釣り堀

https://twitter.com/Ro_Puru

虹ヶ咲のあれこれ

 こんばんは。寒い冬も終わりに向かうこの頃、今日はポカポカと日差しも暖かく春の訪れを感じずにはいられません。そんな今日は虹ヶ咲4thライブの前日。僕も大阪に前泊して、今はホテルのベッドの上であぐらをかきながらPCに向かっています。

 本当はまだ読めていないキズナエピソードを読まなければいけないのですが、ちょっとお酒を飲みすぎて文章を読むのは無理そうなので今こうして文章を打っているわけです。

 正直かなり意識もあいまいでまともな文章を書けるとも思えないのですが、寝るにも早いし最近思っていたことを書こうかなと思ってブログを開いた次第です。じゃあつれづれなるままに文字を書いていこうかな。

※スクスタのことも書きますが、まだ1周しかしてないのと、泥酔してるので的はずれなことを書くかもしてないです。ごめんなさい。

 

 

媒体ごとの曲の認識

 これ、これは自分のスタンスを明確にするために書いておきたいことです。現在、虹ヶ咲から発表されている楽曲は大きく分けてスクスタ文脈とアニメ文脈の2種類が存在します。これらの媒体では別々の物語が展開されており、アニメとスクスタは物語として交わることがありません。

 しかし、楽曲はどうでしょうか?スクスタの曲はスクスタの同好会、アニメの曲はアニメの同好会しか歌えないのでしょうか?僕としては歌えない、という立場から虹ヶ咲を見ていることを表明しておきます。それぞれの曲はそれぞれの物語の上に成り立っており、その物語を経ていない彼女らはその曲を歌えないという考えのもとです。人間の人格というのは経験によって形成されるので、そもそもスクスタの彼女らとアニメの彼女らは別人という認識です。

 この作品の見方は文脈の混線を防ぐための予防策という意味も込めています。というのも物語を解釈するとき、スクスタ・アニメの両者から自分の都合の良い部分だけを抜き取るという恣意的な受け取りもできてしまいますからね。まだスクスタを精査できていないですが、アニメの目指しているテーマの若干の乖離を感じているのが現状です。これは2期を見てみないと本当になんとも言えない事柄ではありますが。2期についての予想とかそういうのはまた別の機会に書くつもりなので、今は曖昧な言葉でお茶を濁しておきますね。

 

 でもね、でも、メタ的な視点で考えてみましょう。スクスタもアニメも”虹ヶ咲”っていう基本コンセプトから出発しており、彼女ら同好会の一人一人にも核となるコンセプトがあるはずなんです。だから、コンテンツ的にはなんの媒体であろうと彼女らは同一人物で、不可分な存在であるはずなんです。

f:id:Ro_Puru:20220225230011p:plain

こんな感じのイメージ。虹ヶ咲っていう土台の上にアニメとかスクスタとか色々な文脈が乗っかってる。これらは完全に独立したものではないはずです。同じものを土台にしてるんだから。なら、アニメの彼女らがスクスタの楽曲を歌ってもいいんじゃないか?って思います。ちょっと論理が飛躍した感じがしますが、フィーリングで僕の言ってることを受け取ってもらえたら嬉しいです。

 

 ただまあ再度僕の立場を明らかにしておくと、アニメの彼女らはスクスタの歌を歌えないと思っています。スクスタの経験を経ていないなら、その楽曲は生まれ得ないので。

 でも、例外があって、コンテンツ自体が発しているメッセージは普遍的なものではないかということです。自分の気持ちに正直であれとか、個の尊重とか、色々ありますけど。これは経験とかそういうの関係ないですからね。というか、コンテンツの根底にあるメッセージを描くためにアニメとかスクスタとか色々な媒体を使っているわけですから。だから、僕はコンテンツのメッセージを聞くときは媒体関係なく受け取るというなんともダブスタっぽいやりかたをしています。

 このツイートなんかモロですね。ちょうどいいし、このツイートで言いたかったことも説明しましょう。

f:id:Ro_Puru:20220225231118p:plain

画像を用意しました。グニャグニャなのは気にしないで。

 図の四角がトキメキの向かう先の全集合だと考えてください。虹ヶ咲の基本コンセプトの1つとして、スクールアイドルは見た人にトキメキを与え、衝動を誘発する役割を担っています。じゃあ受け取ったトキメキはどこへ向かえばいいんだろうと考えたとき、上の図のようになるんです。

 スクールアイドルに憧れ同様にスクールアイドルを目指す道。これはショウ・ランジュが当てはまりますね。でも、全員が全員スクールアイドルを目指すわけではありません。侑ちゃんのようにそれ以外の道を目指すことだってあります。侑ちゃんは音楽の道を目指しましたが、少し抽象的に考えてみましょう。まあ図にも書いたんですけど、これはスクールアイドル以外の何かになります。ラブライブにおいて大切なのはスクールアイドルであるかそれ以外であるか、です。アニガサキ時点でスクールアイドルからトキメキと受け取ったファンの行き先というのはとてもとても広い範囲まで言及されています。しかし、ツイートに書いたとおりファンの目的地としてファン自体が据えられることをカバーできていませんでした。それがスクスタのあなたちゃんに当たるわけですね。

 そうすると、虹ヶ咲のメッセージは無限の距離まで届くようになります。スクールアイドルからトキメキを受け取ったら、真の意味で何をしてもよくなる。スクールアイドルでも、それ以外でも、そしてファンを続けても。

これめちゃくちゃすごいことだと思いませんか?異論は認めません、これはすごいことです。マジで自由で、何もかもを肯定してくれるコンテンツなんですよ虹ヶ咲っていうのは。個の尊重、これほどに感じることはないです。

 

 話がとっちらかってあっち行ったりこっち行ったり申し訳ないです。話を戻すと、虹ヶ咲を見るにあたって汲み取る文脈のフレームを意識して読んでいくってのは大切だと思います。今自分はアニメを見ているからアニメで描かれたことから意味を見出そうとか。スクスタもそうです。また、ライブで文脈が発生することもありますね。自分が今対象としているフレームを意識しないと論理的に物語を読むのが難しいと思うので。…偉そうなこと言ってますけど、ほぼ10割自戒なので他の人に虹ヶ咲の楽しみ方を啓蒙してやろうとかそういう意図はないです。自由に楽しみましょう!

 

スクスタを読んだ感想

 読みました。読みましたよこの4thのために。1週間近くかかりましたけど。正直、2ndシーズンを読んでこのコンテンツは完成したと思いました。2期もこっちの方向に話を進めていくんじゃないかとか思っています。保険のため言っとくと内容を精査できていない段階での感想ですが。

 1章は割とアニガサキ6話の延長線上にあるんじゃないかと思ったりしました。適正とか関係なく、やりたいことをやれ!っていう。表情を表に出せなかった璃奈ちゃんだけど、スクールアイドルがやりたい気持ち1つでやってきたのと繋がるかなとか。栞子ちゃん、トキメキを感じたなら我慢せずに始めよう!

 

 2ndシーズンはマジで大切な話でしたね。また廃部騒動かよ!とか、ランジュのやり方さすがに横暴だろとか、そういうのは些末なことです。これは僕が色々あってスクスタ、というかソシャゲの話運びに期待してないこともありますが。部と同好会でメンバーが割れたのは別にいいと思います。スクールアイドルを個人競技として始めて、自分の目的地にいけると思ったから部に移ったわけですから誰が彼女らを責められますか?といいつつ、物語の中で彼女らの行動にカバーがあったのは全方面に優しいなとも思いました。

 

 29章の感想は上で書いちゃったので30章の話をしましょうか。

 これって結局拡張の話ですよね。スクールアイドルという概念の。スクールアイドルを応援するファン活動もスクールアイドルと定義したところとか。

 でも僕はもう一歩踏み込んだ見方をしてみたいです。この話はスクールアイドルを具体的な行動(同好会のような狭義のスクールアイドル、加えて30章で加えられたファン活動)ではなく生き方によって規定できるんじゃないかってこと。

 上述のように、スクールアイドルは同好会のような狭義のスクールアイドルから概念を拡張されました。これはスクールアイドルはステージの上で歌って踊る存在っていう意味に留まらないと言っています。1つ前の文だけでは全人類がスクールアイドルと言えるまで概念を拡張しています。…この酔っぱらいの話についてこられていますか?今?そんなのあんまりなので条件を定めてもう少し対象を狭めてみます。虹ヶ咲においてスクールアイドルとはどんな存在として描かれているでしょう。僕は「衝動に向かってひたすらに走る」存在だと捉えています。僕が読みたいラインはここです。スクールアイドルが生き方のレベルまで昇華されているように感じたと書きましたね。そうです、その生き方というのが「衝動に向かってひたすらに走る」になります。もうちょっと平たく言うと「やりたいことに向かって全力で走り続ける!」です。この姿勢こそがスクールアイドルなのではないか?と。30章で言ってたのはこれなんじゃないかと、僕は受け取りたいです。受け取った、じゃなくて受け取りたい、です。

 この話に結論を未だ用意できていないのですが、マジで懐のデカイコンテンツだと思います。どこまでもついていきたいですね。


おわり

 ということで、尻切れトンボ甚だしい感じで終わっちゃいましたが、僕が言いたかったことはこんな感じです。もしここまで付き合ってくれた方がいたら、こんな文章でごめんなさいって気持ちと、付き合ってくれてありがとうって感じですね。

 アニガサキで描かれたスクールアイドルとファンの関係とか、衝動の話とかスクスタの文脈とすり合わせるなり、違いを見つけるなりやることはいっぱいあるんですけど、これが偽らざるファーストインプレッションです。正直、アニがサキは2期でスクスタと別のメッセージを込めてきそうな感触もあるので、そこらへん意識しながら見ていくのも面白いと思います。長々と書いてしまいましたがお付き合いありがとうございました。

 

 よければ以前書いたアニガサキの感想も。

ro-puru.hatenablog.com

天王寺璃奈へ向けたオタク文

 スパスタの1話から1日が経ちましたね。昨晩感想文をアップしたばかりなのに今日もまたブログを開いてしまいました。というのも、今回はずっと書こう書こうと思って先送りにしてきた件にそろそろ手を付けてもいいかなと”機”を感じたからです。そろそろ、天王寺璃奈と真剣に向き合う頃合いかな、と。今夜はアニメの放送時間が遅くて本数も少ないですし、時間に余裕があるので絶好のタイミングというわけです。

 

 好きなアニメ女の子数いれど、本気でのめり込むことは稀です。天王寺璃奈はただ記号的な属性から萌え*1を供給してくれる存在に留まらず、一人の人間として僕の中に結像しました。これは作中の表現が素晴らしかったとか、その他のアニメキャラクターと一線を画するリアリティ(?)を持っているとか、そういった話ではありません。これは僕と天王寺璃奈の間だけの特別な繋がりの話です。

 人が最も他人に寄り添える瞬間っていつでしょう?僕は「共感」しているときだと思います。ここに憐れみの意は含まれません。ただ相手の苦しみ、悲しみを理解できたと自負*2できたとき。「シンパシー」の方が感覚的には近い語になるのでしょうか。何が言いたいかというと、僕が天王寺璃奈に絶大なシンパシーを感じており、僕と天王寺璃奈の距離が次元を超え極限まで縮まって彼女から一人の人間が持つ質量を感じたってことです。そんな理由から天王寺璃奈は僕の中で特別な女の子です。

 

 たぶん読んでいる人もそうだろうし、僕自身も今回は強めの感情文になりそうな予感がしています。いつもある程度書くことを決めてから文をしたためるのですが、その最中はほとんどライブ感で思いついたことをポンポン文字に起こしていくスタイルでブログをやっているので(よくないね)、最終的にどんな形になるのかは僕もまだ分かりません。

 今回はたぶん初めてアニメ女の子と真剣に向き合うし、必然的に自分の話もすることになります。つまり、自分語り記事ってことですね。あんまりそういうフィールドでブログを書くことがないのでちゃんとまとめられるか不安ですが、でも、僕は天王寺璃奈に対し抱いている感情を整理しておくべき必要性を感じています。だから、しっかりと向き合わなくてはいけませんね。

f:id:Ro_Puru:20210712220352p:plain


  天王寺璃奈はコンプレックスを抱えながら生きてきた少女。感情を表に出すのが苦手なことにより円滑にコミュニケーションを図ることが困難で、その無表情さから他人から誤解され失敗し続けてきた。それでも変わりたい、人と繋がりたい気持ちを胸に秘め努力してきた。大きな転換点は愛さんとの出会い。

 愛さんと出会い、スクールアイドルと出会い、同好会のみんなと繋がれた。さらにそれをきっかけにもっとたくさんの人と繋がりたいと願っている。同好会に入って変われたって自負があるから。それだけ頑張ってきたから。でも、鏡に映るのは以前と変わらない無表情の自分の顔。変われたと思っていたがその実 何一つ変わってなどいなかった――。

 

 天王寺璃奈の遍歴をまとめると下のようになります。これから書くことと対応させやすいように①~④にセクションを分けました。 

①自分の能力不足により失敗をし続ける
②変わろうとしてみる
③努力を続けて、変われた実感が得られた
④だけど本当は何も変わってなどいなかった

 コミュニケーションに関するコンプレックスに苛まれ、それを克服しようと努力する姿、そしてそれでも変われていなかったと自覚する絶望感。強く強くシンパシーを覚えます。6話放送当時はまるで自分の今までを追体験しているような、そんな錯覚すら感じました。

 

 ここから自分語りです。先に述べておくと自業自得な話です。

 

 コミュニケーションに関するコンプレックスには僕も悩まされてきました。少し前まで僕はとても攻撃的な人間で、周囲に不快な思いをさせていたと思います。思春期はそんな自分の人格が大嫌いでした。それが悩み、コンプレックス。

 中学3年生の頃の話から始めます。それまでの僕は傍若無人な振る舞いで他人に嫌な思いをさせることを憚らない人間でした。いや、事態はもっと深刻で他人に嫌な思いをさせている可能性なんて微塵も考えない最低な人間でした。自分の行動は全て肯定されていると、ある意味全能感を抱いていたのかもしれません。他人に対する嫌がらせ、止まらない陰口、SNS上での非常識な発言*3…過ちを数え上げれば枚挙にいとまがないです。

 そんな自分に自覚的になったのが上で書いた中学3年頃です。客観的に見て自分はとんでもない行いを繰り返してきた奴なのではないか?との気付き。

 

  一度客観的視点を手にしてみるととことん自分が嫌になります。一挙手一投足が非常識で他人の気持ちに対する思慮の無さ、自分本位な性格に嫌気が差してどうしようもない。この自分の性格の悪さにウンザリするのと、天王寺璃奈が自分の表情にウンザリしていたのは本質的に同様な感情だったと理解しています。自分の対人コミュニケーション能力の低さに失望し続けるという点で同じです。

 自分にとって幸いだったのか不幸だったのか分かりませんが、僕はそれまで明確な失敗をしてきませんでした。コミュニティから追い出されるとか、周囲から攻撃を受けるとか。むしろ僕が率先してやってきたことですから…。他人からの指摘が入らなかったことが手遅れに近い15歳まで症状を悪化させ続けた要因の1つだと考えています*4

 でもそうすると、それだけ長い間自分は他者に攻撃的だったことになりますよね。その期間に蓄えられてきた鬱憤は計り知れません。そのことに気づくと急に怖くなりました。自分の周りの人間全てが自分を嫌っているのではないかという恐怖。だって、それだけの人物でしたから。休み時間には一緒に遊んでくれるし、休日も会うことがあった。でも、いつも一緒に行動していたけれど内心では自分を見限っていて、自分がいないところで陰口で盛り上がってるんじゃないかと。だってそれも自分がやってきたから。己がやってきた行いが今度は自分に牙を向くのです。とんだ自業自得です。

 

 さすがにこのままじゃいけないと思いますよね。僕も変わろうとしてみます。他人に気を使い、攻撃的だった態度を改める。自分の言動全てに注意を払い、他者に不快な思いをさせないよう努めました。常に気を張った状態です。でも、そんな状態は続きません。ふと、会話が盛り上がって熱くなった瞬間などに自分を客観視していた自分がいなくなり、鎖でがんじがらめにしておいた僕の攻撃的な本性が顔を出すのです。で、ハッとしたらまた気を張った状態に戻る。その繰り返しです。少しずつ、少しずつまともな自分でいられる時間が長くなるための自制。

 そんな日々を年単位で過ごし、その頃には幾分まともな人間になれていたと今にしては思います。でも、当時はそんな風に自分へ優しい評価を下すことが許せなくて。夜ベッドに入って一日の言動を振り返るとたった1つの些細な行動がひっかかることがあるんです。ああ、今日のあの言動は昔と変わってない。自分は攻撃的なままなんだなって自身に落胆する。そのときの自分への失望はすごいです。あの行動1つで周囲に嫌われてしまったのではないかという不安も同時に湧いてくる。天王寺璃奈が鏡を見たときの心境と一致しますよね。自分で自分を評価したとき、以前から変化できず自分が嫌な自分のままでいる。

 あの頃は自分が恥ずかしくて、本当にちょっとしたことでも気にしていたと思います。とても繊細でした。それぐらいにならないと自分を矯正出来ないと感じていたから。他の人や今の自分から見たら、そんなのちょっと強めのコミュニケーションだと捉えられるような発言でも一晩中悔やんだり。天王寺璃奈の言葉を借りると、「みんなはこんなことでって思うかもしれないけど、どうしても気になっちゃうんだ自分の」振る舞いが。

 この状態は高3ぐらいまで続きました。その間は常に自分は周囲の人間に嫌われているのではないか?と疑心暗鬼になって、精神的にかなり摩耗していた覚えがあります。でも事実としては高校のときの友人と今でも交流を続けられていて。みんな今でも僕と仲良くしてくれています。きっと、努力が報われ少しでも他人に好かれる人間になれたんだと思います。中学以前の交友関係はサイレントにリセットされましたが…。気が合わないと思えばすぐに関係を切れてしまう大学でも友人でいてくれる人は多くて、たぶん成人を迎える頃に僕は本当に変われたと自負を得られたんだと思います。今でもたまに昔のような攻撃的な発言をしてしまいますし、それを悔やむ夜もありますがおおよそ克服できたといっていいでしょう。無理やり天王寺璃奈と対応させるなら、僕の得意なことは自分を批判的に見て正すことだったのでしょうか。現在ではまともな人間に成長できたと思っています(個人比)。…無理やり自分を持ち上げる言い方をしているので鼻につく方が出てくる頃合いかもしれません。自分語りはこの辺で終わりにして天王寺璃奈の話に戻ります。

 

 今までつらつらと書いてきた僕の略歴と、上で書いた天王寺璃奈の遍歴①~④を上記のものと重複もありますが対応させてみましょう。

①自分の能力不足により失敗をし続ける
天王寺璃奈は表情を外に出せないことにより他者から誤解される失敗を繰り返してきました。
対して僕は現在進行系で自覚していたわけではありませんが、ある日を境に自分が失敗続きのコミュニケーションをとってきたことに気づきます。天王寺璃奈が自分の表情で他人から誤解されてきたように、僕も攻撃的な性格から周囲からきっと疎まれていました。
②変わろうとしてみる
天王寺璃奈は同好会へ入り、クラスメイトを今度は自分のライブに誘ってみたり、ライブの練習を頑張ったり、自分を変える努力をしました。
僕は己に対し批判的な自分を置いて自らを矯正しようと試み始めました。
③努力を続けて、変われた実感が得られた
天王寺璃奈は②のような経験を重ね、着実に前進している手応えを得られるまでに至りました。
僕も高校生ぐらいになってくると、段々性格も柔らかくなった実感が得ることができていました。批判的な自分が満足する自分を貫けていると思えた日が多くなってきて、ここら辺からどん底に落ちていた自己肯定感が回復し始めます。
④だけど本当は何も変わってなどいなかった
だけど、鏡に映る天王寺璃奈の姿は何も変わってなどいませんでした。無表情な自分。感情を顔で表現できない自分が恥ずかしくて、嫌になって…。自分は変われないと内罰的な思考に陥ります。
僕も夜ベッドで横になって1日の反省をすると、ふと粗が見えてくることがあるのです。そのとき、中学生の時分から全く成長していない己の姿がどうしても恥ずかしくて。高校生の中頃になると最終調整と言うのでしょうか、恐らく他の人も気にしていないような言動にまで批判的になり勝手に自己肯定感を低めることも珍しくありませんでした。だからこそダンボールの中で天王寺璃奈が語ってくれた言葉とその心境は理解が容易でした。きっと僕も同じだったから…。

 こんな具合で僕は一方的に天王寺璃奈へシンパシーを感じていました。天王寺璃奈が内包している悩みは現実を生きている人間が抱くそれと同質です。完全に思春期の僕と合致し、天王寺璃奈が一人の人間としてそこに存在していると分かったのです。

 

 彼女が苛まれるコンプレックスも、そこから変わろうとする意思も、自分は変われたか?と錯覚する感覚も、再び自らに失望する悲しさも、全部理解できます。これは僕からの一方的な感情かもしれません。でも、僕と天王寺璃奈は2次元と3次元の垣根を超え限りなく接近しお互いを知る人間になれたのです。深い共感によって。だから僕は天王寺璃奈が好きなのです。ただ可愛いからじゃない。経験してきた苦しみも、それを克服できた喜びも分かってあげられて、分かってもらえて。同類なんですよ、僕らはきっと。人と関わることが好きなのに、それを円滑にこなす術を持たない。したいことと能力が見合ってない。そんな自分に嫌気が差して批判的になってしまう。ああ、分かる。天王寺璃奈のことが。愛おしい。

 

 だけど、僕は共感することしかできなくて、救えるのは愛さんと同好会のみんなだけで…。もどかしいですよね。共感と救済は別物なんです。僕が彼女に会えたとしても傷をなめ合う生ぬるい言葉しかかけられない。同好会が眩しいよ。ダンボール越しに表情が読めない天王寺璃奈に優しく言葉をかけてあげられて、さらにダンボールごと彼女を抱きしめてあげられて…。眩しいから、だから天王寺璃奈だけじゃなくて僕は「笑顔のカタチ(⸝⸝>▿<⸝⸝)」が好きなんだと思う。

 2期がきてもずっと見守っているからね…璃奈。これからも、よろしくね――。

 

 

(追記)さすがに自分語りばかりで璃奈ちゃんの話をしなさすぎたので、インターネットに公開した後ですが少し書き足そうと思います。

 璃奈ちゃんってやっぱり人と触れ合うことが好きなんだと思います。きっとその”好き”には今まで失敗し続けてきたことによる憧れも内包されていて、とても複雑な感情を形成しているはずです。僕がその全てを理解しているなんて傲慢すぎる物言いかもしれません。天王寺璃奈っていう人間がこれまで感じてきた苦しみを分かってあげたいっていう僕の独りよがりなんです、たぶん。でもやっぱり、彼女のことを分かってあげられる僕が彼女を好きでいたい!じゃないですか。だから、僕は璃奈ちゃんのことを分かってあげられているって自信が欲しいのかな…。…なんか僕の方もグチャグチャな想いを抱いてるみたい。

 話は変わって、壁を乗り越えるのってすごく大きなエネルギーが必要だと思います。特に璃奈ちゃんの場合って出来なかったことを出来るようにするわけじゃないですか。クラスメイトを遊びに誘おうとしてみたり、自分のコンプレックスに打ち克とうとしてみたり。これって意識をちょびっと変えるのとは話がまた変わってくる。すごく怖かったと思います。6話冒頭とか、ジョイポリスでライブに誘うときとか。怖くても、大変でも目の前にある壁を乗り越えようとする姿が輝いていて。壁を乗り越えられたから璃奈ちゃんのことが好きなわけじゃないんです。困難に立ち向かってどうにかしようとしていた眩しい璃奈ちゃんが好きなんです。経てきた辛い時間に対してのシンパシーだけじゃない。彼女自身が光り輝いているから僕は惹かれた。

 本当に、魅力的な子だと思います。表には出せないけれど活発で感情的で人との触れ合いが好きで、自分が真に自分らしくあるように努力できる子。見ていて応援したくなります。逆に、璃奈ちゃんに手を引っ張ってもらうこともあると思います。なんか本当に感傷的な気分になっちゃうな。今更だけど、自分の不得手なフィールドで己の武器を最大限尖らせて立ち向かった結果のライブがツナガルコネクトだったの目頭が熱くなっちゃうね。まだまだ彼女が超えるべき壁はあるだろうし、きっとそれに立ち向かっていくでしょう。その姿をまた応援できたら僕は嬉しいかな。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ここから本編です。
 以下では天王寺璃奈ちゃんの可愛いポイントを見ていきましょう。f:id:Ro_Puru:20210713025615p:plain

  ライブをやる!とみんなの前で宣言する璃奈ちゃん。璃奈ちゃん、コンプレックスっていう名前の心のストッパーが強固だけど、それを取り払おうとしたときどこまでも自分のパッションに忠実な女の子になっちゃうんだよね。思い立ったが吉日と言わんばかりに、直情的に行動しちゃう。それは明確に美点だよ。そうなんだ、璃奈ちゃんは本当は論理じゃなくて感情で行動を起こす、少し浅慮なところもあるかもしれないけど情熱のまま突っ走っちゃう子なんだ。子供っぽいとはまた違う、表に出せている部分とは裏腹に直線的な璃奈ちゃんが好きなんだ!

 

f:id:Ro_Puru:20210713024154p:plain

 次にこの肉球ソール。璃奈ちゃん、ローファーじゃなくてこだわりを持った自分セレクトの靴を履いているのがさりげなくオシャレ。見えない部分もこうやって気を使っているのが本当に可愛い。靴を選ぶときにチラリと見えたこのソールにきっとときめいてしまったんだね。友達がいなくて、ましてや靴底なんて誰に見せるわけでもないのに自分がしたいオシャレをする璃奈ちゃんの姿がとっても好きなんだ…。(でもこんなキモオタクに熱い目線を送られることは想定外だよね!)

f:id:Ro_Puru:20210713025126p:plain

 しずくちゃんのレッスンに励む璃奈ちゃん!汗をかきながら辛い練習にも真摯に向き合っています。前屈のように日々の特訓の成果を感じて思わずニヤリとする瞬間もあるんだろうね。それもこれも、歌でみんなと繋がるため。クラスの子達と友だちになりたくて、自分ができるとっていいパフォーマンスを見せたくて、こんなに努力しているんだね!そのひたむきな姿が僕の心を打つんだよ!

 

f:id:Ro_Puru:20210713030722p:plain

 できないからやらないはなしだから!と宣言する璃奈ちゃん。本当にもうこの子は、引くことを知らないと言うか、自分に素直でどこまでも真っ直ぐというか。自分の苦手分野で難しいことでもこうやって向き合い、克服しようと努力するのは璃奈ちゃんの本質的な部分なのかもしれないね。

f:id:Ro_Puru:20210713030854p:plain

 ここちょっと難しい顔してるの可愛い。

 

f:id:Ro_Puru:20210713031028p:plain

 この猫。なんだかすっごいキャピキャピした声出してるけど、璃奈ちゃん自室でマイクに向かって喋ったの!?璃奈ちゃん、人前ではダウナーな喋り方だけどこんな声出せるんだ…。(こうすると可愛いキャラクターができるかな…)なんて考えながら自分で声を当てた璃奈ちゃんが愛おしいよ。

 

f:id:Ro_Puru:20210713031331p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713031345p:plain

  床に反射した自分の”顔”を見る璃奈ちゃん。今度はちゃんと自分の気持ちを伝えられるね!

  璃奈ちゃんの表情に関して1つ。璃奈ちゃんが表情を外に出すのが苦手と言っても、それが完全に無であるわけではないってのは愛さんとの絡みから明らかですよね。そして、その限りなく無に近い表情の変化を読み取ってくれる愛さんとのコミュニケーションって、僕らが普段行っている顔を見ながらのコミュニケーションと変わらない。愛さんの前でだけは璃奈ちゃんは普通のコミュニケーションができる。コンプレックスが存在しないことと同じになる。これに気づいたとき声出ちゃいましたよね。

 

f:id:Ro_Puru:20210713032127p:plain

 ライブ中も璃奈ちゃんボードの表情は目まぐるしく変化します。もしかしたら普通の人よりも表情がよく動くんじゃないかな?これって自分の得意なところを武器にして璃奈ちゃんボードを用い自らのポテンシャル以上の感情表現ができるようになったって解釈していいのかな*5

 僕の好みの考え方としては、璃奈ちゃんボードは無に近い表情の変化を読み取って大きく表現する補助装置だっていう受け取り方ですね。イメージとしてはメガホン。あのライブ中に見せていた表情の変化は、全てボードの下で僅かながらも実際に起きていたって考え方。璃奈ちゃんはそれだけ感情豊かな子なんだって、僕は思ってるから。

 

f:id:Ro_Puru:20210713033219p:plain

 このとき、みんなと繋がってるんだね…。

 

 ライブ中、さすがに可愛いカットが多すぎて暴力的だなって思った。でもその中で僕が好きなところを1つ選ぶとすれば…

f:id:Ro_Puru:20210713032751p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713032920p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713032709p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713032719p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713032729p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713032741p:plain

f:id:Ro_Puru:20210713032658p:plain

ヒトツダケナンテエラベナイヨーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!

 

本当におわり

 

今回の元ネタ

twilog.org

*1:死語ですね

*2:僕らが持っているコミュニケーション手段では相手の心を完全に理解することはできません。だから、ここでは自負と言っています

*3:その頃のログはこのブログの過去記事にも、そしてTwitter(@Ro_Puru)にも残っています

*4:何も言わなかった周囲に責任をなすりつける意はありません

*5:ボカロを使って自分が表現できない歌声を作ってるようなイメージ

ラブライブ!スーパースター!!『まだ名もないキモチ』memo

 この頃は夕立(最近はゲリラ豪雨って言うのかな)がひどくていよいよ夏になってきたねって実感が湧きますね。まだまだ梅雨が明けなくて洗濯物が乾かなかったり、出かけると靴や服の裾が濡れていたりと嫌な気分になることも多いです。

 さて、夏になってきたのは気象の話だけではなくテレビの番組編成もそう。特にアニメにおいては7月になり夏クールが始まりました。夏アニメについて色々語りたいことがあるのはそうなんですが、今回は今日ようやく始まった『ラブライブ!』の新シリーズについて書いていこうと思います。

 

www.lovelive-anime.jp

 

 と言ってもまだ1話ですし、ラブライブ文脈にそこまで明るくない僕に書けることはあるのでしょうか?TLのオタクに影響されてブログを開いたものの、まだ何も考えていません。この文章がインターネットに公開されているということは最低限の体裁は保てたということなんでしょうが……。*1とはいえファーストインプレッションを残すことそのものに価値を感じるのも事実なので、とりあえず1話について書いていきましょう。


1. 舞台について

 まず、舞台である結ヶ丘女子高等学校。今回は新設校が舞台。といっても前身校?の流れを汲んで音楽科はその歴史を引き継ぐ役割を与えられ、完全に新しい普通科と対比になっています。キャッチフレーズにある『はじまれ!新しい「私」――。』と関連付けるなら音楽科/普通科は新しい私以前/以後といった感じになるのだろうか?

 スクールアイドルという(恐らく)新しい音楽の形に旧態依然とした姿勢で反発する葉月恋は、保守的な音楽科を象徴しています。これは完全に想像ですけど、保守的な音楽科、進歩的な普通科という風になるのかな?どちらが優れている劣っているとか、そういった次元の話にはならないでしょうが今後の展開が気になるところです。ここを気にしてることそのものがスパスタの道筋とズレてる可能性も大いにありますしね。

 

2. 千砂都との会話

だって音楽科って、歌にしても楽器にしてもダンスにしても、それ専門でずっとやってきた子ばかりだからそっちの方が大切っていうか

 キッチンカーのカウンターでかのんと千砂都の会話も少し気になりました。とっても悪い言い方をすれば、音楽科は今まで自分がこもってきた殻に入ったままのやはり保守的な存在として描かれているんでしょうか?まあ、今触れたいのはそこじゃなくてそれぞれの専門があるってことで。アイドルって歌にダンスに楽器に色々な要素が混じり合った音楽じゃないですか*2。この違いが物語の展開に絡んでくるような手応えは正直ないですが、ちょっと気になったので文章として残しておきます。

 なんだか僕は音楽科と普通科の対比に結構こだわり始めていることに記事を書いている内に気づいちゃいました。上にも書いたようにあんまり意味のある思考にも思えないし、視野を狭める可能性があるからあんまり囚われないでおきたいですね。

 

3. 澁谷かのん

f:id:Ro_Puru:20210711233957p:plain

 本作の主人公。PV時点で結構擦れてるっぽいな~とは思っていて、いや想像以上でしたね。

f:id:Ro_Puru:20210711234419p:plain

ラブライブの主人公ってこんな顔していいんだ……。夢破れた直後だからとかそういうのではなくて、かのんのキャラクターそのものが反骨精神旺盛というか、有り体に言って擦れた女の子という感触です。

 

 で、彼女のパーソナルアイテムのヘッドホン。この存在は気になりますよね。1話では外界の音を遮断するために使用されています。リアルタイムでは自分の気持ちから目をそらし、外の世界に背を向ける姿を象徴しているのかと思いましたけど、少し考えてみると違う気がしてきました。でも、ヘッドホンで自分の好きな”音楽”を聴いている間だけは自分の気持ちと向き合えているのでしょうか。最後の校門で踵を返すシーンでそんなことを思ったり。

 保守的な風潮をぶっ壊す存在としてかのんがどう活躍するのか気になります。

 

 あと、かのんを見ていて思ったのは「下手の横好き」だなあと。歌は上手いけれど人前に立ってそれを行うのが苦手なかのん。ここが”下手”にあたるのかな。

 これ、かなりいいなと思いました。自分の好きなこと・やりたいことと自分のできることが合致してないことって往々にしてあるはずです。ラブライブは、スパスタはこんな人達を応援してくれるアニメなのかな。

 

(追記)コンプレックスを抱えた女の子っていうのを書こうと思ってたのに完全に忘れてた!それはまた今度の機会に……。

 

4. ラブライブ!として

 見ていてすげーラブライブだな!って思いました。雰囲気というか、主張を婉曲表現を用いず真っ直ぐに視聴者まで届けてくる姿というか。好きな気持ちに嘘をついちゃダメとか、それを頑張るのに終わりはないとか、とにかく頑張る人を励ます姿が。僕はラブライブを応援歌だと思って見ているフシがあって、スパスパもその像に合致してるんですよね。見ているとこちらまで何かを始めたくなるというか!

 でも進歩的(保守的の対義語として使用)な部分もありつつ。それは、メンバーが5人であることが筆頭に挙げられると思います。あとはかのんの主人公像そのものが革新的な気もします。……うーん、やっぱり保守的な思想と進歩的な思想の対比をしてしまう……。これから話が進むにつれこういう部分に注目して見てみるの面白いかもしれないな。

 

5. 雑感

 つらつらと思ったことを書いてきましたけど、なんだか中身が伴ってないですねやっぱり。1話で何かを書こうとするのって難しい!確信的なことが何も言えないっていうのはもどかしいですね。

 これはかなーり薄い線ですけど、スパスタは客観的評価への反逆もあったりするのかなって。正直5%ぐらいしかないかなって思ってますけど……。というのも、かのんは受験に落ちて夢を諦めようとしますよね。自分の気持ちと関係なく、他の誰かに音楽の技術がないと烙印を押されこうした事態に追い込まれているわけです。でも、自分が好きなら、やりたいなら他の人の評価なんて気にせずやっていいんだ!みたいな。これは下手の横好きの話とも繋がってますね。僕という人間自身、何もできることがない劣等感に苛まれながら生きているのでラブライブにこうして背中を押してもらいたいのかな、なんてかなり邪悪な思惑が混じっていることが否めませんが……。いや、この見方は本当に良くないですね。でもファーストインプレッションでこう思ったのも事実なので正直にここに告白しておきます。

 

 なんか思ったより文字数は多いけど中身はペラペラな記事ですね。ブログってやっぱりブログを書きたいから書くんじゃなくて、書きたいことがあるからブログを書くんですね。自分に刺さる回があればまた何か文章を残したいです。(日曜夜は見るアニメがあまりなくて時間があるので来週も書くかもしれないですが)


*1:この文章を書いている今(2021/07/11 23:02)は本当に何も考えていなくて表に出すことができるのか不安です

*2:アニメを総合芸術って言いたくなる気持ちと重なる

【タグ企画】僕がラブライブ!を追いかける上で大切にしているもの

 このところやけに日差しが熱いと思ったらもう7月なんですね。今年の梅雨はあまり雨が降らないので「夏が来る!」と身構える暇もなく、シームレスに季節の移行をするらしいです*1

 そんな7月も目前に迫った今、月末には『ラブライブ!』の誕生日があるようです。去年までラブライブのオタクではなかった僕としては初耳でしたが、ずっとシリーズを追ってきたオタクにとっては周知の事実かもしれませんね。そこで、Twitterでフォローしている方の一人がその日に合わせてタグ企画を考案してくださったので今回はそれに乗じた記事になります。

詳細は↓

 

 ラブライブ!』を追いかける上で大切にしているもの。なるほど、難しいねですね。というのも上述の通り僕は去年から、正確に言うとアニガサキからラブライブコンテンツにハマったオタクなので、まだそういった信条が醸成しきれていないような気がします。今はただがむしゃらに供給についていくのが精一杯で。

 でも”アニメ”を見て強く感銘を受けた要素は多々ありまして。本来の趣旨とはズレてしまいますが、今回はそれら3つを挙げて文章にする形式にしたいと思います(勝手なルール変更申し訳ないです!)。ラブライブのアニメで好きな要素、”大切にしているもの”から当たらずも遠からず、ギリギリセーフ判定ということで……。

……

………

気を取り直して。

 

 それではさっさと本題に入ってしまって、僕がラブライブのアニメで好きな要素はこちら3つになります!

「瞬き」「循環」「パッション」

恐らくこれで僕が何を言っているのかピンとくる人はそんなにいない気がします。なので、今回の記事は読んだ人にこれら3つの単語へ込めた”好き”を伝えられることを目標にしていきましょう。

 さて、前フリが長くなりました。ここから本当に本文です――。

 

 

「瞬き」

  これは『サンシャイン!!』を強く意識した言葉選びになっていて、一瞬の輝きとも換言できます。サンシャインで千歌ちゃんが常々口にしていた「輝き」を指しており、特に「今しかない瞬間」を輝こうとする姿勢に美しさを感じたという意図を込めてこの言葉を選びました。

 スクールアイドルをやる上で唯一と言ってもいい条件、それは「学校に所属している」こと。高校生の間でなければならない時間制限。この「今しかない」制限が彼女らを必死に輝かせ、青春という尊い瞬間の価値を高めるのです。僕はサンシャインのこの姿勢、その魅力を端的に表すものとして「瞬き」を1つ目の言葉に挙げました。

補足:サンシャインを意識してこの言葉を選びましたが、初代もこのテーマを持っているはずです。因果関係が逆で、初代の持つ「青春」のテーマをサンシャインでは殊更前に押し出したのだと思っています。

 

 自覚的か無自覚的だったかは分かりませんが、千歌ちゃんは人生で3年間しか与えられない高校生活の尊い時間を存分に楽しもうとしていました。自覚的だったかどうかとは、本当にその尊さの意味を理解していたか?という部分です。これは僕の想像ですが、きっと千歌ちゃんは2期13話のラストまでこれを分かっていなかったんだろうなって思います。言い方を変えればWONDERFUL STORIESの瞬間にやっとそこまでたどり着けた。

 青春はかけがえのない時間。この一般論は普通に生活していたら刷り込まれる常識的な概念でしょう。千歌ちゃんも知識的にはこの事実を認識していたはずです。でも、僕はこの一般論の本当の意味は自身で経験してみないと知ることのできないものだと考えています。というのも、僕自身が中学校・高校を卒業し初めてあの時間の尊さを知ることができたからです。一度過ぎ去ってしまえばもう手の届かない他愛のない日々。友人と目的もなくぐーたらと過ごしていた、当時は無意味と思っていた時間すらも含めて全てが愛おしいのです。この感覚は、過ぎ去り・終わってしまった今だからこそ分かるものです。青春ってきっと現在進行系で感じられるものではなく、終わってから分かる完了形な概念なんでしょうね。

 

 サンシャインは千歌ちゃんがここまで到達するお話だと捉えています。上に書いた通りWONDERFUL STORIESが千歌ちゃんの到達点で、ここでやっと今までの時間全てが大切だったと自覚するのです。スクールアイドルとして結果を残すとか、μ'sの足跡を追うとか、特別なことだけが輝きなのではなくて、それに向かって必死にもがいていた過程こそが輝きだったんだ、と。26話かけた末、ラスト2分でこれをキャラクターに自覚させてモノローグを流すやり方、完全に負けました。このモノローグ1つでサンシャインを今ほど好きになったと言って間違いないです。

 やっぱり青春って完了形なんだと思います。だからTVシリーズで全てをやりきった最後の最後でこの答えを持ってきた。

  青春は完了形な概念と言いましたが、これは青春に終わりがあるからこそ発生する考えです。入学に始まり卒業に終わる。時間が限られているから、人生で一度しか与えられないから尊い。この作品の思想に強く共感し、それを描く手法(最後の最後に自覚させる)に感動を覚えたので、話は戻って僕は「瞬き」を選んだという文章でした。

 

 

「循環」

  こちらは『虹ヶ咲』を強く意識した言葉です。僕は虹ヶ咲最大のテーマに「夢を与える・応援する」があると思っていて、「循環」はこれを体現する要素です。夢を与える・与えられる、背中を押す・押される、応援する・されるなどなど……。象徴的なのは、

1話:せつ菜(=スクールアイドル)→侑(=ファン)

3話:侑→せつ菜

12話:せつ菜→歩夢

13話:歩夢(=スクールアイドル)→侑(=ファン)

のようにグルグルと関係が循環しているところです。一般性を持たせた言い方をすれば、アイドルとファンでキャッチボールを続けて最終的にアイドルはファンへ夢を与え応援する立場になっています。

 個性を大切にして、個人(=自分)のやりたいことを最大限尊重するこの作品の帰結が他者へ向かったものなのってすごく綺麗じゃないですか?少なくとも僕はそう思ってます。この結末が描かれた13話があったからこそ、虹ヶ咲は数ある好きなアニメの1つからオールタイムベストアニメの片割れにまで僕に食い込んできたんだと感じています。

 

 ラブライブシリーズにおいて、アイドル→ファン方向の矢印がここまで強調されるのは恐らく今までなかったことです。主格をアイドルからファン(侑)にシフトさせ、僕ら(ファン)と一致させたのも新しい試みです。僕の知る限り、この手法を使った作品自体珍しく『推し武道』ぐらいしか思いつきません。プロデューサーや裏方に徹する人物を主人公とした作品は『アイマス』を筆頭に多々見られるものの、純粋なファンをこの位置に置いたものはそうそうないはず。今やアニメ界においてアイドルコンテンツを牽引する立場であるラブライブがこんな挑戦的なことをするのは驚きでした。

 見る角度によっては、虹ヶ咲は僕らをこの循環に引きずりこんだアニメとも言えます。僕はこのアプローチが最大限に活きたのは3rdライブの夢がここからはじまるよなんじゃないかなって感じています。あの瞬間、僕らがファンとして侑ちゃんを媒介に作品へ参加していた形から、”僕ら自身”が虹ヶ咲に参加する形に作品との関係性が変質しました。これはアニメと現実をリンクさせコンテンツを展開させてきたラブライブだからこそできたことです。キャラクターと声優が一体であるから、あのライブで僕らは同好会を応援するファンの一員になれた。

 

 僕はかなり強くアニメと現実を区別してきて、キャラクターと声優は絶対に交わるものでないスタンスでオタクをやってきました。それが壊されたわけです。今まで長く取り続けていた姿勢を崩され、新しいオタクコンテンツとの関わり方を知りました。それは虹ヶ咲の「循環」によるものです。循環の一部に自分自身が組み込まれキャラクター・声優を応援し、3rdライブではあちら側からお返しをされた。お返しをされるって言うと中々傲慢な物言いになりますがこれが虹ヶ咲の循環に取り込まれることの意味だと思ってます。

 話の筋が最初とズレてきているような気もしませんが、言いたいことは概ねこれです。ラブライブの中の特に虹ヶ咲のオタクと自負している自分は、これからも作品がぐるぐると巡らせている循環の渦の一部としてコンテンツを楽しんでいければと思います。あれ、もしかして図らずもラブライブ!を追いかける上で大切にしているものの文章になったのではないでしょうか?

 

 

「パッション」

  これはラブライブシリーズ全てを意識した言葉です。恐らく全てのシリーズの根底に置かれており、これを基にアニメが作られているような感触があります。やりたい気持ちとか、トキメキとかそういう形で言及されていたものを一般性の高い言葉で表したものが「パッション」です。初代からリアルタイムで追ってきたシリーズではありますが、明確に気づいたのは虹ヶ咲を見てからなんですよね。

 やりたい気持ちから目を背けるなとか、ワガママではなく自分に正直って言うんだよとか、何かをしたい自分の気持ち=パッションを大切にしている言説はそこかしこで散見されます。上述のようにこれは虹ヶ咲だけの性質ではなく初代から貫かれている姿勢です。きっと、従来シリーズからのオタクにとっては当たり前の事実かもしれません。でも、僕にとってこの気付きこそがラブライブシリーズ全体を好きになれたきっかけです。『ラブライブ!シリーズ』が視聴者に向けて発信し続けてきたこのメッセージはとても優しく温かいものだと思います。

 

 自分のやりたい気持ちこそが従うべき指針。これってすごく勇気をもらえませんか?何かを始めるきっかけがあったとき、様々な事情からそれを自制しようとする心の働きが発生するシチュエーションは普段生活をしていても珍しくありません。そんな中でこの作品群から感じたモノを思い出せれば、きっと背中を押す手助けになるはずです。

 ラブライブは創作物です。でも、創作物が現実を生きる自分に影響を与えることって往々にしてあることだとも思います。虹ヶ咲の循環に自分が組み込まれたように。ラブライブシリーズには現実の僕らの手を引っ張るだけの熱量・パッションが込められています。だから、ラブライブから背中を押されることってそう変なことじゃないです。だから、これから僕は劇中の彼女らのように己のパッションを信じていこうと思います。あれ、もしかしてまた図らずもラブライブ!を追いかける上で大切にしているものの文章になりました?

 というわけで、手始めに金銭面にどうにかなる目処が立っていないQU4RTZのファンミに応募してみようと思います。ライブに参加したいっていう自分のパッションに従ってね――。

*1:これを書いてる日以降の天気予報は雨なので、もしかしたら投稿当日は梅雨らしくなっているかもしれませんね

『映画大好きポンポさん』ファーストインプレッション と 少し『劇場版 少女 歌劇 レヴュースタァライト』

 今日はTLで評判のよかったポンポさんとスタァライトを見てきた。ポンポさんに関してはTLで名前を見かけるまで存在を知らなかったし、スタァライトの方は当初見るつもりがなかったので本当に他人からの影響で劇場まで足を運んだ次第だ。

 結論、影響されてよかった。完全にアニメサイコ~~~~!!!の気分になってます、今。同時に自分のアンテナの低さとアニメを見る目のなさにがっかりしたり。

 

 この2作品を見た瞬間から色々アウトプットしたい感情がフツフツと湧いてきて、こうして久しぶりにブログを開いた。Twitterでベラベラと喋るのも憚られるし、ふせったーのような便利なサービスもあるけど後で見返すにはブログの方が便利かなと思って。

  こんな具合で映画について順を追って感想を書くことが難しく、この記事の中身としては要素要素をかいつまんで自分の考えを添えていくって流れになる。この作品はどういったものなのか、みたいな作品自体に踏み込んだモノまで書けない。僕の脳内をひけらかす自分語りが主な内容だ。

 

 

  

映画大好きポンポさん

  この映画は大きく前半・後半で分けられるものだと思う。前半は映画作りとは?について、後半はパンフレットにもある通り一歩踏み出せない人たちへの応援歌。前半は主にクリエイター側に立った話になるのだけれど、その際にポンポさんから発せられる言葉について書きたいこと・考えていたことがあって、

・大衆ではなく、誰かに向けた作品の方がよい

・魅力的な人物を魅力的に見せることができればいい

ここらへん。記憶がおぼろげなので多少のニュアンスの違いがあるかもしれないけど、概ねこんなことを言っていたはず。

 

 まず1つ目。これは本当にそうだと消費者の僕は思う。月並みな主張だとしてもこうハッキリ言ってくれる作品は嬉しい。コルベット監督も言っていた通り、狭い範囲に向けた作品というのは輪郭がはっきりして受け手の奥深くまで突き刺さるものだと思う。ただそれが必ずしも良いものかというと難しくて、ポンポさんたちが撮っているのは商業映画。お金を稼げるかどうかが価値観の中でかなり高いところにある。それを抜きにしても、”創造物”として多くの人にウケる方が良いのか、それともニッチな層により響いた方が良いのか、これは決着のつかない議論だろう。だとしても、ポンポさんは大衆よりも特定の範囲へ向けた作品を作りたいと言ってくれた。それが僕には嬉しかった。そしてジーンもまたこの作品の主張に則っている。『MEISTER』は特定のとてもとても狭い層、ポンポさんただ一人に向けて作られた映画だ。「誰かに向けた作品作り」を極限まで尖らせて体現したからこそ、『MEISTER』はポンポさんに届いた…のかな*1。あと、内容的にB級映画ばかりを撮るポンポさんや、『MEISTER』が劇中の世界で評価されていたのはこの作品の優しい嘘なんだろうな。

 作品の話になってしまったけれど、これは消費者――僕らにとっても間違いない。自分の深いところまで食い込む作品が見たいという願い。いやむしろ金銭面のことなど関係なく、何のしがらみもなしに作品を受容できるからこそ言えるワガママな望みなのかもしれない。より楽しめる作品を見たいのは誰しもそうだ。作品を観る側の人間からすれば先程の話(どんな作品が優れているのか)の答えは明白だ。自分にどれだけ深くささるか、これだけが絶対の指標。ポンポさんは商業の人間でありながら、対象が狭くとも僕らに深く刺さる作品を撮りたいと言ってくれた。だから僕は嬉しかった。いわば僕らにとっての理想のクリエイターだったのかもしれない。『映画大好きポンポさん』の表現していたものからズレた話にはなっていると思う。だけども、これが僕の感じた正直な感想だ。

 話が逸れるけれど、「ガンマ線で突然変異した巨大アリクイに美女がベロベロ舐め回される」映画、絶対面白いでしょ。

 

 次に2つ目。これは『映画大好きポンポさん』ではなく、ポンポさん自身の信条なんだけど、これとは食い違いが起きた。僕はキャラクターよりも作品そのものが言っている理念に共感できるか、感銘を受けられるかに重きを置いているのであまりこんな価値観は持っていない*2。あとは物語の構造が綺麗かとか。あくまでもキャラクターは作品の1パーツでしかないと僕は考えてしまいがちで。でもポンポさんは違うらしい。彼女は人物を軸に、しかも現実の女優を輝かせるために作品を生み出すこともあるらしい。僕の嗜好とポンポさんのスタンスの違いから、彼女が本当に特定の層へ向けた映画を撮っているんだなと感じられた。ターゲットの外側にいるからこそ、ポンポさんの尖りが分かるんだと思った。

 で、面白いと思ったのが女優に合わせて作品を作るっていう順番。これは明白に現実を切り取って作られる実写映画特有の手順だ。アニメでは起こり得ないはず、声優からアニメを作るなんて*3。どちらも映像があって音があって平面上のスクリーンに映し出されるコンテンツ。なんとなく同じ箱に入れがちだったアニメと実写映画が明確に違うと感じさせられた。僕らにお出しされる映像作品そのものは本質的にそう違うものではないかもしれないけど、その作製過程は全く異なるのだ。

 フォロワーさんのブログを読んで気づいたこともあって。実写映画は現実を切り取って作品とするものなので、完全に作りたいものをコントロールできるものではない。対してアニメはクリエイターの思いついたことを全て表現しきることができるというもの。曲解にならないか怯えつつもう少し踏み込んだこと言おうとすれば、実写映画は自分の頭の中以上のものを撮れる可能性があることになるのかな。まさしくアクシデントから生まれたシーンなんかそう。製作者の考えを100%表現できるとは限らないけど、それ以上のものを作れるポテンシャルもあるというか。どちらが好きとかそういう話ではないが、上に挙げた後者のセリフからアニメと実写映画の違いみたいのをぼんやりと考えていた。

nun-tya-ku.hatenablog.com

 

 

 映画の後半はアランが主要人物に加わってくる。パンフレットを読んで知ったのだけれど、アランってオリジナルキャラクターなんですね。これはちょっと腑に落ちたところかもしれない。映画『映画大好きポンポさん』をこうやって綺麗に真っ二つに分けられるところというか、ネガティブな意味は一切無いけど映画の中に不連続さを感じる部分があって。それが応援歌の箇所だったんだけど。それで、後半のメッセージ性の強いところの核にいるアランそのものが追加要素ならその感覚にも納得いくなって。もう一度書くけど、映画そのものに違和感があったとか、不自然に感じたとか、話の軸がブレてるとかそういうマイナスなモノを感じたわけではない。「あっこっちが主題なのかな」って鑑賞中に認識を更新したポイントがあり、それが本来いないはずだったアランの存在だったっていうだけの話。

 

 この映画でもう一つ言われていた「切り取る」の部分。こちらは正直まだよく分かってない。映画作りという意味では、仲間と意見を出し合いながら撮った愛着を抱いているであろうシーンを編集作業で削除するところが象徴的に描かれているので分かりやすいんだけども。過去の幸福を「切り取って」生きてきたジーンだからこそ良い映画を創造できるっていうのがあまり飲み込めていない。自分だけの世界を構築できるという説明はあったけど、そんな表面的な話ではないだろうって手応えだけが残っていてなんとも消化不良だ。また観るときに確認したい事項の1つ。

 

 他にも鑑賞中に考えていたことがあった気がするけど、最初に書いたように記憶力が悪いので忘れてしまった。そんな状態で言うのもアレだけど、ポンポさんとてもよかったのでまた見たい。

 

 

劇場版 少女 歌劇 レヴュースタァライト

 この映画ことは正直全く分からなかった。「前へ進め!」これだけのことを苛烈な方法で表現したものだってことだけは分かったんだけど……。端的に言えば卒業、門出の話。TV版の方も全然噛み砕けていないし、この状態で観たのが間違いだったのかもしれない。けれども、何もよく分からなかったけど最高に楽しい体験をできた。この”楽しい”の原因がなんだったのか言語化したいので早く円盤を買って何回も見返したいね。

 前へ進むためにわだかまりを解消し、囚われていた過去を焼却する。こう受け取ったんだけど、ここはそう間違ってないと思う。象徴的なのは東京タワーの破壊。劇中では燃やされ、EDでは折られた東京タワーくん。ひかりとの決別もそうだ。とにかく前へ進むべきことを示している。狩りのレビューはまた少し違った含みもありそうだけど、セクションの最初に書いたとおりよく分かってない。前へ進む際の心得的なメッセージになるのだろうか。トップを目指せっていう。

 

 話の内容がよく分からなかったので僕が大好きな女の子「大場なな」について感想を述べることしかできない。とにかく、とにかくかっこよくて可愛かった!新国立第一歌劇団(で合ってたっけ?)へ向かう地下鉄が皆殺しのレヴューの舞台に変わるところ。梶浦さんが作曲したような激しい劇伴が流れ出して、記憶にある限りTV版ではこういうサウンドがなかったので何が始まるの!?ってはちゃめちゃに興奮してた。そこで現れる機械機械した照明や音響たち。舞台というよりライブ会場。そこで足でリズムをとる大場ななちゃんが最高にかっこよかった。大場ななちゃんの魅力はやっぱり足にあるのかもしれないですね。いや、全身良いんですが。

 やっぱりななちゃんは擦れた言動にこそ真価があると思う。キャラクターの魅力っていうのはギャップの大きさそものに直結すると思っていて、これに関してななちゃんはかなりギャップの大きいキャラだ。みんなに好かれる優しい子。いつも笑顔で、みんなが大好きで。普段のななちゃんの言動だけじゃない。6話までのスタァライトを見ていて、こんな激しいキャラが出てくるんだ!っていう驚きも加わって7話で生まれるななちゃんの高低差はひどく僕の心を掴んだ。劇場版ではその高低差がさらに大きくなったように思える。さらに尖ったキャラ造形になってる。これはななちゃんに限定せず全員に言えることだと思うけど、劇場版はそれぞれのキャラがさらにさらに尖った造形になっていて、9人の中に推しがいるオタクには刺さるモノになっていた。ポンポさんの話ではないが。

 皆殺しのレヴューでみんなをバッサバッサ倒していく姿はやはり爽快。大葉ななちゃん、本当に強い。劇伴とキレッキレの動きが噛み合わさって最高の映像になってた。ななちゃんのオタクで本当に良かった。正直、あのシーンを見られただけで劇場まで足を運んだかいがあった。

 狩りのレビューでも足が印象に残る。純那ちゃんに切腹用の刀を差し出すところ。失望の具合が伝わってきて、あんなに優しいななちゃんがこんな態度をとるなんて……ここもまたギャップ。また、軍服も似合っていて。

 ななちゃんはこの映画ではみんなの背中を押す役割を担っていてくれたのかな?断言はできないけれど。舞台創造科にも属するななちゃんはある意味 舞台の外側にいる人物なので、俳優科の彼女たちが舞台少女として死んでいるのが客観的に分かっていたのか?TV版の再演でも舞台を作る側に回っていたり、やっぱりこの子の立ち位置っていうのは特殊だ。舞台少女でありながら、観客でもあるというか。

 EDで王立演劇学院(で合ってたよね?)に進学しているのを見て嬉しくなってしまった。ななちゃんの本当の実力が垣間見えるのと同時に、99期生のみんなと物理的に離れることができたななちゃん。純那ちゃんへの依存にも近い好意を焼却(振り切る?)して前へ進めたんだね。

 

 大半は大場ななちゃんへの文章になってしまたけど、「前へ進め!」これだけのメッセージを激烈な手段で示した劇場版スタァライト、本当に爽快だった。もう何回も観たい。スタァライトに真剣なオタクに、なりたいな……。

 

 

 1日にこんないい映画を2本も観てしまって満足する日だった。

*1:2回目見るときに確認しておきたい

*2:スタァライトの感想を書いて気づいだんですけど、やっぱりこれ嘘です。僕は魅力的なキャラクターがいると作品に加点をするオタクです

*3:あとから思い出したんですけど『ミス・モノクローム』がありましたね

【アニメ感想文】ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 あんなに楽しみにしていたニジガク3rdライブも終わってしまいましたね。この数ヶ月、あのライブに参加することを希望に生活していたのでその穴は大きいです。とてつもない充足感と同時に大きな穴が心の中に同居している不思議な感覚……。この穴を埋めるにはやはり虹ヶ咲のことを考えることしかないのでしょうか?

 ということで、今回はいつか書きたいと思っていたアニガサキ全体の感想文について述べていこうと思います。なるべくコンパクトにまとめたいですが、書きたいこともそれなりにあるので程々のバランスでいければいいかな。

  • 文中でこの箇条書きを多用していますが、書かれていることは長い脚注みたいなものなので読み飛ばしてもらっても問題ないです。

 

 (5/13追記)コンパクトに収めることに失敗しました。せめて自分の考えが伝わるように整理できていたらいいんですけど…。

 

 無駄に項目を分けすぎて威圧感のある目次になりましたが、それぞれが短文の集合ですので、気になった箇所だけ読むって感じでもたぶん大丈夫です。

第1章 個の尊重

 アニガサキの最も重要な要素と言っても過言ではない個の尊重。1章ではスクールアイドルっていう一人称にフォーカスした話ができればいいかな。

第1節 衝動の肯定

 上に書いたとおり、アニガサキには何よりも重要視している価値観に「個の尊重」があります。個人の意志を最も位の高い場所に置き、これが阻害されてはいけないと全編に渡って言っているのです。もう少し正確に言うなら、意識が発生して理性が介在する以前の段階――衝動」*1を徹底的に肯定しています。有り体に言えば、自分の欲求に正直であれということ。まずはこれを軸にアニガサキを見ていきましょう。

第1項 自己の衝動の肯定

  これに関して象徴的なのは歩夢です。歩夢の抱いていた衝動はピンクや可愛いものが好き・スクールアイドルをやってみたいというもの。高校生になってまでそんなもの着られない・受験があるなどなど理由を付けてこの欲求を解放させることを拒んでいました。そこで、1話と12話で2度登場したセリフ――「動き出したら止めちゃいけない。我慢しちゃいけない」がキーとなります。「衝動が芽生えたのならば、それを自制することは許されない」と換言できるほど強い意志*2を持ったこのセリフが歩夢、ひいては作中の人物の衝動を肯定していきます。

  • 実はアニガサキから過去ラブライブシリーズを見返してから気づいたのですが、これって全てのシリーズで一貫して主張されていたことなんですね。

    ro-puru.hatenablog.com

    初代を見返したときにこのことについて言及した気がします(してなかったらごめんなさい)。さらに、感想文は書いていませんがサンシャインについてもそうです。サンシャインに関してはむしろここをかなり強く言うアニメだったんじゃないでしょうか。動き出すこと*3への強力な激励と言いましょうか。サンシャイン2期の最終的な結論として、やりたいこと見つけて動き出した瞬間から人はもう輝いているというものがあります。これも自分に正直になってやりたいことをやる姿勢の肯定です。輝きを求め続けていた千歌に対し、実はずっと輝いていたんだよという答えを自覚させることで今までの自分を、もっと言えばスクールアイドルを始めた瞬間の自分を肯定させています。このことから、サンシャインには単なる衝動の肯定よりも強い意志が感じられました。

 3話のせつ菜、5話の果林、7話の彼方、そして8話のしずくもそうでしょう。みんな、スクールアイドルを始めたい・続けたい、自分をさらけ出したい等々の想いにストップをかけていました。けれども、彼女たちは最終的に自らの願いを成就させるために行動します。これらの話が描いていたことにもやはり自己の衝動の肯定の側面があると僕は感じました。

 特に印象に残っているのは7話です。彼方はスクールアイドルを続けたい、勉学・アルバイトを疎かにしたくない、遥のスクールアイドル活動を応援したいと、自分のキャパシティを超えた欲張りな「ワガママ」を通そうとします。結果的に遥と役割を折半することで話はまとまるのですが、この「ワガママ」をアニガサキでは「自分に正直なこと」と表現しました。ニュアンスを変えただけの言葉遊びのようにも感じますが、抱いた欲求(=衝動)をネガティブなものと捉えず、発露されるべき人間の本来の姿と極めてポジティブに扱っています。

 

 例に挙げた人物たちは例外なく自己衝動にストップをかけ、理性と欲求(=衝動)の板挟みで思い悩んでいました。このストップをかけるという理性的な部分も人間の意志ではあるのですが、やはりアニガサキで尊重されているのは節の冒頭で書いた通り衝動そのものです。衝動を肯定するとは、言い方を変えれば理性のストッパーを破壊するということでしょう。話の進め方を見ていると、むしろこちらの表現の方が適切かもしれません。アニガサキでは、自分の欲求を思い留まらせる理性を取り払い、その人 本来の姿を表出させることに重きを置いていました。ピンクや可愛いものを身に着け、歌を歌い踊りを踊った歩夢のように。

 

まとめ:アニガサキは、自己の衝動を肯定し理性によって抑圧されていたその人 本来の姿を表出させるべきだと言っている
第2項 他者の肯定

  対してこちらは象徴的なのが侑です。というか12話までの侑は、他者を受け止める役割を軸に肉付けを行った結果生まれたキャラのような質感すらあります*4。1項と対応させた書き方をするならば、侑は他人の中に存在するストッパーを取り払う手助けをしています。実際問題として、誰もが自分だけで理性的な部分の問題をクリアできるわけではありません。なので3話のせつ菜のように、自分の外側から背中を押してもらうことで、自らの衝動を押し通すための力とするわけです。そのための侑です。衝動を肯定した後、本来の姿を表したせつ菜のライブの後に褒めちぎるアフターサービスまで完備しています。やりたいことをやるよう煽るだけ煽って、実際の姿を見たらやっぱり…なんていうのは筋が通らないですし、優しくないですからね。

 侑へ歯に衣着せぬ言い方をするなら、他キャラクターの行動を無条件で肯定して背中を押す舞台装置です。役割だけを見ればこんな物言いになってしまうものの、劇中の彼女からそういった機械的な印象を感じられなかったのがこのアニメの巧いところだと思いました。

 そして、果林を肯定するエマ、璃奈を肯定する愛、しずくを肯定するかすみなど、侑だけがこの役割を担っているわけではありません。また、12話で歩夢を励ますせつ菜も。アニメの中では他人の意志を肯定する場面が多々現れます。

 

まとめ:アニガサキは、他者の衝動と、本来の姿を表した他者そのものを肯定する
第3項 1節まとめ

 1項と2項で書いたようにアニガサキでは衝動は肯定され、人間は内に秘めた欲求を解放するべきだと言っています。これは僕の思想が混じってしまいますが、人間は自分のやりたいことを実行するために生きているはずです。趣味であったり、社会貢献であったり、その形は問いません。とにかく、自分の欲求を満たし満足するために生きているのです。アニガサキはこの姿勢に肯定的と言えます。衝動という名の欲求を理性の抑圧から解放させ、その人の本当にやりたいことをやることを応援しているからです。これこそ、章のタイトルにもした「個の尊重」ではないでしょうか?

 

第2節 衝動を肯定したからこその『ラブライブ!

 1節で書いたようにアニガサキは個の尊重に徹底した姿勢で話を広げていきます。そして、このように根幹のコンセプトである個を尊重することと、そのためのアプローチである衝動の肯定によって従来シリーズと比較し異色の作品となっていきます。

第1項 グループが一色に染まらなくなる

 グループが一色に染まらないことから生じた変化は、これまでの『ラブライブ!』シリーズと比べて最も大きいと言えるはずです。スクールアイドルはグループで活動するもの、明言はされていませんでしたが今まで登場したスクールアイドルは全てグループ単位での活動をしてきました。しかし同好会はグループという1つの色に染まらずに、個人の持つ色を尊重していく方向に舵を切ります。これはどういうことか言わずもがなお分かりでしょう。ソロでの活動です。

  • 高坂穂乃果という絶対的な光でμ's、そのファン、スクールアイドルを愛する者たちを1つの色に染め上げたのが初代。各々異なる色を持っていても、それらをまとめあげて1つの色*5になれると言ったのがサンシャイン。対してアニガサキはそれぞれの持つ色で衝突が起きたとき、誰かが折れるのではなく、1つにならなければいけないというルールの方を曲げたのです*6

 ソロ活動をするに至った直接的な原因に2,3話で描かれたかすみとせつ菜の衝突があると言い難いところではありますが、理由は明らかにあそこにあります。4話時点では先程挙げた2名ぐらいしか明確な己の目的地を見定められておらず、他は漠然とこんなことをしたいな。ぐらいの意識でした。とはいえ、漠然としていてもメンバー同士の方向性の違いは明らかであり、各人がそれぞれの向いている方に走り出そうとしているので、1つのグループにまとまる(=1つの色になる)のは至難でした。事実、たった2名の方向性の違いですら一度は解散してしまったのですから。

 なぜ過去シリーズのように1つにまとまることができなかったのか。これは過去シリーズと違い彼女らには1つになる為の目的がなかった・必要がなかったからです。次項ではそれについて書きましょう。

第2項 それぞれに目的地が存在する

 1項で彼女達は1つにまとまる必要がなかったと書きました。それはそうです。彼女らの通う虹ヶ咲学園は超大規模校。校舎も立派、生徒も相当数いると推察されます。過去シリーズのように廃校の危機に瀕した学校を救うなんてシチュエーションではないです。

 少し曲解じみた言い方になってしまいますが、初代・サンシャインの両者は1つになるよう外側から「廃校の危機」という大きな圧力がかけられていたわけです。対して同好会には、そういった9人全員を同じ方向に向かせるだけの外側の圧力が存在しない。あるのは「やりたい」という心の内から湧き上がる衝動、つまり内側からの圧力のみです。このバラバラな方向に向いた衝動の行く先とは彼女達がそれぞれ目指した目的地――なりたい自分でしょう。

 作品内で散々肯定されてきた衝動こそが同好会を動かす原動力なのです。これは個を尊重するために衝動を肯定したからの帰結であり、やはりソロ活動というのは舞台設定的な意味でもテーマ的な意味でも虹ヶ咲だったからこそです。

第3節 自己実現の姿であるステージの自分

  アニガサキのソロアイドルとしての帰結は自己実現にあります。内容的に2節2項と分けない方が読みやすいかと思いましたけど、特に強調したい内容でもありますので第3節として別個に書いていきたいと思います。

 

 さて、人は誰しもなりたい自分というものを持っています。それはどんな形でも構いません。社会的に高い評価を得ている職業に就くとか、卓越した知識・技能を手に入れたいとか、人気者になりたいとか…。うまい例が思いつかなかったのでこんなものしか挙げられなくて申し訳ないですけど、まあその中身はなんでもいいです。きっと今の自分に完全に満足して、それ以上の向上心を失くす事態というのはありません*7

 人には常に自分が向かいたい場所が存在します。それこそがアニガサキにおけるスクールアイドルの目標であり、2節2項で書いたなりたい自分です。「学校を救う」のような外的な目的が無い代わりに、なりたい自分になる=人間が持つ自己実現の欲求を充足させるという内的な目的が主題になったわけですね。

 

 しかし全員が全員、かすみやせつ菜のようになりたい自分像を既に持っているわけではありませんでした。この話は4話で扱われていて、限りない自由さの中で内的な力のみで動こうとすれば愛のように迷子になってしまうことが示唆されています。愛の場合は、自分の好きなこと(=楽しむこと)こそが自分の目指すべき場所だと自覚し目標が定まります。好きなこと・やりたいことこそが向かうべき場所というのは、愛以外にも一般的に適用できる思想として描かれているように思われます。1節で書いた衝動を肯定することにより表出する人 本来の姿――これが人間の向かいたいところ、つまりなりたい自分とアニガサキは言っています。再度同好会が発足して1番最初にやる話として、自分と向き合い、自分のなりたい自分を見つける話が挿し込まれたのは意義のあることです。

 スクールアイドル活動の自由さについては、同じく4話でかすみにより「スクールアイドルに正解はない」と言及されていました。何でもやれて正解が存在しないスクールアイドル活動の懐の大きさが、登場人物の衝動を受け止めるだけの地盤となったということでしょう。

 

 そして、アニガサキにおいてステージに立つ自分となりたい自分は等価です。分かりやすいのは璃奈・しずくの2人でしょう。みんなと繋がりたいと思いつつ自分に自信が持てなかった璃奈がステージに立ったときの姿。自分をさらけ出したいと切望していたしずくがステージに立ったときの姿。あとは、可愛いを追求し続けるかすみにとってステージに立つことはそれを最大限に表現する場であるとか。つまりアニガサキではステージに立つこと=なりたい自分になる=自己実現と位置づけられています。話の流れでも問題を解決し、最後に訪れるのがライブシーンで、その瞬間の彼女たちは必ず理想の自分へ一歩近づいています。自分のなりたい自分になる、これこそアニガサキが13話かけて描いてきたものではないでしょうか?

  • 3rdライブで2期が発表されたことで断言できるようになった事柄があって、やはり1期は「始まり」の物語であるってことですね。1期で各々自己実現のためステージに立ちましたが、それは目標に向かう第一歩を踏み出せただけというわけです。もちろん、自己実現の欲求という終わりのないものを求めているのでそれを達成したらゴールはい終了!なんて事はありませんが、それでも彼女たちが最初の一歩を踏み出せたっていう意味合いを特に強く押し出していたことは明らかです。璃奈なんかはボードを取って表情を伝えることが後の目標になると思いますけど、6話ではそこまでいってなかったりしてますしね。衝動を肯定した結果、自分のなりたい自分へ少しだけ近づけた。13話ラストに歩夢が言った「はじめてよかった」はアニガサキ1期でスクールアイドル側が到達した回答でしょう。これは初代やサンシャインでも強く主張されてきた「始めること」への強い激励でもあり、やはりアニガサキはラブライブシリーズなんだと実感させられますね。

第4節 1章まとめ

  アニガサキには登場人物を動かす外的な圧力が存在せず、かつ自己の衝動という内的な原動力を肯定することにより自己実現を目的として話が展開されました。ソロアイドルでの活動は各々が抱く理想の自分へ向かって全力で走るため、グループという1つの集団になることができなかったことによる結果です*8。また、ステージに立つことは自己実現を果たすことと同義であり、1期では初めの一歩をようやく踏み出せたことを意味していました。

 


第2章 私(=スクールアイドル)とあなた(=ファン)

 1章で書いたことを端的に言えばスクールアイドルという人間の内側の話です。次は、スクールアイドルの背中を押す存在――ファンの話について書きたいと思います。これは1章で内側(=自分)にフォーカスしたのに対して、スクールアイドルの外側(=他人)に焦点を当てるものです。

第1節 アイドルとファンの境界

 アニガサキに登場する人間は大きく分けて3つに分類できます。同好会のメンバー、侑、ファンの3種類です。侑とファンは同質な存在であるため*9、もしかしたら分けなくてもいいかもしれませんね。その場合、このアニメに登場する人間はアイドルとファンに二分できます。そこで僕が取り上げたいのはこのアイドル / ファンの境界線がどこにあるかについてです。

 μ’sやAqoursの場合、グループのメンバーはみんな同じ目線に立つアイドル同士です。ファンというのはこれらのグループの外側にいる人間を指します。しかし同好会はソロアイドルの集合。このとき、μ’s・Aqoursのように同好会の内と外で線を引くことも可能ですが、僕は当人とそれ以外で線が引かれていると思います。つまり、共にアイドルとして活動する同好会メンバーすらファンの立場に置けるということです。象徴的なのは かすみ→しずく の関係でしょうか。8話でかすみがしずくに告げた言葉は、「あなたのファンである」と言い換えられます。

  • 3rdライブDAY2で久保田未夢さんが言っていた「私にとってはみんなも「あなた」だよ」はまさにこのことだと思います。アニメを作る側の方から僕の見方と合致する言葉が聞けて嬉しかった…。

 1章でも書きましたがメンバー間で互いを肯定しあい、助け合ったり、背中を押し押される関係になっています。この関係はアイドルとファンとしてです。これはアニガサキの特殊性でしょう。

第2節 ファン→アイドル から アイドル→ファン へ

 これまで(初代・サンシャイン)、ファンがアイドルの背中を押すという構図が前面に出ていました。それはアニガサキにおいても同様です。しかし、それは10話以降から転換し始めます。決定的なのは「夢がここからはじまるよ」を歌う前に同好会の一人一人が言葉を紡ぐシーン。スクールアイドルフェスティバルは13話サブタイトルで「みんなの夢を叶える場所」と字が当てられています。「みんな」とは従来シリーズから積み上げられてきた文脈を持つ語でもあり、それの意味するところはスクールアイドルとファンを含めた全員のことです。

 「みんなの夢を叶える場所」というキャッチフレーズは過去シリーズの「みんなで叶える物語」の対極にあるものだと僕は考えています。従来シリーズではファンがアイドルに夢を託し、背中を押すことで「みんな」が抱く1つの大きな夢を成就させてきました。対してアニガサキでは、夢の形は人の数だけ存在し、その夢を叶えるためアイドルがファンに向かって行動をします。かすみんボックスの意見募集でファン一人一人がそれぞれ異なる夢を持っていることを示し、その全ての要望に応える(様々な会場でライブをする)のがスクフェスでした。

 夢が人の数だけ存在する・アイドルがファンの願いを叶えるため働きかける。この2点もまたアニガサキの特殊性です。前者はやはり虹ヶ咲の根幹にある個の尊重により生じた視点でしょう。従来、ファンは「ファンという集団」としてしか描かれていなかったものが、「個人の集合であるファン」とミクロな考えが導入されています。集団を1つの存在として扱わず、あくまでも個人の集合でしかないと考え、それぞれの願いをピックアップし向き合う姿勢はやはり個の尊重だと僕は思いました。

  • 何回も擦ってるんですけど、以前に書いた8話の感想文がこのことについて言及しているので再掲します。

    ro-puru.hatenablog.com

第3節 高咲侑

 まず、侑は「ファン」を一般化して人格を与えられた存在です。虹ヶ咲の文脈では「あなた(You)」と表現されていますね。スクールアイドル9人に加えられる形で本作のメインキャラクターとして据えられたイレギュラーな存在。侑というキャラクターには「ファンそのもの」としての性格と、「高咲侑個人」としての2つの性格が同居しています。

 

 これまではスクールアイドルアイドル側からの視点でアニガサキを見てきました。しかし、実際に本作で主格が据えられているのは「あなた」=侑です。アイドルを扱う作品、しかも(?)『ラブライブ!』シリーズでありながらファンの物語を描いている本作。これまではファンから背中を押されるアイドルの物語だったものが、アイドルの背中を押すファンの物語へと転換されます。

 本作の縦軸の物語を担う1話~3話、10話~13話は侑が主体となって展開されました。特に1話~3話は侑の「背中を押すファン」としての性格が前面に押し出されており、1話で自分に自信を持てない歩夢を励まし、3話では心に鍵をかけていたせつ菜を解放しました。4話~9話は別にスポットライトが当てられるキャラクターがいたので一歩下がった描写が増えましたが、それでも常にアイドルを肯定し応援する姿勢が貫かれています。既に書いたように、やはり侑はアイドルを応援するための舞台装置的な役割がありました。舞台装置的な性格を持った二人称のキャラクターに主格が置かれている状況、考えてみると結構頭がこんがらがりますね。

 

 10話~13話では再び侑に焦点が当てられ、彼女が主人公として話が進められました。ここで話の転換が起こり、アイドルはファンの背中を押す側へと回ります。スクフェスのことですね。スクフェスはアイドル → ファンという風に大局的な視点からこの関係性を示しています。そして、それと同時に歩夢(=アイドル) → 侑(=ファン)という個人間の微視的な関係についても描いています。

「これからも、つまづきそうになる事はあると思うけど、私を支えてくれたように、あなたには私がいる!」

「だから、全員で歌います!あなたのための歌を!」

(13話・歩夢、同好会) 

  この言葉はライブを見てくれたファン全員に向けた意味と、歩夢そして同好会メンバーが侑に対し1対1で送った意味が込められています。歩夢と侑の、そして同好会と侑の紡いできたドラマを鑑みると、あなた=侑に送るシチュエーションとして美しくて、個人的にここはすごく好きな部分です。

 物語のラストはスクールアイドルに背中を押された侑が初めの一歩を踏み出すシーンで幕を下ろします。初代・サンシャイン・アニガサキと背中を押され続けてきたスクールアイドルがファンへお返しする話。それが僕から見えたアニガサキでした。

第4節 スクールアイドルの存在

 このアニメのスクールアイドルは、見た人の衝動を誘発させる(トキメキを与える)存在として描かれてきました。侑・歩夢・愛・璃奈にトキメキ与えたせつ菜のように。また、エマもスクールアイドルに憧れて海を超えてやってきましたね。

 内側に目を向ければ自己実現のためステージに立ちますが、外側では誰かの動き出すきっかけになっている。4話でかすみは「アイドル活動はお客さんに喜んでもらえればいい(要約)」と言いました。これもやはりこの作品の言いたいところだったのではないでしょうか。アイドルはファンがいなければ成立しません。ファンの期待に応え、ファンを応援する。ファンと同じ目線に立ち(歩夢と侑、スクフェスのアイドルとファンのように)夢を与え、背中を押し、押される。それが本作の言うスクールアイドルだった。そう僕は思います。

 

第5節 2章まとめ

 ファンに主格を置かれた本作は、従来シリーズのようにアイドルの背中を押し続けてきました。しかし終盤ではその立場が一転し、今度はアイドルがファンを激励する立場に回ります。これは、『ラブライブ!』シリーズそのもののアンサーだとも考えられるでしょう。スピンオフ的立ち位置にある虹ヶ咲だからできたことかもしれません。

 侑はファンの代表として人格を与えられ、アイドルとファンの関係を歩夢と個人間単位で成立させました。アイドルに触発されたファンが何かを始めるきっかけとする――恐らくアニガサキで最も描きたかったものの1つ(もう1つは個の尊重)です。そして、ここにこそファンをメインに据えた意義が出てきます。スクールアイドルによってトキメキを感じ、動き出した侑が志したのは音楽への道です。スクールアイドルに憧れてスクールアイドルを始めた穂乃果・千歌とは異なります。それの意味するところは、生まれたトキメキの向かう先は何でもいいということ。トキメキをくれた存在と同じ道を歩む必要はなく、自分の本当にやりたいことをする。侑という一例をピックアップし最初の一歩を踏み出す始まりの物語とした今作は、そのメッセージを克明に描いていました。

 


 雑感

  できればアニメ感想文は主観を抜いて客観性を保ったまま書きたいと思っています。それでもやっぱり、感情を前面に出した感想文を書きたくなるもので、いつも雑感ではそういうものを書いています。2章もだいぶ私見が入ってしまったのですが、こちらはそれ以上に僕の感情文を書こうと思います。

中須かすみについて

 このアニメでは自分でどうにもならない状況に陥ってしまったとき、他の誰かに助けてもらう描写が多々あります。散々文中で使用した「背中を押される」というワードに当てはめることができるでしょう。しかし、同好会で唯一そんな他人の助けを必要としなかったのがかすみです。彼女は同好会が廃部になっても一人で活動を続け、また2話では自身の問題点を自省によって見つけ出しています。一人で前に進むことができるのです。彼女は物語が始まった時点で既に完成しているキャラクターだったのではと僕は感じました。4話で愛が迷ったような自身の方針については完全に固まっており、強いアイデンティティを確立しています。そういう意味ではせつ菜もそうだったのかもしれません。だからこそ彼女たちはその強い個性がぶつかり合い同時に存在することができなかった。

 かすみの強さ、それは担当曲の歌詞にも現れています。ちゃんと確認はできていませんが、OPEDほかメンバーの担当曲の恐らく全てで他人の必要性について書かれています。印象的なのはツナガルコネクトの「ヒトリでカンペキじゃなくていいんだ…」などでしょう。しかし、Poppin' Up!に関しては完全に内的な歌詞です。かすみは自己研鑽にのみ意識を向け、自分一人で前へ進むことができる少女です。その強さは無敵級*ビリーバーにも現れています。究極的には自分が自分を好きでいればいい、だから自分が可愛いと思える自分になる。そんなかすみの内面を鮮やかに表現した歌詞。個として完成している、それが彼女に抱く印象です。

  • もしかしたら彼女について「強い」って言葉を使うのはアニガサキでは不適かもしれません。「自分一人ではどうしようもなくても、仲間がいてくれる」。アニガサキが13話かけて伝えてきたメッセージを否定しかねないからですね。仲間がいなくても前に進める強さをポジティブなもののように言うことは、すなわちメッセージの否定に繋がるので。それでも、個人の価値を個人で決定できる、これはやっぱり紛れもない強さなんじゃないかと僕は思っちゃいました。

朝香果林について

 果林は同好会に入ってワイワイやるのは自分のガラじゃないと入部を拒否してきました。しかしそれは自分の衝動に蓋をして、本当にやりたいことから目を逸らしている状態です。本当の彼女は誰よりも仲間と一緒にいたかったのではないでしょうか。

 VIVID WORLDではこれでもか!ってぐらい「キミ」と一緒にいることを望む歌詞を歌っていますし、夢がここからはじまるよでは「キミとじゃなかったら」の部分を担当しています。極めつけは9話の「仲間だけどライバル。ライバルだけど、仲間!」です。この人めちゃくちゃ他人のこと好きじゃないですか。 

総括

 このアニメのことめちゃくちゃ好きです。もう去年の秋からずっとこのアニメのことで頭がいっぱいです。3rdライブではめちゃくちゃ泣きました。配信参加の2日目でもギャン泣きして、ライブ後は情緒不安定のあまり実家の食卓で一家団欒中にガチ泣きして、寝る直前まで涙と鼻水を垂れ流していました。それぐらい感情を揺さぶられたアニメです。テーマが深く深く刺さったのかもしれません。

 個の尊重、そのための衝動の肯定。これは優しさです。他人の夢と衝突が発生するのを恐れて自分を我慢してはいけないんです。誰かに嫌われるかもしれないと、本当の自分を押し殺してはいけないんです。人はみな自由であるべきであり、欲求に正直になり抑圧された衝動を解放すべきなのです。なぜなら、人は自分のやりたいをやりきっている瞬間が最も幸福なのだから。これは13話ラストの歩夢が放った「はじめてよかった」に全て集約されているはずです。自己実現に当人の能力の有無は関係ありません。自分がなれる最高の自分になること、それに向かって全力で走り続けることこそに意味があり、本作の特に6話ではこれが叫ばれていました。

 完全に僕の願望ですが、スクールアイドルはファンにそんな幸福へと向かうきっかけを与える存在です。きっかけを与え、背中を押す存在です。向かう先は何度も言うように人の数だけあって、決められていません。自由で、優しくて、そんなこのアニメに出会えて本当によかったな…。 


  

 

highwinterline.net

 こちらのブログ、Twitterのフォロワーさんのものなのですが、初めて見たとき僕の見方とだいぶ近くて驚いたんですよね。それで今回 自分で感想文を書いた後に改めて読んでみたらやっぱりめちゃくちゃ似通ったようなものになっちゃって笑っちゃいました。僕の書きたかったことがより鮮明に、かつそれ以上のものが書かれている記事ですのでこのブログを見ている方がいたらぜひ読んでいただきたいと思い紹介させてもらいました。

*1:欲求とも換言できる。人間は抱いた欲求を全て行動に移すわけではなく、欲求を外に出してもいいか判定する「理性」のフィルターが存在している

*2:歩夢、そしてアニメ自体の意志

*3:劇中ではスクールアイドルを始めること

*4:実際には、「夢を追いかけている人を応援出来たら、私も何かが始まる」と言っているように、自分の夢を追いかける主体性を獲得するための準備期間だったわけですが

*5:Aqoursの場合は青だろうか

*6:サンシャインは互いに違う色であることを認めつつ1つの色になったので、「折れる」ではなく統合とかそういう優しい言葉で表現するのが適切かもしれません

*7:健康な人であれば、と注釈を入れておくべきかもしれませんね

*8:作品のロジックと順番が前後してしまうかもしれませんが、これらは双条件的なものだと思うので問題ないはずです

*9:ファンという集団に人格を与えたのが侑なのだから

初代ラブライブ(1期・2期・劇場版)を見たので、アニメ虹ヶ咲を踏まえた感想

 いきなり気温の高い日が続くようになり、もはや春を過ぎて夏になったか?と思われるこの頃。僕は先週から少しずつ初代ラブライブを見返していました。というのも、アニメ虹ヶ咲(以下、アニガサキ)を視聴するにあたって先代シリーズを知っておいて損はないだろうという判断のもの。アニガサキを見ていてラブライブシリーズの文脈を把握しておかないと困る箇所が存在した手応えもなかったですし、必要に迫られたというより、どちらかというと好奇心に近い興味からの視聴開始でした。

 しかし実際に初代を完走してみた結果、アニガサキは何よりもラブライブシリーズの系譜であり、その先達が紡いできたモノを無視して語るのは不可能だと実感しました。上にも書いた通り、アニガサキを見る上で必ずしも触れておく必要があるものではないのですが、アニガサキが作品で述べていることは初代という土台の上に成り立っており、その土台を見ないふりはできないのです。再三の確認になりますが、アニガサキの主張を飲み込むのに先代シリーズの知識は必要ありません。あくまでもアニガサキが生まれた経緯を知るのに不可欠な存在というわけです*1

 というわけで初代を見ていて気づいた点をポツポツ書いていこうと思います。2クール真剣視聴したわけでないので、自信を持って発信できる内容か不明ではありますが、備忘録としてもね。

  

 「1. 今までのラブライブに対するスタンス」は本当に昔話なので今回書きたいこととはあまり関係ないです。

 

 

1. 今までのラブライブに対するスタンス

 ラブライブシリーズに初めて触れたのは初代1期が放送されていた2013冬。もう8年も前ですね。当時は中学2年生で、深夜アニメに触れ始めて2年ぐらいの若いオタクでした。この頃にはもう放送されているものをとりあえず見るという視聴スタイルを確立していたので、そこそこアニメに触れてきた時期だったと記憶しています。

 そんな当時の初代への印象は恐らく「キャラが可愛いアニメ」ぐらいのものだったと思います。今でもこんな感想しか抱けないことが多いので、ましてや昔の僕なんてそんなもんでしょう。それでも、2期を見終えるまではコンテンツに対してマイナスイメージを抱くことはありませんでした。

 

 問題は2期が終わったあとの期間。2期は高校1年生の春に放送されていました。ちょうどこの時期ぐらいから2chで雑談板に入り浸るようになり、まとめサイトを見るようになり、Twitterでは様々な人をフォローするようになりました。恐らく2chの影響が強かったのでしょう*2、高校生の僕はみるみるうちに冷笑オタクになっていきました。2chを覗いたことがある人は分かると思いますが、10年代中盤ぐらいからの雑談板はそういう風潮がより強くなっていた時期でもあります。

 初代2期の終了後、ラブライブというコンテンツの人気は最盛を迎え、いわゆるラブライバーと呼ばれるラブライブファンが大量に生まれました。その方々が起こす様々な問題は頻繁にネットで話題となり、その度にラブライバーを中傷するスレやツイートが溢れかえるようになりました。高校生の僕はそういった内容の話題を好み、よく見ていたのを覚えています。ここまでなら人格的に難のあるオタクで終われたものの、事もあろうに僕はラブライバーを通してラブライブ自体を見下すようなスタンスをとるようになってしまいました*3。それ以来、以前は初代を好意的に受け止めていた姿勢を一転させ、さながらアンチとも言えるスタンスへと変化させていきます。

 人間は嫌いなものをさらに嫌いになるよう記憶を改ざんする生き物。初代を自分の思想と真っ向から反発するアニメだと思い込みこれまで避けてきました。(サンシャインに関しては別アニメということで、巻き添えを食らって嫌いになるようなことはありませんでしたが)

 

 時は経ち現在。初代の内容をほとんど忘れ、高校生の時分に培ったマイナスイメージだけが胸に残っていました。これが原因だと思われますが、僕は初代においてラブライブ(大会)は絶対に優勝しなくてはならないものであり、この大会こそが作品内における絶対的な価値観だったと勘違いを起こします*4。いや、これは本当に勘違いだったんですよね、詳しくは次に書きますが。こういう経緯があり、アニガサキ3話で読み違えが発生したり、よく覚えてもいない初代をあまり好きでない作品だったと言ったり、色々とよくないことをしてきました。というわけで、今回の文章は今までの誤った認識を改めた報告でもあります。

 

2. ラブライブ(大会)について

 タイトル通り。初代におけるラブライブ(大会)の立ち位置について。これは 1. にも書いた通り完全に誤解していました。初代を見返して気づいた最大のポイントはここです。

 ラブライブとはスクールアイドルの全国大会なようなものと作中で表現されています。実際にそんなようなものでしょう、投票によって予選・本戦で勝ち抜いた全国トップのスクールアイドルを決定する催し。初代とは、この大会でトップを取ることを目標として努力し、苦難を乗り越えていく物語…なんかではありませんでした。これが私の勘違いです。スポ根という看板だけで、初代は大会を至上の価値観として据え、これで優勝できなければすべてが無駄になる作品――そんな風に初代を捉えていました。

 

2.1 初代におけるスクールアイドルの全国大会ラブライブ

 初代では1期と2期共にラブライブの出場・優勝を目指しています。しかし、それぞれ別の本質的な目標があり、優勝そのものは手段に過ぎませんでした。その本質的な目標とは

  1. 1期 音ノ木坂学院の廃校を阻止する
  2. 2期 μ’sの9人で活動した足跡を残す

となります。2期の方は優勝そのものに価値を置いているところもあるかもしれないですが、それはより濃い足跡を残すためだと考えられます。ではそれぞれについてもう少し書きましょう。

 

 1期は、少子化の煽りを受けた志願者数減少により廃校の危機に陥っていた音ノ木坂学院を救うお話となります。そのための手段がスクールアイドル。そして、その活動を手っ取り早くアピールできる場がラブライブでした。つまり、学校の魅力を伝え廃校を阻止するためにスクールアイドルとしての活動を開始し、その活動を多くの人に見せつけるためのラブライブ。なので、ラブライブで優勝できなくとも廃校を免れれば目的達成というわけです。そして実際に、1期ではラブライブへの出場を辞退したものの、学校への志願者数は増加し廃校は見送られることになりました。1期は明確にラブライブを至上の価値と置いていないことが分かりますね。

 

 そして2期。こちらは少し事情が変わっているので、正直 上で書いたことを断言できかねているのですが、優勝への強すぎる妄執のようなものはなく、トップを目指すスポ根にありがちな毒を抜かれたような作品になっています。2期1話の花陽の言から足跡を残すことが今回の目的であると読んだものの、スクールアイドルの活動を続けることに楽しさを見出した穂乃果の様子を見るに大会で優勝をすることも目標になっていそうだなとも考えたり。

 2期10話でみんなの想いを背負ったアイドル――『みんなで叶える物語』をキャッチフレーズに定め本戦に挑むわけですが、この”叶える”の意味によっても読み方が変わりそうです。みんなの想いを背負いμ’sが輝くことこそみんなの願いだとするならば、必ずしも優勝を必要としません。しかし話の流れを見る限りラブライブで優勝することによってみんなの願いは成就されるように見えるのです。つまり優勝そのものが目的に設定されていると。ここら辺は僕の読み不足か作中で明言されていないのか不明ですが、μ’sが優勝に固執する理由が見えなかったので上に書いたような結論*5にまとめました。

 

まとめ:初代において、ラブライブは何よりも優先されるものとして描かれていなかった
2.2 アニガサキでのラブライブ(大会)

 では初代でラブライブが絶対の価値観でないとするならば、アニガサキを見る上で何が変わるのかという話です。これは3話で侑がラブライブを否定した発言へと直接繋がります。

 事の発端はせつ菜が同好会を抜けたこと。ラブライブで良い結果を目指すならばグループ全体が1つの色にまとまる必要があったのですが、かすみとの目指すべきところの違いによりそれは実現しませんでした。優勝を目指すならば2人は同居できない、そこで侑の下した決断というのが「ラブライブに出なくていい」です。自分たちのやりたいことへの障害になるならば大会なんて出なくていい。ラブライブを否定することによってアニガサキが主張していることは3つあります。

  1.  1つ目は「個人が持つ個性を尊重する」です。せつ菜は観客に自分の”大好き”を伝えたい、かすみは自分の”可愛い”を表現したい。ラブライブに出場することで少なくとも1名のやりたいことを諦めさせ、無理やり1つのカラーに染めなければならないのならラブライブなんて出なければいい、そう言っています。つまり、個々人それぞれが持つカラーを大事にという虹ヶ咲*6の根本となる思想が叫ばれています。初代では高坂穂乃果を軸としてμ’s、ひいてはファンまで1つになることで優勝を果たしていましたので、明確に初代と差別化の意図がありますね。
  2.  2つ目の内容は1つ目と被りますが「やりたいことがあるならば、それを曲げなることはない」です。個性を貫き通したいとき、ラブライブという障害があるならば避ければ良い。自分のやりたいことこそが最も尊重されるべきものであり、何人にもこれが阻害されてはいけない。と、少し強めの言葉で書きましたがそれぐらいの気迫をこのアニメからは感じましたね。
  • 実は、この主張は初代にも見らました。2期1話で様々なことに思いを巡らし「ラブライブに出なくてもいいんじゃないかな」と言う穂乃果をμ’sのみんなが激励して勇気づけます。「やりたい気持ちに嘘を付くな・やりたいことを貫き通せ」ここら辺の主張は初代・アニガサキで共通に見られ、これがラブライブシリーズの根幹にあるものなのでしょう。サンシャインをまだ見返していないので断言は難しいですが、十中八九この予想は当たっていると思います。
  1.  もう1つ理由があって、それが今回認識を改めたかどうかで見方が変わってくるものです。以前と現在の認識を並べると

     以前▶初代では、ラブライブで優勝することこそが至高の価値

     現在▶初代では、ラブライブは必ずしも出場・優勝が必要とされない

    です。以前の認識でいくと、ラブライブの否定はそのまま従来のラブライブシリーズからの脱却を意味することになります。しかし、現在改めた認識では、アニガサキは初代の「大会は目的を達成するための手段でしかない」という思想を引き継ぎ踏襲した作品になりそれぞれ真逆の読み方になります。この読み方の逆転こそが今回の再履修の最も大きな収穫だったでしょう。

     

まとめ:アニガサキ3話でのラブライブの否定は「個性の尊重」「意思の尊重」「従来シリーズの踏襲」を主張していた

3. アイドルとファンの関係

 これは2.2で書いたμ’sがみんなの想いを背負って叶える存在という話になります。初代ではアイドルという存在はファンから応援されるモノとして描かれています。2期10話で「ファンのみんなの応援を原動力にして、みんなの夢を背負い叶える存在がμ's」と明言されていますからね。これ、アイドルの立場からすれば「ファンの夢や願いを背負う」と捉えられますが、ファンからすれば「アイドルに夢を託す」ことに違いないです。対してアニガサキはこれに真っ向からぶつかります。物語の始まりこそ アイドル(アライズ/せつ菜) のライブを見た 観客(穂乃果/侑) が突き動かされる似たシチュエーションです。それでもこの2つの物語が別々の道を歩んだのは、穂乃果がアイドルの道を、一方の侑はファンの道を進んだことによる帰結に思われます。

 初代では2期9話にあるようにアイドルはファンに背中を押され前に進む存在です。強まる雪の影響で交通網が麻痺し、会場へ向かうことが絶望的になった状況で助けてくれたのは音ノ木坂学院の全校生徒。彼女らはμ’sに夢を託し、成就させてもらうため手助けをするのです。この出来事を根拠の1つにして、2期10話でファンのみんなの応援を原動力としている旨の発言がなされるわけですが、これが初代におけるアイドルとファンの関係でしょう。

  • これは脱線話ですが、穂乃果を軸にしてみんなの夢が託されるということは、必然的に夢が1つに収束することになります。虹ヶ咲の多様性を求める姿勢とこの在り方は相容れません。従って2.2のラブライブの否定が出てくるわけですが、それ以外にもアニガサキではスクフェスが大きなイベントとしてあります。スクフェスを開催するにあたり、同好会は観客の様々な意見を受け入れ、それらを全て実現するためお台場全体を会場としました。初代では夢の形が1つであるのに対し、アニガサキでは観客の数だけ夢があったのです。多様性を最高の価値とするアニガサキらしいやり口ですね。

 

 一方でアニガサキにおけるアイドルとファンの関係は初代と異なるものになります。初代がファンの夢をアイドルに託し背中を押して叶える物語という結論に至ったのに対し、アニガサキはファンの数だけ存在する夢をアイドルが叶える物語になります。象徴的なのは先程にも述べたスクフェスでしょう。無数に存在した夢を全て受容し実現する。それぞれが抱く夢を肯定する姿はまさに「自由と肯定」の物語です。

 そして、そんなアニガサキの至った結論というか帰結は、今まで侑(=ファン)に背中を押されてきた同好会の面々(=アイドル)が、逆に侑の夢を応援するというもになります。13話で歌われた「夢がここからはじまるよ」の歌詞によりこの関係が端的に表されています。初代・アニガサキを通してファンから貰い続けてきたアイドルがお返しをする話、それこそがアニガサキなのでしょう。侑(=ファン)を主格に置いた作品であるからこそ描けた物語だと思われます。

まとめ:アニガサキはアイドルからファンへお返しをする話

 

4. 「全体」と「個」

 既に触れている内容でもあり、ここで特筆することがそんなにあるわけでもないのですが、初代とアニガサキの思想の差異は「全体」と「個」の捉え方でも生じています。

 

4.1 初代における「全体」と「個」

 初代では穂乃果を軸にμ’s、ひいてはそのファン、劇場版ではスクールアイドルを愛する者全てがまとまりを持った集団として描かれました。何度も言及した”1つになる”とはこのことですね。最初はバラバラだったμ’s、音ノ木坂学院の生徒あたりは1つになっていく過程が分かりやすいです。再び引き合いに2期10話出すと、あの話でμ’sとファンが1つになりましたが、それはつまり、アイドルの数だけ集団が存在することになります。μ’sが夢を叶えるならば、必ず夢を挫かれたグループが生まれる。

 劇場版はμ’s以外の人々をも救う*7物語となります。穂乃果がスクールアイドルの象徴として関係する全ての人間の夢を背負い叶えるので、全ての人間が等しく夢を叶える形になります。僕の好みの話運びかどうかは置いておき、ロジックとしてはこういう意味合いがあったでしょう。

 

まとめ:初代はスクールアイドルに関係する人々が、穂乃果を軸として1つの大きな夢を叶える話
4.2 アニガサキにおける「全体」と「個」

 アニガサキは徹底的に「個」にフォーカスした話です。どんな集団があろうとも、それは「個」の集合である。そういうスタンスを取り続けています。以前に自分が書いた記事ですが、8話なんかもそういった話だったように考えています。

ro-puru.hatenablog.com

あとはこちらも何度も触れたスクフェスの存在。

 集団があるならば個がある。それぞれの個は全て違うカラーを持ち、1つに染まることを嫌う。「個の尊重」に対するアニガサキなりのアプローチがこれだったのでしょう。

 

まとめ:アニガサキは集団があるならば、必ず個人が存在し、その数だけ個性があると言っている

5. 雑感

 流しで初代を見た結果ですが、こんな風なことを感じました。アニガサキは初代が築いた土台の上に立っており、踏襲する思想があり、一方で対立する思想も内在しています。自分が思っていた以上にアニガサキはラブライブシリーズの一員だったんですね。ナンバリングから外れた作品だからこそのアプローチ(ファンを主格に置いたこととか)があったり、相変わらず面白い作品だと思います。

  ここら辺も書いておきたかったことです。劇場版でのμ’sの尽力の甲斐あってスクールアイドルの存在が一般化した世界がアニガサキとするならば、その多様な活動形態が生まれたことはμ’sに対する最大のリスペクトです。何度でも述べますが、初代を見た結果として、アニガサキは何よりもラブライブシリーズの一員であったと僕は思いました。初代を見返して本当によかったです。

*1:ラブライブシリーズなので当然なんですけど、実際に見てみるまで僕はこのことを考えていませんでした

*2:入り浸る時間が最も長かったので

*3:これは本当に良くないですね

*4:こういう思想が僕の苦手なフィールドなので、そのイメージを作品に押し付けていたのでしょう

*5:ラブライブを絶対のモノとして扱っていない

*6:ここではアニメだけではなく他コンテンツも含めたニュアンス

*7:っていう言い方は少し強い・適切ではないかもしれませんが