釣り堀

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誰かに向けた応援歌――『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』1期+2期感想文

 

1. はじめに

 虹ヶ咲2期が終わり、ユニットライブを経て、気づけば虹ヶ咲2期1話が放送されてから既に1年以上が経ちました。その間に僕も学生から社会人へと身分を変え、時の流れを感じずにはいられません。今回は、そんな一年前に放送されていた虹ヶ咲2期についての感想文を書いていこうと思います。書こう書こうと思って先延ばしにしていたら、こんなに時間が経ってしまいました。

 2期の感想とは言いましたけれども、書きたいテーマを考えるとそれは1期から地続きにあるもので、1期の存在を無視することはできません。ということで、実際にはタイトルにある通り、本稿は1期+2期の感想文になります。

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 二年前に書いた1期の感想文があるのですが、大筋はこちらへ乗りつつ、さらに2期で得られた考えを加えていく形にしていきます。1期の感想文の内容は今回の記事でほとんどカバーしていくので読まなくて問題ありません。この記事単体で僕のアニメ虹ヶ咲観を一から伝えられればと思います。本稿の狙いは、第一に僕が僕のために考えをまとめることがありますが、もう一つ、「虹ヶ咲のアニメを見たけれどよく分からなかったな」という感想を抱いたオタクへ一つの見方を提供することを目標にしています。

 

 アニメ虹ヶ咲では「個性の尊重」「他者の存在」がテーマのコアにあり、二つを両輪にして物語が展開されました。本稿では、この二つの要素を中心にアニメ虹ヶ咲から読み取れたことを書いていきます。長くなりますがお付き合いいたたければ嬉しいです。

 

 以下では特に断りが無い限り、アニメの要素のみを取り上げていきます。ゲーム、書籍等の他媒体とは切り離して進めていくので、その点はよろしくお願いします。

 

2. 個性の尊重

 虹ヶ咲の特色を一つ挙げるなら、僕は「個性の尊重」を選びます。この作品に惹かれた大きな理由であり、虹ヶ咲の根幹を成す要素です。特に1期でフォーカスされ、丁寧に描かれた部分ですね。

 本章では、虹ヶ咲がどのようなアプローチで個性の尊重を描いていったのかを書いていきましょう。先に結論を一言でまとめるなら、「その人のやりたいことを応援する」になります。

 

2.1 衝動の肯定

 個性を尊重する虹ヶ咲の姿勢が最も顕著に表れているのは、その人が内に抱く衝動を肯定するところにあります。印象的なシーンを挙げれば枚挙に暇がないですが、特に1期1話で歩夢が放った「動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」を引用したいです。

 スクールアイドルを始めたいという衝動を抱き始めた歩夢は、それを制することは許されないと言っています。肯定というには強すぎるこの言葉は、自分自身の衝動に従うことを認める――正確には衝動に従うことをmustとする思想を虹ヶ咲が内包することを示しています。自分が本当にやりたいことをやれ、この思想は個性を尊重する姿勢そのものでしょう。

 

 とは言ったものの、なぜ衝動に身を委ねるのを認めれば個性の尊重になるのか。そのために、本稿における「衝動」という語の定義を説明しましょう。端的に、本稿で使用される衝動とは内発的動機づけの換言です。

 もう少し詳しく述べてみましょう。まず、人間の行動は全て、「何かをしたい」という動機づけ(motivation)に従って行われます。音楽を聴きたいからライブに行くとか、寂しい思いを紛らわせたいから友人と会うとか、お腹が空いたからご飯を食べるとか、歩き疲れたから椅子に座るとか、座っていたら足に不快感があるから足を組むとか、目が乾燥してきたから瞬きをするとか。意識しているかどうかの如何によらず、人間が何かをするのには必ず動機づけ(=理由)があります。

 そして、内発的動機づけとは、己の関心により生まれる動機づけです。敷衍すると「自分がそうしたいから」という気持ち。誰に強制されたわけでなく、没頭したところで利得があるわけでもなく、ただやりたいから熱中する趣味は内発的動機づけによる行動の最たる例でしょう。

補足:内発的動機づけとは、動機づけの分類の一種です。この概念の対に外発的動機づけがあります。外発的動機づけの詳しい説明は省きますが、簡単に、内発的動機づけ以外の動機づけと理解して良いでしょう。つまり、「したい」という気持ち以外の動機づけです。外発的動機づけによる行動は、結果的に達成したい目的が据えられているのが特徴です。例えば、お金が欲しいから仕事を頑張るとか、親に怒られたくないから勉強をするとか。翻って、内発的動機づけ、すなわち本稿における衝動は、それに従って為される行為自体が目的になります。趣味をしたいから趣味をする、など。

 簡潔にまとめます。「したい」という気持ちが内発的動機づけであり、本稿における衝動です。

 

 話を戻します。「したい」そのものである衝動を肯定することがなぜ個性の尊重になるのか。ここで、再び1期1話から「ピンクとか、可愛い服だって…今でも大好きだし、着てみたいって思う!自分に素直になりたい!」というセリフを引用したいです。これは歩夢の衝動を吐露する言葉ですね。可愛い服を着たい衝動、それを肯定した姿がすぐ後に披露される「Dream with You」の衣装でしょう。

 つまり、衝動が行動という形で自分の外側――この世界へ発露したとき、その姿は個性で彩られているのです。表現を変えましょう。個性とは、衝動によって為される行為の中に存在するのです。服の例は非常に分かりやすいと思います。自分の好きな服を着たいという衝動が世界に表出したとき、それは個性そのものなのです。

 もう少しこの話題で踏み込んでみましょう。侑から衝動を肯定され、自身でも己の衝動を肯定した歩夢はライブをしました。その姿は歩夢の個性そのもの。ゆえに、虹ヶ咲におけるライブとは、自身の個性をいかんなく表現する行いと言えます。2期8話の言葉を借りれば「自分を表現すること」。スクールアイドルのライブとは衝動を肯定した結果であり、個性が前景化した自己表現の姿なのです。

 

 作中のほとんどの人物は自身の衝動にストップをかけ、そのストップを破壊する手助けに他者から衝動を肯定されています。他者から衝動を肯定された登場人物は、次に自分自身で衝動を肯定しライブを披露します。分かりやすいのは、1期1話の歩夢以外に、1期3話のせつ菜、1期5話の果林、1期8話のしずく、そして2期7話の栞子あたりでしょうか。名前を挙げた彼女らは自身の衝動にストップをかけており、それぞれ、周囲に迷惑をかけることへの忌避感、自己を規定した枠組みから出ることへの足踏み、本当の自分を出すことへの恐怖、後悔することへの憂懼など、様々な理由から衝動の肯定を避けていました。

 衝動を制止しようとするこれらの理由――動機づけは内発的動機づけの衝動ではありません。悪い状況に陥ることを避けたいという外発的動機づけです。確かに、望ましくない状況から逃げようとするのもその人の選択に間違いありません。しかし、虹ヶ咲が肯定するのは衝動のみです。衝動を押さえつけ、他の道へ歩みを進めようとするのをこの作品は許容しません。「動き始めたなら、止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」。初めから、この姿勢は貫かれているのです。

 この作品が外発的動機づけにより衝動に蓋をするのを認めない強硬な思想を有しているのが見られるのは、特に1期5話・2期2話及び3話のエマ、2期7話の同好会などがあるでしょう。エマは非常に顕著な例で、相手が衝動を我慢していると察知すると、強引さをもって本心を開示するよう対峙します。また、2期7話では同好会全員がかけつけ、栞子に衝動を認めるよう圧力をかけます*1

 衝動に目を瞑ることへ非常に厳しい態度をとる虹ヶ咲ですが、反対に衝動へはどこまでも優しく寄り添います。印象的なのは1期7話です。このエピソードで、彼方はスクールアイドルを続けたい、勉学・アルバイトを疎かにしたくない、遥のスクールアイドル活動を応援したいと、自分のキャパシティを超えた欲張りな「ワガママ」を通そうとします。結果的に遥と役割を折半することで話はまとまるのですが、この「ワガママ」を虹ヶ咲では「自分に正直なこと」と表現しました。抱いた衝動をネガティブなものと捉えず、発露されるべき人間の本来の姿と極めてポジティブに扱っています。

 

 虹ヶ咲では、このようにその人が持つ衝動を肯定することが徹底されていました。衝動の中にその人の個性が存在すると言い、それをこの世界に表現するべきだというメッセージを含みながら。

 上で名前を挙げた人物たちは例外なく、自己の衝動とそれを封じる理性のストッパーのジレンマに苦しんでいました。作中ではこの理性のストッパーを取り払い、衝動に身を任せ、個性というその人本来の姿を表出させることが重要視されています。これが、虹ヶ咲に見られる個性の尊重でしょう。

 

「2.1 衝動の肯定」 要約
虹ヶ咲では衝動のみが肯定され、人の個性とは衝動の中に存在する。ライブに立つスクールアイドルは、衝動が肯定され個性が前景化した姿そのものである。

「目覚めてく 強く 裸足で駆け出していこう どんな私からも逃げたりしない」, Solitude Rain

2.2 他者の肯定

 前節では自身の衝動の肯定に焦点を当てていました。そして、自身の力だけで衝動を押さえつけるストッパーを壊すことが困難な人物が多くいたことも。そこで、身動きが取れず立ち往生する彼女たちには、背中を押してくれる誰かが必ず隣にいたのです。この背中を押してくれる他者の存在も、虹ヶ咲において重要な要素です。

 虹ヶ咲は単なる個人主義を謳った作品ではありません。同時に、隣にいてくれる他者の必要性についても説いています。それは、ほとんどの人物が他者の力を必要としていたところからも読み取れるでしょう。

 

 自身の衝動を肯定するよう要求していたように、虹ヶ咲は他者の衝動も肯定します。最も顕著な例は侑です。「あなた」として僕らファンの代名詞的存在として人格を与えられた侑。いかなるスクールアイドルですら応援し、1期1話の歩夢、1期3話のせつ菜を筆頭に、他者の衝動を肯定してきました。1期10話までの侑は、他者の衝動の肯定という役割に人格を与えた存在とまで言えるでしょう。

 侑はファンの代名詞という性格上、他者の衝動を肯定するのは必然にも思えます。しかし、肝要なのは侑だけがこの役割を担っていたわけではない点です。この例で分かりやすいのは1期8話のしずくとかすみの関係です。スクールアイドル桜坂しずくが衝動にストップをかけているのに対し、かすみはしずくの「あなた」として背中を押す役割に回ります。彼女自身が自己の衝動を肯定するスクールアイドルであるにも関わらずです。この例の他に、1期6話で璃奈を肯定する愛(と同好会メンバー)、1期12話で歩夢を肯定するせつ菜、2期6話でせつ菜を肯定する歩夢など、こちらもきりがありません。

 これらから言いたいのは、虹ヶ咲は自身の衝動を肯定するのと同時に、他者の衝動も肯定しているということです。この背中の押し合いは虹ヶ咲を見る上で重要な示唆になります。

 

「2.2 他者の肯定」 要約
虹ヶ咲では自身の衝動を肯定するのと同時に、他者の衝動も肯定している。また、それは人物間で循環している。

「自身持てなくってうつむいてた そんなわたしの背中 押してくれたね」, Dream with You

2.3 衝動を肯定した同好会

 その人の個性を尊重するため衝動の肯定がなされた結果、同好会がどうなったかについて書いていきましょう。まず、グループが一つにまとまることが困難になりました。正確には、ラブライブで結果を残せるグループにまとまることができなくなった。

 このことは1期2話及び3話で描かれています。これらのエピソードでは、ラブライブで納得のいくパフォーマンスを披露するため可愛さを追求したいかすみと、大好きを届けたいせつ菜の間に軋轢が生じました。これは、色の異なる個性が同じ方向を向こうとした結果です。そのため、せつ菜は自分の衝動を封じ込め同好会が一つになれるよう身を引く選択をしました。

 しかし、同好会のためという外発的動機づけにより衝動を覆い隠しスクールアイドルをやめる決断を虹ヶ咲は許しません。本当の気持ちを曝け出せとせつ菜に要請します。だけども、そうなるとかすみと再びぶつかることは避けられない。そこで、彼女らはラブライブに出ない選択をするのです。

 

 これは衝動を肯定できない環境にあるならば、その環境を破壊してしまえというメッセージです。それほどまでに虹ヶ咲はその人がやりたいことをやることに重きを置いています。

 メタな話で言えば、ラブライブという大会はシリーズの中で最重要の目標*2。それをかなぐり捨ててでも個性を尊重するのが虹ヶ咲の立ち位置です。

 もっとメタな話をすると、彼女たちは一つにまとまる必要がありませんでした。ラブライブに出る必要性が初めから存在していないからです。過去シリーズはラブライブで優勝することで果たしたい目的が据えられており、これを達成するためグループがまとまるよう外側から圧力がかけられていました。誤解を恐れぬ言い方をするなら、彼女たちは外発的動機づけによりグループとしての体をなしていたのです。しかし、虹ヶ咲にはラブライブで結果を残すことにより達成したい事柄が存在しません。廃校の危機に瀕し、これを覆したいシチュエーションではありません。従って、ラブライブに出ない選択をすることができました。

 この選択は虹ヶ咲が純粋に個性の尊重を描くため足場を固める地ならしでもあります。そのことについては次節以降で触れていきましょう。

 

「2.3 衝動を肯定した同好会」 要約
衝動を肯定できないのなら、ラブライブへの出場という目的すら取り除くべき障壁とする。

「言い聞かせてみたって もうカラダ中騒いでる 止まらないHeart 強く熱く…!!」, DIVE!

2.4 自己実現の姿であるステージの自分

 ラブライブに出ない選択がどのような意味を持つのか、さらに踏み込んだ見方をしていきましょう。

 1期3話の選択により、同好会は衝動が肯定され、しかしどこかへ向かわせる外圧が存在しない宙ぶらりんな状態になりました。虹ヶ咲のスクールアイドルには道標となるルールがない。辿り着くべき目的地もない。どこへ向かえばよいのか?あるのは「やりたい」という心の内から湧き上がる衝動、つまり内側からの圧力のみです。このバラバラな方向に向いた衝動の行く先は、彼女達がそれぞれ目指した目的地――なりたい自分でした。

 

 さて、人は誰しもなりたい自分というものを持っています。それはどんな形でも構いません。社会的に高い評価を得ている職業に就くとか、卓越した知識・技能を手に入れたいとか、人気者になりたいとか…。その中身はなんでもいいです。きっと今の自分に完全に満足して、それ以上の向上心を失くす事態というのはありません。

 人はいつでも理想の自分の姿を頭の中で思い描いています。それこそが虹ヶ咲におけるスクールアイドルの目標であり、上で書いたなりたい自分です。「学校を救う」のような外的な目的が無い代わりに、なりたい自分になる=人間が持つ自己実現の欲求を充足させるという内的な目的が主題になったわけですね。

 

 しかし全員が全員、かすみやせつ菜のようになりたい自分像を既に持っているわけではありませんでした。この話は1期4話で扱われていて、限りない自由さの中で内的な力のみで動こうとすれば愛のようにどこへ行けばよいのか分からず迷子になってしまうことが示唆されています。愛の場合は、楽しむことこそが自分の目指すべき場所だと自覚し目標が定まりました。好きなこと・やりたいことが向かうべき場所というのは、愛以外にも一般的に適用できる思想として描かれています。衝動を肯定することにより表出するその人の本来の姿(前景化した個性)――これが人間の向かいたいところ、つまりなりたい自分と虹ヶ咲は言っています。再度同好会が発足して一番最初に自分と向き合い、自分のなりたい自分を見つける話が挿し込まれたのは意義のあることです。

 スクールアイドル活動の自由さについては、同じく1期4話でかすみにより「スクールアイドルに正解はない」と言及されていました。何でもできて正解が存在しないスクールアイドル活動の懐の大きさが、数多くいる登場人物の衝動を受け止めるだけの地盤となったということでしょう。

 

 そして、虹ヶ咲において、ステージに立ち個性が前景化した自分となりたい自分は等価です。分かりやすいのは璃奈・しずくの二名でしょう。みんなと繋がりたいと願いつつ、自分に自信が持てなかった璃奈がステージに立ったときの姿。自分を曝け出したいと切望していたしずくがステージに立ったときの姿。他に、可愛いを追求し続けるかすみにとってステージに立つことはそれを最大限に表現する場であるとか。つまり、虹ヶ咲ではステージに立つ=なりたい自分になる=自己実現と位置づけられています。話の流れでも、最後に訪れるのがライブシーンで、その瞬間の彼女たちは理想の自分へ一歩近づいています。自分のなりたい自分になる、これこそ虹ヶ咲が描いてきたものではないでしょうか?

 

「2.4 自己実現の姿であるステージの自分」 要約
人をどこかへ向かわせる外圧を取り払い、衝動という内圧のみが存在する虹ヶ咲のスクールアイドルが目指したのは「なりたい自分」。ステージに立つ彼女たちの姿は、なりたい自分――自己実現の姿と等価。

「どこまでも行けそうなんだ 自分らしくね どこまでも行けそうなんだ!」, 夢が僕らの太陽さ

2.5 虹ヶ咲の刹那主義的側面

 個性の尊重の話題から少し逸れますが、こちらも書いておきたい事柄です。これまで書いてきた通り、虹ヶ咲では衝動を何よりも重んじ、それを行動という形で発露させることを良しとしていました。この姿勢から刹那主義的な側面を見ることもできます。

 衝動を肯定している瞬間、したいことをしている時間は何よりも楽しいものです*3。そして、虹ヶ咲はその充実した瞬間のみを考えろと言っています。

 2期7話では、後悔したくないという思いから足踏みをしていた栞子へ、そんなことを考えず衝動に身を任せるべきだと糾弾しているようでした。と、かなり曲解じみた書き方をしましたが、言わんとすることは当たらずとも遠からずでしょう。さらに、2期11話ではより直接的に、過去や未来に囚われず、楽しい今を追いかけるべきとも言っています。これらから、現在だけでなく、その他の時間に渡って衝動を止めるいかなる障壁も存在しないという思想が垣間見えます。

 非常に危うい刹那主義の姿勢ではありますが、同時に虹ヶ咲はウソをつきます。衝動に従った結果は必ず良いものになるというウソ。2期7話でスクールアイドルに青春を捧げた薫子が言った「してないよ。後悔なんて」、1期13話の最後に歩夢が溢した「始めて、よかったって!」など。スクールアイドルを始めて後悔した人はおらず、誰しもが輝かしい未来へ向かっていけると言うのです。

 要するに虹ヶ咲のロジックはこうです。「楽しい今という刹那を積み重ねていけば、後から振り返ったとき、過ごした時間は必ず素晴らしいものだったと回顧できる。だから、今は何も考えず眼の前にある衝動に正直になるべき」。

 

 とはいえ、そんな足元がおぼつかないロジックは自分ひとりの場合です。記事の冒頭でも書いたように虹ヶ咲は他者の存在が重要です。もし自己実現を叶えようとして転んでも、隣りにいてくれる他者がいてくれれば励ましてもらえることは2期12話でも言及されています。そんな優しさが虹ヶ咲には内包されているのです。

 

「2.5 虹ヶ咲の刹那主義的側面」 要約
衝動の肯定は刹那主義的。一種向こう見ずなだけかもしれなくとも、結果は素晴らしいものになると信じている。
未来とは今の積み重ねの先にあるものであり、その今を楽しく過ごせば必ず「よかった」と回顧できる。

「ふと振り返れば続く 刻んだ軌跡虹色 どんな瞬間もきらり True Stories」, Future Parade

2.6 「2. 個性の尊重」 まとめ

 ここまで虹ヶ咲が描く個性の尊重について書いてきました。一度ここで話をまとめておきましょう。

 

 まず声を大きくして主張したいのは、虹ヶ咲において衝動は何よりも上に位置づけられているということです。その人の個性を尊重するため、個性が最もよく表れる衝動という名の「したい」気持ちを肯定するのです。それは何者にも侵されず、されてはいけないと言っています。事実、1期3話で同好会のためという外発的動機づけによりスクールアイドルであることをやめようとしたせつ菜を認めませんでした。たとえそれが人のためだという願いであっても、自身の衝動を蔑ろにすることだけは容認しないのです。

 次に、虹ヶ咲は他者の衝動も肯定します。同好会の誰かが困っているとき、必ず誰かが背中を押し、衝動を行動として実現させる手助けをします。

 そして、虹ヶ咲の個性の尊重を語る上で絶対に避けられない1期3話の「ラブライブなんて出なくていい!」があります。これは、自分という人間の評価を他者から下されるのを嫌ったがゆえに出てきた言葉です。ラブライブという大会で、誰かに用意された尺度で計られるのを拒絶するのです。自身の価値を自身の外側から当てられる物差しで評価されるのを虹ヶ咲は認めません。私という存在の価値は私が決めるのです。

 自身の衝動を肯定し、自分を計る全てを投げ捨てた同好会は個人主義的な活動方針に舵を切ります。当然です。衝動に従い、自分を計る外的な基準が失われ、自分以外に頼るものなどないはずだから。それは自由の刑とも言える真っ更な荒野へ放り出されることと同義*4。作品を見ると気づくのは、同好会は他者の衝動を肯定こそしますが、道標は示しません。往くべき道は己が切り開かなければならないのです。

 そんな中で唯一の目的地は己の衝動――なりたい自分になる自己実現でした。衝動を肯定され彼女らが行うライブは個性が前景化した自己実現の姿です。自分のなりたい自分になる。これが、虹ヶ咲の個性の尊重でした。

 

 虹をモチーフにしたアニメで、数ある人の個性全てを尊重するという姿勢を貫き通した虹ヶ咲。それは1期11話でかすみんボックスいっぱいに詰め込まれたSIFへの要望、そしてそれを全て叶える姿が何よりも雄弁に語っています。ファンという存在をファンという集団として扱わず、個人の集まりとして描いたのがかすみんボックスです。ファン一人一人に望みがあり、個性があるのです。それを残さず尊重するのがSIF。これが同好会の集大成としてある美しさ。

 

 最後に、虹ヶ咲における個性の尊重についての所感に以前のブログで書いた文章を引用します(本稿用へ一部表記を修正しています)。巷では1期15話とも称される2期3話の感想文で書いたものになります*5

 

 既存の評価軸・他者からの期待に応え、自分を形成するのは人間社会を生きていく上で必要なことです。法律という取り決めであったり、文化という枠組みであったり、家族のしつけという小さなルール。これらを遵守することは自分の外側から要請され、人間はこのルールに従うような自分を作り出します。また、生徒会長のような立場の人間は清廉潔白なことが求められ、そう振る舞うこともある。このように、自分の外側から「こうあれ」と型にはめられる圧力がかけられ、演じることは生きているとままあることでしょう。そうすれば円滑に物事が進むからです。

 しかし、そうして出来上がった自分は本当に自分なのでしょうか?1期8話を見ればYESと言えるかもしれません。ですが、確実に押し殺した自分もいるはずです。押し殺してきた自分の正体、これは僕が以前から衝動と言ってきたものでしょう。

 作中では「正直な自分」と表されているこれ(衝動)を隠すことに虹ヶ咲は否定的です。2期3話では、作曲の課題で「求められる音楽」を作ろうと他者からの期待への応え方で悩んでいた侑。このアプローチを修正したのが九人の言葉。衝動に従ってきた彼女らから、「自分のやりたいことをやればいい」と背中を押されるのは説得力があります。このシーンを見て「ああ、僕の知ってる虹ヶ咲だ…」と安心感を覚えました。

「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」

 そして侑のこの言葉。これこそ虹ヶ咲の掲げる個性の尊重を最大限端的に表現したものでしょう。このセリフ、聞きながら泣いちゃいました。

 

 唐突ですが人間は何のために生きているんでしょう?先人たちが哲学的・自然科学的なアプローチから様々な答えを出してきたものだと思いますが、僕は「満足するため」だと思っています。快楽主義に属する考え方なのでしょうか。

 虹ヶ咲はこの問いに対し、僕と同じ立場を取っているものと捉えています。その上で、「満足」をするには何をすればよいか?という問いが生まれ、この問いの答えこそが自己実現に当たると考えています。終わることのない自己実現の欲求を充足させ続け、自分自身に満足し続けることこそが良い生き方であると言っている。

 虹ヶ咲におけるライブ――自己実現は自分に正直になった人間の姿です。それは、他者が定めた基準に適応するように「うそ」をついている自分ではなく、自分が真になりたい自分です。他者に依存せず、自分のやりたい気持ちだけが指針になる。つまり、自己実現という生きる意味を自ら創出できるのだと思います。

 生殖の結果、現象として生を受けた僕らにあらかじめ用意された意味なんてないと僕は考えています(それに対する考えが一般的にあることも理解しています)。そういう立場を取ったとき、他人の期待に応えたり、社会的に善とされる人間になることで自分の意味を獲得する手段もあるでしょう。しかし、そのような個性を潰した生き方をするよりも、繰り返し言うような自分が定めた目標へ走り自己実現を行うことの方が幸せなはずです。

 

 世界に一人しかいない自分が、その個性をもって自己実現を叶える。自分の生きる意味は自分で定める。だけど、自分の外側の視点を通して自分を見直すことで、新たに発見できる自分の価値があるかもしれない。これが僕から見た虹ヶ咲2期3話でした。

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「高鳴ってく 自分の気持ちに ウソをつくのって すっごくむずかしいね」, La Bella Patria
 

3. 他者の存在

 これまで、虹ヶ咲は人の個性を尊重するアニメだと書いてきました。その中で、「私」という存在の価値を自分で定めるという、誤解を恐れぬ言い方をすれば他人に依存しない個人主義の性格が強い要素についても触れてきました。

 個人主義的な思想が見える一方で、この作品は自分以外の人間と関わりを持つことを同じ重さで称揚しています。「2.2 他者の肯定」で、スクールアイドルは他者からの肯定を必要としていると書いたこととも繋がります。この章ではそのことについてさらに書いていきましょう。

 

3.1 スクールアイドルとファンの関係

 スクールアイドルとファンの関係は、虹ヶ咲において特筆すべき要素です。もっと言えば、スクールアイドルとは何か?ファンとは何か?まで作品内で言及されています。スクールアイドルにとってファンは必要不可欠なものであり、多くの場合、ファンの存在なくしてスクールアイドルは一人で立つことができません。本節では、このことについて考えていきましょう。

 

 やりたい気持ちを我慢する、他者のため自分の気持ちを犠牲にする、変化を恐れる、能力の欠如に苦しむ、拒絶されるのを恐れる。前章でも言及しましたが、何かを始めるのには十人十色の壁が生じ得ます。それらを打ち破り、新しい世界へ踏み出すのは大変なことです。きっと、多くの人は自分だけで壁を乗り越えるのが困難で、同好会の面々もそれは同じでした。

 そのため、彼女らの多くは自分の外側――他者に背中を押され、その手から伝わる力を推進力として自らのしたいことをし、なりたい自分へなっていきました。背中を押してくれた他者、それをこのアニメではファンと呼んでいます。そして、背中を押すことを応援(エール)と。スクールアイドルは一人で動けなくともファンに応援され、それを前へ進む力とし輝く存在として描かれています。

 1期12話まではスクールアイドルが応援される側、ファンが応援する側に置かれる構図ができあがっていました。それが1期13話では逆転します。つまり、スクールアイドルが応援する側へ、ファンが応援される側へ転置されます。「夢がここからはじまるよ」のライブ前に応援の能動と受動が逆転しているのが分かりやすいですね。いつも応援してくれる「あなた」へ向けた恩返し。今度は、今まで応援してくれた「あなた」が何かを始める番だと言っているのです。

 

 さらに触れておきたいのは、関係の双方向性についてです。関係の双方向性というのは僕が勝手に言ってるだけの言葉ですので、順を追って説明します。
 まず、関係とは、スクールアイドルとファンを繋ぐ応援のことです。これが双方向であると言っています。さらに、双方向という語を用いたのは、スクールアイドルから送られる応援とファンから送られる応援が等価だという含みもあります。つまり、スクールアイドルとファンは応援によって繋がれ、この応援はどちらの側から送られていても同じ行為だということです。1期12話までのように侑が同好会の面々を応援したことも、1期13話で立ち位置が逆転し同好会の面々が侑を応援したことも、どちらも頑張る・頑張りたい相手へ向けたエールで、そこに違いはないという考えです。

 

「3.1 スクールアイドルとファンの関係」 要約
虹ヶ咲では、背中を押してくれる他者を「ファン」、背中を押すことを「応援」と呼んでいる。
ファンから送られる応援も、スクールアイドルから送られる応援も、違いはない。

「あの日受け取った勇気 時を超えて今 送りたい 私からも」, 夢がここからはじまるよ

3.2 拡張されるスクールアイドルとファンの枠組み

 上述の考えを発展させてスクールアイドルとファンについてさらに見ていきましょう。上ではスクールアイドルとファンから伸ばされる応援という矢印に注目してきました。次は応援という矢印を伸ばす両者自身についてです。

 ここで注目したいのは、スクールアイドルがファンの立場にもなれることです。「夢がここからはじまるよ」でスクールアイドルはファンを応援する側に回りました。つまり、スクールアイドルがファンのファンになった。このように、虹ヶ咲ではスクールアイドルとファンという立場は流動的で、その時その時によって個人が属する立場は変化していきます。「2.2 他者の肯定」でも書いたように、1期8話でしずくを応援するかすみなどは分かりやすい例として挙げられるでしょう。あのエピソードでは、かすみはしずくのファンとして、しずくを応援する立場に回っています。

 これが何を言っているのか。僕はファンという概念が拡張されているのではないかと考えています。客席に立ち、ステージ上の人間を応援する存在だけがファンなのではなく、他者を応援する人々の全てがファンであると虹ヶ咲は言っています。

 

 そこで、スクールアイドルの概念も拡張されているのか?つまるところ、侑はスクールアイドルになったのか?という疑問が浮かび上がります。なった、が僕の答えです。ならば、拡張されたスクールアイドル概念とはなにか。その定義を一意に定めるのは困難ですが、僕の考えを書いていきましょう。

 狭義のスクールアイドルは、ステージ上に立ち、歌って踊る存在を指しました。そして2期を通じ拡張された概念が僕らに提示されます。SIFと文化祭の合同開催は目を留めたいところですね。狭義のスクールアイドルが先頭に立ちライブを行うSIFと、学校の生徒(客席から声援を送る狭義のファン)が各々のやりたいことをする文化祭が並立して開催されるというのです。これが意味するところは、スクールアイドルのライブと、生徒の出し物に違いはないということでしょう。少し話が飛躍してしまったかもしれませんね。そこで、2期6話で合同文化祭の開会にあたって流れた映像を思い出してほしいです。そこでは、開催に向け準備を進めるスクールアイドルと、一般生徒の様子が何の別け隔てもなく映されています。あの映像ではスクールアイドルも一般生徒も同じ存在として描写されているのです。

 つまり、あの催しを通して読み取りたいのは、スクールアイドルのライブも、流しそうめん同好会の流しそうめんも、その他様々な出し物も、全て等しいということです。どれも各々がやりたいことを実現した産物であり、個性を表現したものに違いがありません。拡張されたスクールアイドルとはまさに、自らの個性を表現する全ての人々を指します。

 「2. 個性の尊重」で書いたことと対応させるなら、自分の衝動を我慢せず、自己実現及び、自己表現する人間広義のスクールアイドルと扱うのです。劇中では明言されていませんが、2期8話、2期13話でステージに立つ侑はスクールアイドルと言えるのです。翻って、自己表現の手段がステージ上で歌って踊る存在のことを(狭義の)スクールアイドルと呼ぶのです。

 

「3.2 拡張されるスクールアイドルとファンの枠組み」 要約
虹ヶ咲では、自己表現をする人々を「スクールアイドル」、誰かを応援する人々を「ファン」と呼ぶ。さらに、一人の人間が、自己表現をするスクールアイドルにも、誰かを応援するファンのどちらにもなれることが描かれている。

「Take your hand out, we can reach」, stars we chase

3.3 自己を表現する

 虹ヶ咲における自己表現は、自身の存在を世界に発信することが目的にあります。素晴らしいライブ・演奏をして他者からの評価を得るためではなく、ただ純粋に、自分を世界に表現することが。

 2期3話のラストの侑のセリフ――「この世界に、私は私しかいない。うまくできなくてもいい、私にしかできないことを」から僕はそう読み取りたいです。

 当然ながら、僕らという存在は過去未来に渡ってこの瞬間にただ一人しか存在しません。ある評価軸で見れば誰かの下位互換かもしれない。でも、決して同じ人間は世界にいません。そんな僕らがただ寿命を迎えひっそりと消えゆくのは余りに寂しいことではありませんか。せめて、この世界に自分の存在を示したい。そんな願いが自己表現なのではないでしょうか。彼女らのライブ・演奏は彼女らにしかできないもので、それだけできっと意味があるものなんです。

 

 自分を全力で叫べばきっと誰かに届く。良いとか悪いとかではなくて、トキメキを届けられる。自分のやりたいことへ突き進む姿に価値があるから。この叫びが誰かに届くことで、作品内で綿々と紡がれてきたトキメキの連鎖になるのです。

 侑は広義のスクールアイドルに含まれます。彼女の自己表現は2期13話でファンへトキメキを届けました。トキメキとは、全霊をかけ自己表現するスクールアイドルを見て、自分もそうしたいと思う衝動ではないでしょうか?トキメキを受け取って始めた自己表現が、今度は誰かの元へ届く。その連鎖が、この作品の根本にあるよう思われるのです。

 

「3.3 自己を表現する」 要約
この世界に一人しかいない私を世界へ叫ぶために自己表現をする。きっと、それ自体に価値があることだから。

「届け!届け! 地球の果ての果てまで 響け!響け! 私色の瞬きが溢れてる」, Poppin' Up!

3.4 個性が絡み合う

 それぞれが自己表現で自らの個性を発信し、それらが有機的に絡み合うことで生まれる作用もあります。SIFのことですね。みんなが一歩踏み出して個性を表現するみんなの夢を叶える場所、個性という名のみんなの大好きが集まる場所。

 一人で自己表現をするのも幸せなことに疑う余地はないでしょう。SIFはさらに、みんなと一緒にそれを行う楽しさが生まれる場所でもあると思うのです。トキメキの連鎖の集大成としてたくさんの大好きが集まる。それって、個性――たくさんの色が虹を作ることではありませんか?まだ自分の衝動を見つけられない・認められない誰かがその虹を見ることで、また次のトキメキが生まれるかもしれない。

 一人でも楽しい、だけどみんなとならもっと楽しい。それを体現するお祭りなんじゃないかって僕は思います。

 

「3.4 個性が絡み合う」 要約
みんなと一緒だと支え合うことができる。一人よりもみんなと一緒ならもっと楽しい。きっとこれはロジックではない。

「Vividな世界 ねぇ どうして 一緒だったら 心はずむの」, VIVID WORLD

3.5 繋がりは物理的な距離を越える

 トキメキを共有し、応援を送りあった関係は物理的な距離を越えます。2期12話でこのことは言及されていて、将来離れ離れになったとしても、背中を押してもらった手の温もりは残るのです。

 抽象的な話に移れば、「Future Parade」で「夢の虹は いつも 胸の中 僕ら繋いでるから」と歌われているのも引用したいです。「3.4 個性が絡み合う」で一人一人の個性が持つ色が集まることが虹だと書きました。これに表現を付け足すと、SIFは虹が始まる場所です。「Future Parade」のイメージは、SIFで発生した虹色の一点から、放射状に各々の色が各々の向かう場所へ広がっていき虹を架けるものです。

 図にしてみました(OfficeのライセンスがないからGoogleパワポで作ろうとしたらだいぶ使いづらかった)。イメージとしてはこんな感じです。SIF(虹が始まる場所)では一箇所に集まっていた個性たちが、それぞれの辿り着きたい場所へ向かっていったとき、必ず離れ離れになってしまいます(侑と歩夢のように)。ですが、それで虹が消えることはありません。

 

 「Future Parade」について、劇中から読み取ったことではなく、完全に願いを書きます。

 自分のなりたい自分を追いかけ、いつかバラバラになったとしても、同じ虹を架けていることはこれからもきっと変わりません。同じ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会という一点から出発して円弧を描く色たちだから。むしろ、前に進むにつれ個性・色は強まっていき、より鮮やかな虹を架けるかもしれない。たくさんの色が歩んだ軌跡を虹と呼ぶのかもしれない。その虹を見て、新たなトキメキが生まれる。SIF、もっと言えばSIFの発端となった同好会はまさしく虹が始まる場所なのでしょう。

 

「3.5 繋がりは物理的な距離を越える」 要約
いつか離れ離れになっても、繋がりは消えない。

「昨日とは違う 風が心を締め付けるけど 思いは繋がってるから」, Awakening Promise

3.6 「3. 他者の存在」まとめ

 自己表現を行うにあたり、背中を押してくれる他者の存在の必要性について虹ヶ咲では描かれていました。手を引くではなく背中を押すという表現を使っていることには意図があります。「2.6 「2. 個性の尊重」 まとめ」でも書きましたが、虹ヶ咲では自分の夢は自分で見つけるものだと言っています。「TOKIMEKI Runners」の「きっと夢だと決めてしまえ」にある通り。それは、虹ヶ咲において目的地とは衝動に従いなりたい自分になることだから。誰かに行き先を決めてもらうのではなく、あくまで自分で定めた目的地への推進力としてファンから背中を押して貰うことを描いているのです。

 ですが、他者の存在により目的地に影響を受ける場合もあるかもしれないことも描かれていました。本稿では触れませんでしたが、2期3話の合宿のことです。自分以外の視点を取り入れることで新たな自分を知ることができるというエピソード。新たな自分の個性を知り、それを加味した上で目的地の再設定が生じるかもしれない。劇中では、個性の混ざり合いにより新しい自己表現の形が生まれましたが。これらのような意味でも、他者は必要な存在として扱われています。

 また、夢を追いかけ自己実現する姿を表現するのは、自分の存在を叫ぶため。それ自体にきっと意味があるから。自己表現する自分を見た誰かにトキメキを届けられるかもしれないから。もし誰かにトキメキを与えられたなら、それが虹の咲く種になるのです。

 同じ同好会という場所、もしかしたら大好きを追いかけるという共通点さえあれば、同じ虹を架けられるのかもしれません。虹を架けるのに距離は意味を無くし、応援を送り合う関係は途絶えること無く、永遠に繋がり続けるのでしょう。

 

「キラキラ繋がって 虹色があふれる 出逢えた奇跡は 何より宝もの」, Love U my friends
 

4. おわりに

 最後に願いの文章を書いていきます。アニメ範囲外の事柄に触れます。

4.1 虹ヶ咲の青春観

 この作品は青春がいつか終わるものだと自覚的です。「永遠の一瞬」、「Hurray Hurray」、及び2期11話が顕著だと思います。いつか繋いだ手を離さなくてはいけない。今がとても楽しいから、その時間に限りがあることが怖い。

 将来のことなんて分からないし、今以上に楽しい時間がくるかも分からない怖さもある。けれども、この青春という時間は必ず自分の過去の中で光る宝ものになる。今この瞬間を最高にし続ければ、寂しいだけじゃない未来が待ってると信じてるから。今できるのは今を楽しくすることだけで、これからのことに思いを馳せるより今を大切にしたい。同好会の仲間は、共に過ごした日々は、いつまでも消えない繋がりと思い出になる。2期で飾られていた第一回SIFやしずく邸での写真のような、その一瞬が消えない繋がりに、思い出になる。

 そんなことに思いを巡らせて、「もうちょっと感じていたい この永遠の一瞬を」に至るのが虹ヶ咲の青春観なんじゃないかな、と僕は思います。

 

4.2 感想文

 媒体としてのアニメの強さを感じられる作品でした。セリフに多くの直接的なメッセージを込めなくとも、物語で、画面で、歌で多くのことを表現できる。虹ヶ咲は受け手に解釈を委ねる余地がある箇所も多い作品ですが、それでも、制作者が伝えたかったことは間違いなく伝わったと思います。オフィシャルブック2で言及されていたお話を見るにこれは間違いないはずです。

 

 さて、制作者の意図は置いておいて、生き方…もう少しスケールを小さくするなら日々の過ごし方について考えることが多い作品だったとも思います。僕はアニメ虹ヶ咲に強く共感したためここまで好きになりました。

 まず、自分の好きなことを貫いていいんだという激励。劇中では徹頭徹尾このことが叫ばれていました。どんな障害があったとしても、自分の衝動――やりたい気持ちだけは阻害されない、目を逸してはいけない、と。2期6話では、たくさんのやりたい気持ちに迷ったら、全てやってしまえ!とも言われました。

 上手くできないかもしれない。もしかしたら誰かの下位互換にしかなれないかもしれない。でも、自分という存在だけは代替不可能で、唯一無二なんです。他の誰に否定されようと自分の価値だけは自分で認めて良いんです。自分をもっと好きになるべきなんです。

 自分の価値を認められるようになったなら、きっと自分を叫びたくなる。私はこういう人間で、大好きなものがあると。その表現方法は問わず、同好会のように歌や踊りでもいいし、侑のように音楽でも、文化祭に参加した多くの「あなた」のようにその手段に制限はありません。もしかしたら、自分の自己表現に惹かれた人と新しく繋がりが生まれるかもしれない。そうして繋がる人が増えていったら、もっと自分を叫びたくなる。トキメキを響かせたくなる。

 みんながみんな自由に自分の好きなことに夢中になって、それを発信する。それを肯定し、応援してくれる人に囲まれて、自分も誰かを応援する。理想論かもしれないけれど、それって素敵な世界(ワンダーランド)ですよね。

 

 

「この世界でたった一人だけの私を もっと好きになってあげたい」
「この世界中の 全員がnoだって言ったって 私は 私を 信じていたい」, 無敵級*ビリーバー

*1:OVAでもアイラに迫っていましたね

*2:正確には、ラブライブで優勝したその先の結果を追いかけていたのが過去シリーズですが

*3:これが衝動を肯定する一種の誘因(incentive)とも考えられる

*4:サルトルの言う自由の刑には自由さの中で己に加え、人類を決定する責任についても含意されていますが、虹ヶ咲はそこまで言及していません

*5:1期で中心的に扱われた個人の自己実現を描ききった話数として15話と呼ばれている…はずです