 etc...と多くの因子を含むため一見ランダム性を保っているように見えますが、本質は斜方投射とそう変わらないはずです。古典力学の理論に斜方投射の軌道が”正確に”支配されるように、人間の行動も概ね一本道を辿っていくと僕は思うのです。その道のりに微視的なブレがあったとしても、人間にとってさほど大きな意味を持つことはないでしょう。人間の眼という巨視的な視点で見れば、僕らは生まれた瞬間からどんな人生を送るか決まっているのではないか…と僕は思わずにはいられないのです。…ただ、脳の中で量子力学的な働きが僕らの行動にどんな影響を及ぼすのかなど考えることもあるでしょうが。

 

 どちらかというと、この前提は僕の希望です。人間は自由意志を持ってその生を世界に刻んでいけるんだ、という。入力に従って決められた出力を返す現象とは違う、東から風が吹けば西を向く風見鶏とは異なる存在であると信じたいのです。僕らの行動を規定できるのは物理的な制約(壁があれば直進できないように)のみであって、それだけなのです。今どちらかの手を上げようと思ったとき、僕が左手を上げたのは僕自身が選択したからであり、右手を上げることもできたのです。

 

 少し無理をすればアニメ本編からも自由意志の存在を称揚する描写を見つけることが出来ます。詳しくは後述しますが、このアニメは”自分自身で(主体的に)”選択することを重要視しています。自分の外側の要因に原因を押し付けるのではなく、自分が自分で選ぶことを良しとしているのです。これは間接的でありながらも自由意志の存在を認めていると取ることが可能です。

 

 ここで、ホメオスタシスや反射のような生理作用は意思が介する余地がないため自由意志の外側とします。また、睡眠・食事・生殖などの行為は人間という種に生まれたため発生する欲求からくるものですが、実行するか否かは選択可能なものなので(睡眠は難しいかもしれないけれど)自由意志に基づいた行動とします*1フロイトは全く分かりませんが、無意識の行動があるとするなら、それも一緒に自由意志の外側にやっておきましょう。

 とういうことで、「行動」という名前の全体集合から範囲を絞って残留した集合を「自由意志」とすることにしました。しかし、人間の行動は非決定論的な立場をとっても、定められた方向に舵を切られ得るものだと考えられることがあります。自分の外側からくる力によって進む道が律せられる場合ですね。「状況の力」と呼ばれたりします。例えば目の前に銃を突きつけられ服を脱げと命令されれば従わざるを得ないでしょう。ですがここで服を脱ぐのは明らかに意思を介した行動であり、上述のロジックに従えば自由意志に基づいた行動です。その他にも同調圧力や、μ'sやAqoursであれば廃校の危機を免れるためグループ一丸になる必要があったなど、強い状況の力に後押しされた行為も全て自由意志によるものだと言い切ってしまいます。厳しいですね。

 そういう意味では外側からの圧力により1つになる必要があった先述の2グループと、廃校の危機などない虹ヶ咲の彼女らが自由にソロアイドル活動をしているのも本質的に同等となります。どちらも主体的な選択によって実現されたものであるから。虹ヶ咲の舞台設定が特異なのは、彼女らの行為に、より”言い訳”ができない状況になっていることでしょう。

 

2. 自分の意味を獲得するということ

 生得的な意味を持たない人間という存在は、生きていく中で自分の意味を獲得していくことになります。

 そして、自分の価値を計るのは自分自身です。「ラブライブなんて出なくていい!」から自分の外側にある評価軸を全て放り投げ、生得的な意味すら脱ぎ捨て、何もない自分を計るのに自分しかいないのは当然の帰結です。

 では意味・価値を獲得するとはどういうことなのか。これは以前から主張してきた自己実現をするということです。

以前にも書いて、有名な概念でありますので改めて説明はしません。自己実現は欲求階層説において最も高位な――本能から離れた欲求です。言い換えれば、この欲求を満たす行為は最も自由な、最も”言い訳”が効かぬ自由意志に基づいた行動です。

 人間の自由意志による行動は全て「・・・をしたい」という欲求からくるものです。それを端的に表し虹ヶ咲アニメを見る際に有用な道具が上図なのです。全ての行動に動機付けが行われるなら、自分の意味付けをするのは自己実現欲求を満たすものです。生理的欲求を満たす行動が自分を価値付けると言い切るには疑問を抱いてしまいますからね。

 

 では自己実現とは何か。これは常々言ってきたように、「自分が満足できる自分になる」ことです*2。僕は自分の価値を創出していくこと――自己実現は自らの満足を指針していると考えています。だからこそ、マズローの欲求階層説を借用し、価値を獲得することと自己実現の欲求を結びつけているのです*3。”教え”や”レール”を捨て、真っ更になった自分には道標とする標識すら残りません。どうすればいいか自由意志によって決めなければならないからです。この荒野で迷う様を描いたのが1期4話であり、その答えが「楽しい(=満足)」を指針にするものでした。

 今ある自分を超え、新たな自分を創出していくこと。スクールアイドルとして、より納得できる自分を選択し、そこへ向かって努力すること。「超えたい、私を。」なんですよね。キャンバスに色を重ねていくように、人間も瞬間毎に形を変え絶えず意味を創り出します。

 

3. 責任の所在

 「なぜライブをするのか」からは脱線しますが、書いておきたい事柄です。先験的なあらゆる指針を無視し、自分の満足のみを行き先とした行動の責任は全て自分が負うことになります。当然ですね。上司の言いつけを守って失敗すればその責任は上司のものとなりますが、その言いつけをどこかに置いてきてしまったのが彼女らスクールアイドルなのだから。

 同時に、人間へ普遍的に当てられるべき尺度を捨てた彼女らは他者を評価することもできません。自分たちがルールを無視しているのに、他人がルールを破ることを糾弾できないようなものです(少し違うか?)。自分たちが持っている物差しは自らを計るために創り出したものなのに、それを他者に当てることは不可能でしょう。できるのは、その人が自分の行動に責任を負っているか 0 or 1 の真偽判定だけです。

 

 自分の行動に責任を負っていない――偽の場合が作中で描かれています。例えば1期3話あたりの親や周囲の期待に応える形で生徒会長の任に就いていた菜々。または、2期8話で「今の時点で同好会のみんなが喜んでくれる」と妥協しそうになった侑。これらの例は自らの自由意志による決定に他者を”言い訳”に用い、責任を他者に丸投げしています。その選択すら自由意志によるものであるはずなのに、あたかも外からの力に強制されたかのような姿勢は偽として扱われるのです。いずれの場合もその在り方は”作品から”肯定的に描かれていませんでした。もしかしたら、1期7話の「彼方を心配して」とスクールアイドルをやめると宣言した遥すら偽になるかもしれません。

 逆に、生徒会長の役職が”大好き”の内に入り、そのポジションを続けることを主体的に選択したせつ菜は肯定的に描かれます。他者のために行動するかが真偽判定の要ではなく、他者に行動の責任をなすりつけているかが重要なのです。ですから、他者のために働きかけることを是とした栞子や、互いに支え合うことを主体的に選んだ近江姉妹が肯定されるのです。

 

4. ライブをすること

 ようやく本題ですね。スクールアイドルは自分自身が満足できようになれば良いと言いましたが、それはどこまでも自己完結的です。この結論はアプローチこそ違えどこれまで書いてきた記事で主張してきたことと相違ないもので、自分の外側に向かって自分を主張する意味まで言及していません。

 

 スクールアイドルは自分を自分自身で計るものだと言いました。じゃあ、どうやって計るのか?方法の話です。きっと、自分の中に観念的な他者を生み出し、その眼を通して自分を見つめることで評価するでしょう(自分の目は自分で見られないから、他者の眼を通す必要がある)。(物質的な)ガラスの鏡においても、鏡を見つめる自分(A)がいて、鏡に映る自分(A')がいるとき、自分はA'の立場に立って鏡の前に立つAを見ます。A'はつまるところ他者です。ここでも他者を通して自分を見ていると言えそうです。言いたいのは、なんであれ自分を評価するには「他者の目」が必要ということです。ということは、自らが価値を創り出した自分を他者の前に晒す必要があります。その機会こそライブなのです。観念的に創り出した他者とは違う、実体を持つ他者です。

 自分が確かに存在するから、同様に目の前の他者も確かに存在する。視点を他者に移せば、他者が己の存在を確かなものと信じ、僕を承認するから僕も確かに存在する。だから、自己実現した自分を承認してもらうため――自分の内的世界を破り外の世界へ進出するためにライブをするのかもしれません。

 しかしながら上述したように、人間は他者を真偽でのみしか計ることができません。だからこそ、というには結論を急ぎすぎているかもしれませんが、同好会の彼女らはお互いに自己実現をしている自分たちを肯定し合うのです。なぜならステージに立つ彼女らの在り方は真だから。逆に、ランジュ・栞子*4の元へ押しかけ、在り方の修正を望んだのは彼女らが偽だったからかもしれません。

 

 他に理由を考えるなら、人間は行動という外の世界への働きかけをすることで初めて意味を持つからかもしれません。

 再び人間をキャンバスに例えてみましょう。絵を描く時にキャンバスへどんな色を乗せようか様々な可能性が浮かぶことと思います。ですが、いくら頭の中で色を塗り絵を完成させても意味がないだろうってことです。キャンバス(スクールアイドル)として価値が計られるのは実際に乗せた色によってなのです。これは自分自身で満足するとしても、実在する他者の眼を通すとしても変わらないのでしょう。キャンバスに色を塗るのは人間でいう”行動”にあたります。行動し、己の自由意志を外へ発露させることにより価値が発生する。これがライブ(自己表現)なのかもしれません。

 

 この考え方ならば、自分の価値を自分で決める閉じた世界観を保ちつつ、ライブをする開けた世界観への接続ができる…かもしれませんね。

 

といった具合です。

 

5. おわりに

 4. に書いたことは自分でも結構うーんって感じです。でも記事を書くタイミングが今しかなったので文章にしてみました。分かる人にはバレると思いますが、この記事はある人間の影響を受けています。これまで書いてきた記事の考え方と似ていたので参考にさせてもらいましたが、何より言ってることが難しいので正直よく分かってないです。

 この記事を書くにあたり勉強していく中で、他にも考え方に触れてみたい人物が出てきたり、参考にした人の考え自体ももっと分かりたいと思ったりまだまだ道半ばです。主観-客観あたりの考え方はもう少し知見を広げたいですね。後は人間は社会的な生き物なのでそういう見方とか。他に”自己実現”、”自己超越”などのキーワードについてももっと知りたいです。ガッツリ勉強の時間をとるのは難しいかもしれないけれど、少しずつ進められたらいいかな。

 

それでは……。

 

 

*1:詳しくないけれど、脳を介するか否かで判定可能なのかな?

*2:「満足」の語は2期3話でしずくから侑へ向けられた発言から取っています

*3:人間は根源的に己の意味を求め、結果として満足を求めると言う人もいますが

*4:もしかしたら1期6話の璃奈