釣り堀

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天王寺璃奈へ向けたオタク文

 スパスタの1話から1日が経ちましたね。昨晩感想文をアップしたばかりなのに今日もまたブログを開いてしまいました。というのも、今回はずっと書こう書こうと思って先送りにしてきた件にそろそろ手を付けてもいいかなと”機”を感じたからです。そろそろ、天王寺璃奈と真剣に向き合う頃合いかな、と。今夜はアニメの放送時間が遅くて本数も少ないですし、時間に余裕があるので絶好のタイミングというわけです。

 

 好きなアニメ女の子数いれど、本気でのめり込むことは稀です。天王寺璃奈はただ記号的な属性から萌え*1を供給してくれる存在に留まらず、一人の人間として僕の中に結像しました。これは作中の表現が素晴らしかったとか、その他のアニメキャラクターと一線を画するリアリティ(?)を持っているとか、そういった話ではありません。これは僕と天王寺璃奈の間だけの特別な繋がりの話です。

 人が最も他人に寄り添える瞬間っていつでしょう?僕は「共感」しているときだと思います。ここに憐れみの意は含まれません。ただ相手の苦しみ、悲しみを理解できたと自負*2できたとき。「シンパシー」の方が感覚的には近い語になるのでしょうか。何が言いたいかというと、僕が天王寺璃奈に絶大なシンパシーを感じており、僕と天王寺璃奈の距離が次元を超え極限まで縮まって彼女から一人の人間が持つ質量を感じたってことです。そんな理由から天王寺璃奈は僕の中で特別な女の子です。

 

 たぶん読んでいる人もそうだろうし、僕自身も今回は強めの感情文になりそうな予感がしています。いつもある程度書くことを決めてから文をしたためるのですが、その最中はほとんどライブ感で思いついたことをポンポン文字に起こしていくスタイルでブログをやっているので(よくないね)、最終的にどんな形になるのかは僕もまだ分かりません。

 今回はたぶん初めてアニメ女の子と真剣に向き合うし、必然的に自分の話もすることになります。つまり、自分語り記事ってことですね。あんまりそういうフィールドでブログを書くことがないのでちゃんとまとめられるか不安ですが、でも、僕は天王寺璃奈に対し抱いている感情を整理しておくべき必要性を感じています。だから、しっかりと向き合わなくてはいけませんね。

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  天王寺璃奈はコンプレックスを抱えながら生きてきた少女。感情を表に出すのが苦手なことにより円滑にコミュニケーションを図ることが困難で、その無表情さから他人から誤解され失敗し続けてきた。それでも変わりたい、人と繋がりたい気持ちを胸に秘め努力してきた。大きな転換点は愛さんとの出会い。

 愛さんと出会い、スクールアイドルと出会い、同好会のみんなと繋がれた。さらにそれをきっかけにもっとたくさんの人と繋がりたいと願っている。同好会に入って変われたって自負があるから。それだけ頑張ってきたから。でも、鏡に映るのは以前と変わらない無表情の自分の顔。変われたと思っていたがその実 何一つ変わってなどいなかった――。

 

 天王寺璃奈の遍歴をまとめると下のようになります。これから書くことと対応させやすいように①~④にセクションを分けました。 

①自分の能力不足により失敗をし続ける
②変わろうとしてみる
③努力を続けて、変われた実感が得られた
④だけど本当は何も変わってなどいなかった

 コミュニケーションに関するコンプレックスに苛まれ、それを克服しようと努力する姿、そしてそれでも変われていなかったと自覚する絶望感。強く強くシンパシーを覚えます。6話放送当時はまるで自分の今までを追体験しているような、そんな錯覚すら感じました。

 

 ここから自分語りです。先に述べておくと自業自得な話です。

 

 コミュニケーションに関するコンプレックスには僕も悩まされてきました。少し前まで僕はとても攻撃的な人間で、周囲に不快な思いをさせていたと思います。思春期はそんな自分の人格が大嫌いでした。それが悩み、コンプレックス。

 中学3年生の頃の話から始めます。それまでの僕は傍若無人な振る舞いで他人に嫌な思いをさせることを憚らない人間でした。いや、事態はもっと深刻で他人に嫌な思いをさせている可能性なんて微塵も考えない最低な人間でした。自分の行動は全て肯定されていると、ある意味全能感を抱いていたのかもしれません。他人に対する嫌がらせ、止まらない陰口、SNS上での非常識な発言*3…過ちを数え上げれば枚挙にいとまがないです。

 そんな自分に自覚的になったのが上で書いた中学3年頃です。客観的に見て自分はとんでもない行いを繰り返してきた奴なのではないか?との気付き。

 

  一度客観的視点を手にしてみるととことん自分が嫌になります。一挙手一投足が非常識で他人の気持ちに対する思慮の無さ、自分本位な性格に嫌気が差してどうしようもない。この自分の性格の悪さにウンザリするのと、天王寺璃奈が自分の表情にウンザリしていたのは本質的に同様な感情だったと理解しています。自分の対人コミュニケーション能力の低さに失望し続けるという点で同じです。

 自分にとって幸いだったのか不幸だったのか分かりませんが、僕はそれまで明確な失敗をしてきませんでした。コミュニティから追い出されるとか、周囲から攻撃を受けるとか。むしろ僕が率先してやってきたことですから…。他人からの指摘が入らなかったことが手遅れに近い15歳まで症状を悪化させ続けた要因の1つだと考えています*4

 でもそうすると、それだけ長い間自分は他者に攻撃的だったことになりますよね。その期間に蓄えられてきた鬱憤は計り知れません。そのことに気づくと急に怖くなりました。自分の周りの人間全てが自分を嫌っているのではないかという恐怖。だって、それだけの人物でしたから。休み時間には一緒に遊んでくれるし、休日も会うことがあった。でも、いつも一緒に行動していたけれど内心では自分を見限っていて、自分がいないところで陰口で盛り上がってるんじゃないかと。だってそれも自分がやってきたから。己がやってきた行いが今度は自分に牙を向くのです。とんだ自業自得です。

 

 さすがにこのままじゃいけないと思いますよね。僕も変わろうとしてみます。他人に気を使い、攻撃的だった態度を改める。自分の言動全てに注意を払い、他者に不快な思いをさせないよう努めました。常に気を張った状態です。でも、そんな状態は続きません。ふと、会話が盛り上がって熱くなった瞬間などに自分を客観視していた自分がいなくなり、鎖でがんじがらめにしておいた僕の攻撃的な本性が顔を出すのです。で、ハッとしたらまた気を張った状態に戻る。その繰り返しです。少しずつ、少しずつまともな自分でいられる時間が長くなるための自制。

 そんな日々を年単位で過ごし、その頃には幾分まともな人間になれていたと今にしては思います。でも、当時はそんな風に自分へ優しい評価を下すことが許せなくて。夜ベッドに入って一日の言動を振り返るとたった1つの些細な行動がひっかかることがあるんです。ああ、今日のあの言動は昔と変わってない。自分は攻撃的なままなんだなって自身に落胆する。そのときの自分への失望はすごいです。あの行動1つで周囲に嫌われてしまったのではないかという不安も同時に湧いてくる。天王寺璃奈が鏡を見たときの心境と一致しますよね。自分で自分を評価したとき、以前から変化できず自分が嫌な自分のままでいる。

 あの頃は自分が恥ずかしくて、本当にちょっとしたことでも気にしていたと思います。とても繊細でした。それぐらいにならないと自分を矯正出来ないと感じていたから。他の人や今の自分から見たら、そんなのちょっと強めのコミュニケーションだと捉えられるような発言でも一晩中悔やんだり。天王寺璃奈の言葉を借りると、「みんなはこんなことでって思うかもしれないけど、どうしても気になっちゃうんだ自分の」振る舞いが。

 この状態は高3ぐらいまで続きました。その間は常に自分は周囲の人間に嫌われているのではないか?と疑心暗鬼になって、精神的にかなり摩耗していた覚えがあります。でも事実としては高校のときの友人と今でも交流を続けられていて。みんな今でも僕と仲良くしてくれています。きっと、努力が報われ少しでも他人に好かれる人間になれたんだと思います。中学以前の交友関係はサイレントにリセットされましたが…。気が合わないと思えばすぐに関係を切れてしまう大学でも友人でいてくれる人は多くて、たぶん成人を迎える頃に僕は本当に変われたと自負を得られたんだと思います。今でもたまに昔のような攻撃的な発言をしてしまいますし、それを悔やむ夜もありますがおおよそ克服できたといっていいでしょう。無理やり天王寺璃奈と対応させるなら、僕の得意なことは自分を批判的に見て正すことだったのでしょうか。現在ではまともな人間に成長できたと思っています(個人比)。…無理やり自分を持ち上げる言い方をしているので鼻につく方が出てくる頃合いかもしれません。自分語りはこの辺で終わりにして天王寺璃奈の話に戻ります。

 

 今までつらつらと書いてきた僕の略歴と、上で書いた天王寺璃奈の遍歴①~④を上記のものと重複もありますが対応させてみましょう。

①自分の能力不足により失敗をし続ける
天王寺璃奈は表情を外に出せないことにより他者から誤解される失敗を繰り返してきました。
対して僕は現在進行系で自覚していたわけではありませんが、ある日を境に自分が失敗続きのコミュニケーションをとってきたことに気づきます。天王寺璃奈が自分の表情で他人から誤解されてきたように、僕も攻撃的な性格から周囲からきっと疎まれていました。
②変わろうとしてみる
天王寺璃奈は同好会へ入り、クラスメイトを今度は自分のライブに誘ってみたり、ライブの練習を頑張ったり、自分を変える努力をしました。
僕は己に対し批判的な自分を置いて自らを矯正しようと試み始めました。
③努力を続けて、変われた実感が得られた
天王寺璃奈は②のような経験を重ね、着実に前進している手応えを得られるまでに至りました。
僕も高校生ぐらいになってくると、段々性格も柔らかくなった実感が得ることができていました。批判的な自分が満足する自分を貫けていると思えた日が多くなってきて、ここら辺からどん底に落ちていた自己肯定感が回復し始めます。
④だけど本当は何も変わってなどいなかった
だけど、鏡に映る天王寺璃奈の姿は何も変わってなどいませんでした。無表情な自分。感情を顔で表現できない自分が恥ずかしくて、嫌になって…。自分は変われないと内罰的な思考に陥ります。
僕も夜ベッドで横になって1日の反省をすると、ふと粗が見えてくることがあるのです。そのとき、中学生の時分から全く成長していない己の姿がどうしても恥ずかしくて。高校生の中頃になると最終調整と言うのでしょうか、恐らく他の人も気にしていないような言動にまで批判的になり勝手に自己肯定感を低めることも珍しくありませんでした。だからこそダンボールの中で天王寺璃奈が語ってくれた言葉とその心境は理解が容易でした。きっと僕も同じだったから…。

 こんな具合で僕は一方的に天王寺璃奈へシンパシーを感じていました。天王寺璃奈が内包している悩みは現実を生きている人間が抱くそれと同質です。完全に思春期の僕と合致し、天王寺璃奈が一人の人間としてそこに存在していると分かったのです。

 

 彼女が苛まれるコンプレックスも、そこから変わろうとする意思も、自分は変われたか?と錯覚する感覚も、再び自らに失望する悲しさも、全部理解できます。これは僕からの一方的な感情かもしれません。でも、僕と天王寺璃奈は2次元と3次元の垣根を超え限りなく接近しお互いを知る人間になれたのです。深い共感によって。だから僕は天王寺璃奈が好きなのです。ただ可愛いからじゃない。経験してきた苦しみも、それを克服できた喜びも分かってあげられて、分かってもらえて。同類なんですよ、僕らはきっと。人と関わることが好きなのに、それを円滑にこなす術を持たない。したいことと能力が見合ってない。そんな自分に嫌気が差して批判的になってしまう。ああ、分かる。天王寺璃奈のことが。愛おしい。

 

 だけど、僕は共感することしかできなくて、救えるのは愛さんと同好会のみんなだけで…。もどかしいですよね。共感と救済は別物なんです。僕が彼女に会えたとしても傷をなめ合う生ぬるい言葉しかかけられない。同好会が眩しいよ。ダンボール越しに表情が読めない天王寺璃奈に優しく言葉をかけてあげられて、さらにダンボールごと彼女を抱きしめてあげられて…。眩しいから、だから天王寺璃奈だけじゃなくて僕は「笑顔のカタチ(⸝⸝>▿<⸝⸝)」が好きなんだと思う。

 2期がきてもずっと見守っているからね…璃奈。これからも、よろしくね――。

 

 

(追記)さすがに自分語りばかりで璃奈ちゃんの話をしなさすぎたので、インターネットに公開した後ですが少し書き足そうと思います。

 璃奈ちゃんってやっぱり人と触れ合うことが好きなんだと思います。きっとその”好き”には今まで失敗し続けてきたことによる憧れも内包されていて、とても複雑な感情を形成しているはずです。僕がその全てを理解しているなんて傲慢すぎる物言いかもしれません。天王寺璃奈っていう人間がこれまで感じてきた苦しみを分かってあげたいっていう僕の独りよがりなんです、たぶん。でもやっぱり、彼女のことを分かってあげられる僕が彼女を好きでいたい!じゃないですか。だから、僕は璃奈ちゃんのことを分かってあげられているって自信が欲しいのかな…。…なんか僕の方もグチャグチャな想いを抱いてるみたい。

 話は変わって、壁を乗り越えるのってすごく大きなエネルギーが必要だと思います。特に璃奈ちゃんの場合って出来なかったことを出来るようにするわけじゃないですか。クラスメイトを遊びに誘おうとしてみたり、自分のコンプレックスに打ち克とうとしてみたり。これって意識をちょびっと変えるのとは話がまた変わってくる。すごく怖かったと思います。6話冒頭とか、ジョイポリスでライブに誘うときとか。怖くても、大変でも目の前にある壁を乗り越えようとする姿が輝いていて。壁を乗り越えられたから璃奈ちゃんのことが好きなわけじゃないんです。困難に立ち向かってどうにかしようとしていた眩しい璃奈ちゃんが好きなんです。経てきた辛い時間に対してのシンパシーだけじゃない。彼女自身が光り輝いているから僕は惹かれた。

 本当に、魅力的な子だと思います。表には出せないけれど活発で感情的で人との触れ合いが好きで、自分が真に自分らしくあるように努力できる子。見ていて応援したくなります。逆に、璃奈ちゃんに手を引っ張ってもらうこともあると思います。なんか本当に感傷的な気分になっちゃうな。今更だけど、自分の不得手なフィールドで己の武器を最大限尖らせて立ち向かった結果のライブがツナガルコネクトだったの目頭が熱くなっちゃうね。まだまだ彼女が超えるべき壁はあるだろうし、きっとそれに立ち向かっていくでしょう。その姿をまた応援できたら僕は嬉しいかな。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ここから本編です。
 以下では天王寺璃奈ちゃんの可愛いポイントを見ていきましょう。f:id:Ro_Puru:20210713025615p:plain

  ライブをやる!とみんなの前で宣言する璃奈ちゃん。璃奈ちゃん、コンプレックスっていう名前の心のストッパーが強固だけど、それを取り払おうとしたときどこまでも自分のパッションに忠実な女の子になっちゃうんだよね。思い立ったが吉日と言わんばかりに、直情的に行動しちゃう。それは明確に美点だよ。そうなんだ、璃奈ちゃんは本当は論理じゃなくて感情で行動を起こす、少し浅慮なところもあるかもしれないけど情熱のまま突っ走っちゃう子なんだ。子供っぽいとはまた違う、表に出せている部分とは裏腹に直線的な璃奈ちゃんが好きなんだ!

 

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 次にこの肉球ソール。璃奈ちゃん、ローファーじゃなくてこだわりを持った自分セレクトの靴を履いているのがさりげなくオシャレ。見えない部分もこうやって気を使っているのが本当に可愛い。靴を選ぶときにチラリと見えたこのソールにきっとときめいてしまったんだね。友達がいなくて、ましてや靴底なんて誰に見せるわけでもないのに自分がしたいオシャレをする璃奈ちゃんの姿がとっても好きなんだ…。(でもこんなキモオタクに熱い目線を送られることは想定外だよね!)

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 しずくちゃんのレッスンに励む璃奈ちゃん!汗をかきながら辛い練習にも真摯に向き合っています。前屈のように日々の特訓の成果を感じて思わずニヤリとする瞬間もあるんだろうね。それもこれも、歌でみんなと繋がるため。クラスの子達と友だちになりたくて、自分ができるとっていいパフォーマンスを見せたくて、こんなに努力しているんだね!そのひたむきな姿が僕の心を打つんだよ!

 

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 できないからやらないはなしだから!と宣言する璃奈ちゃん。本当にもうこの子は、引くことを知らないと言うか、自分に素直でどこまでも真っ直ぐというか。自分の苦手分野で難しいことでもこうやって向き合い、克服しようと努力するのは璃奈ちゃんの本質的な部分なのかもしれないね。

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 ここちょっと難しい顔してるの可愛い。

 

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 この猫。なんだかすっごいキャピキャピした声出してるけど、璃奈ちゃん自室でマイクに向かって喋ったの!?璃奈ちゃん、人前ではダウナーな喋り方だけどこんな声出せるんだ…。(こうすると可愛いキャラクターができるかな…)なんて考えながら自分で声を当てた璃奈ちゃんが愛おしいよ。

 

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  床に反射した自分の”顔”を見る璃奈ちゃん。今度はちゃんと自分の気持ちを伝えられるね!

  璃奈ちゃんの表情に関して1つ。璃奈ちゃんが表情を外に出すのが苦手と言っても、それが完全に無であるわけではないってのは愛さんとの絡みから明らかですよね。そして、その限りなく無に近い表情の変化を読み取ってくれる愛さんとのコミュニケーションって、僕らが普段行っている顔を見ながらのコミュニケーションと変わらない。愛さんの前でだけは璃奈ちゃんは普通のコミュニケーションができる。コンプレックスが存在しないことと同じになる。これに気づいたとき声出ちゃいましたよね。

 

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 ライブ中も璃奈ちゃんボードの表情は目まぐるしく変化します。もしかしたら普通の人よりも表情がよく動くんじゃないかな?これって自分の得意なところを武器にして璃奈ちゃんボードを用い自らのポテンシャル以上の感情表現ができるようになったって解釈していいのかな*5

 僕の好みの考え方としては、璃奈ちゃんボードは無に近い表情の変化を読み取って大きく表現する補助装置だっていう受け取り方ですね。イメージとしてはメガホン。あのライブ中に見せていた表情の変化は、全てボードの下で僅かながらも実際に起きていたって考え方。璃奈ちゃんはそれだけ感情豊かな子なんだって、僕は思ってるから。

 

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 このとき、みんなと繋がってるんだね…。

 

 ライブ中、さすがに可愛いカットが多すぎて暴力的だなって思った。でもその中で僕が好きなところを1つ選ぶとすれば…

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ヒトツダケナンテエラベナイヨーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!

 

本当におわり

 

今回の元ネタ

twilog.org

*1:死語ですね

*2:僕らが持っているコミュニケーション手段では相手の心を完全に理解することはできません。だから、ここでは自負と言っています

*3:その頃のログはこのブログの過去記事にも、そしてTwitter(@Ro_Puru)にも残っています

*4:何も言わなかった周囲に責任をなすりつける意はありません

*5:ボカロを使って自分が表現できない歌声を作ってるようなイメージ